↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふわ姫若頭  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/74

第50話 朧月あやかし恋絵巻


 波は引いた。


 だが、現場は残った。


 濡れた大理石の床には椅子が倒れ、割れたグラスが散らばり、水を吸ったカーテンが重く垂れている。


 港では黒い船が沈み、流されたパンが水面を漂っていた。


 泣き疲れた女房たちの横では、濡れたゼブラ柄のドレスが安っぽく光っている。


 その真ん中に、リリアーナは立っていた。


 隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、荒れた会場を見渡している。


 リリアーナは言った。


「……後始末や」


 誰も笑わなかった。


 笑う余裕がなかった。


「まず、生きとる奴の確認や。怪我人、濡れた奴、震えとる奴を分けろ。海賊船と会場は後や。『朧月あやかし恋絵巻』の連中は一か所にまとめろ。空気読めさん、寝るな」


 詠女は、濡れた着物のまま床に座り込んでいた。


 丸眼鏡はずれ、髪はぼさぼさで、目も死んでいる。


「私、今なら気絶できます」


「するな」


「労働から逃げるための気絶です」


「余計するな」


「せめて布団を」


「後や」


「後始末って、後に始末するから後始末じゃないんですか」


「今するから後始末や!」


「日本語が現場に負けてる」


「黙って座っとけ!」


 給仕服のまま動いていたミレーヌが、黒革手帖を開いた。


「記録します。空気読めさん、労働回避のため気絶を希望」


「記録せんでええ!」


「人材評価です」


「人材なんか、これ」


「人材にします」


「怖いこと言うな」


 床には、まだ水が残っている。


 グランヴェール兵が貴族たちを誘導し、バルドは入口付近で避難者の数を確認していた。


 レイナはリリアーナの横で淡い光を絶やさず、ノエルは浮いているクリームパンを未練がましく見ている。


「ノエル」


「分かってる。食べない」


「偉い」


「でも、あれだけ浮いてたのに……」


「海水や」


「分かってる……」


「めちゃくちゃ残念そうやな」


「命は助かったけど、パンは助からなかった」


「名言みたいに言うな」


 少し離れた場所では、エリオットがグランヴェール兵を動かしていた。


 顔はまだ青い。


 それでも、しっかり立っている。


「リリアーナ、会場の修復はグランヴェール側で手配する」


「ただ直すだけやったらあかん」


「え?」


 リリアーナの隣で、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が濡れた床へ目を向けた。


 割れた窓。


 港側から流れ込んだ水。


 中央階段で人が詰まりかけた跡。


 避難者が滑った場所。


 波が入り込んだ道。


 リリアーナは、それらを順に指した。


「港の迎賓館やのに、水に弱すぎる。避難導線が少ない。中央階段に人が詰まる。窓が広すぎる。床の水はけが悪い。救護室まで遠い。貴族用と使用人用の道を分けすぎて、非常時に合流できん」


 エリオットは息を呑んだ。


「直すんやない。次に同じことが起きても、死なん形に変える」


 グランヴェールの建設職人たちが、顔を見合わせる。


 白亜の迎賓館を美しく建てる技術はある。


 真珠の装飾も、優雅な階段も、貴族が好む曲線も知っている。


 だが、濡れた床を剥がし、水の逃げ道を作り、詰まる導線を潰し、沈んだ船の材を拾い、朝までに人が通れる状態へ戻す。


 そういう現場には慣れていなかった。


 建設頭が、恐る恐る口を開く。


「姫殿下、すぐに図面を確認し、改修案をまとめます」


「今や」


「今、でございますか」


「床が水吸っとる。木材も濡れとる。朝まで待ったら腐る。窓枠も歪む。今、動く」


 職人たちが、また顔を見合わせた。


 慎重なのだ。


 丁寧なのだ。


 だが今いるのは、美しい建物を作る現場ではない。


 水を吸った現場である。


 その時、外から馬車の音がした。


 一台ではない。


 二台でもない。


 何台もの馬車が、港の迎賓館前へ次々に止まっていく。


 泥のついた靴の者たちが降りてきた。


 先頭にいたのは、鉄ちゃんだった。


 その後ろには鉄ちゃん組。


 さらに、貧民街の男たちや女たち、若い者や年寄りまで続いている。


 荷運びができる者。


 炊き出しができる者。


 木材を扱える者。


 金具を打てる者。


 水を抜ける者。


 百五十人近い人間が、ぞろぞろと港へ降り立った。


「……多いな」


 鉄ちゃんは迷わず頭を下げた。


「波戦争があったって聞きやして」


「早いな」


「親分さんの姫さんが、まだ現場に立ってるって聞いたら、黙ってられねぇ奴らが多くて」


 鉄ちゃんは、濡れた迎賓館と沈んだ船を見た。


「俺ひとりで来る話じゃねぇと思いやした」


 刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司の口元が、わずかに上がる。


 リリアーナも低く笑った。


「……話が早いな」


「現場でさぁ」


 鉄ちゃんの後ろでは、貧民街の者たちがすでに動き始めていた。


 縄を運ぶ。


 板を降ろす。


 水の溜まり方を見る。


 炊き出しの場所を探す。


 怪我人の通路を空ける。


 誰も、ぼんやり立っていない。


 貧民街の人間は、待っていたら食えない。


 だから、手が早い。


 空いている仕事を自分で拾う。


 生きるための癖だった。


 リリアーナは、濡れていない紙を一枚差し出した。


 避難導線。


 水はけ。


 非常口。


 中央階段の詰まり。


 港側窓の補強。


 床の勾配。


 救護室への導線。


 沈んだ海賊船。


 新造船の条件。


 赤い帆と牙の彫刻は要相談。


 ゼブラ柄は禁止。


 鉄ちゃんは一度だけ目を通した。


「楽勝でさぁ」


「ほな、ここ任せる」


「へい」


「グランヴェールの建設チームと揉めるなよ」


「揉めやせん。使いやす」


「言い方」


「現場でさぁ」


 鉄ちゃんは振り返った。


「水抜き、三組! 床剥がし、二組! 窓枠見る奴、行け! 船の方、五十人! 使える材は拾え! 飯班、湯ぅ沸かせ! 怪我人の道、空けとけ! グランヴェールの職人衆は図面出してくだせぇ! 綺麗なとこは壊しやせん! 使えるもんは使いやす!」


 早かった。


 あまりにも早かった。


 グランヴェールの建設職人たちは戸惑っていたが、鉄ちゃん組の怒鳴り声には無駄がない。


 汚れることを嫌がらず、濡れた床を見ればどこから剥がすかを決め、水の流れを見ればどこへ逃がすかを決める。


 柱を見れば、触っていい場所と悪い場所をすぐに見分けた。


 貧民街の者たちも、空いた手で動く。


 椅子をどかし、濡れた布をまとめ、泣いている女房へ湯を渡し、怪我人の足元へ布を敷く。


 貴族の濡れた靴まで、黙って並べていた。


 グランヴェールの建設頭は、しばらくその様子を見ていた。


 やがて鉄ちゃんの前へ進み、深く頭を下げる。


「教えていただけませんか」


 鉄ちゃんが振り返った。


「あ?」


「我々に、この現場の動かし方を」


 鉄ちゃんは一瞬黙り、それからにやりと笑った。


「弟子入りでさぁ?」


「はい」


「なら、まず綺麗な靴を脱ぎなせぇ。現場は、足元からでさぁ」


 職人たちは顔を見合わせた。


 そして一人、また一人と靴を脱ぎ、濡れた床へ入っていく。


 その瞬間。


 グランヴェールの建築は、少し変わった。


 美しい建物から。


 人を生かす建物へ。


「……ええな」


 レイナが、リリアーナの肩へ手を添えた。


「姫様、お身体は」


「まだ動ける」


「ヒールですわ」


「もう癖みたいに撃つな」


「現場ですもの」


「ほんま染まったな」


 ミレーヌが黒革手帖へ書き込む。


「鉄ちゃん組、百五十人規模で現場入り。グランヴェール建設チーム、弟子入り」


「ほな次や」


 リリアーナは、広間の端にまとめられた『朧月あやかし恋絵巻』の者たちを見た。


 逃げ姫。


 女房たち。


 晴明。


 怨霊。


 お稲荷。


 鬼火。


 天狗。


 蛇神。


 そして、座り込んでいる詠女。


「あいつらは王宮預かりや」


「王宮へ?」


 エリオットが目を丸くした。


「ここには置いとけん。人間、あやかし、怨霊、神格っぽいやつが混ざっとる。一旦、王宮の広い客間に入れる」


 詠女が手を上げた。


「客間に布団はありますか」


「ある」


「じゃあ行きます」


「寝るためちゃう」


「待遇の良い監禁」


「王宮預かりや!」


「言い方の違いでは」


「布団と茶は出す」


「待遇は良いです」


「せやろ」


 逃げ姫が、不安そうにリリアーナを見た。


「私たちは……また、どこかへ流されるのでしょうか」


 リリアーナは少しだけ声を柔らかくした。


「流されるんやない。一旦、預かる。話聞いて、危ない奴は分ける。困っとる奴は助ける。その後のことは、こっちで考える」


 怨霊が、濡れた髪の隙間からこちらを見る。


「怨霊も預かると?」


「今ここに置いたら、また沈むやろ」


「否定はせぬ」


「ほな来い」


 晴明が静かに頭を下げた。


「従いましょう」


 バルドが鈴を鳴らす。


 チリン。


「王宮への馬車を手配いたします」


「頼む」


 リリアーナは会場を鉄ちゃんへ任せた。


 グランヴェールの建設チームは、鉄ちゃん組の弟子として動き始める。


 『朧月あやかし恋絵巻』の者たちは、王宮預かりへ。


 海賊船は、引き上げと新造船へ。


 迎賓館は、修復ではなく改修へ。


 波戦争は終わった。


 だが、仕事は増えた。


 その頃、リュミエール王宮でも別の後始末が始まっていた。


 オヤジは、グランヴェール国王や各国の王族、来賓、使者たちを連れて王宮へ戻っていた。


 皆、濡れている。


 震えている。


 顔色も悪い。


 つい先ほどまで、死ぬかもしれないと思っていた者たちである。


 だが、オヤジもまだ濡れたままだった。


 髪先から雫を落としながら、自分の着替えには見向きもしない。


「濡れたままにすな。男どもはこっちで着替えろ。女衆は姐さんとこや。湯も用意しとる。腹減っとるやろ。食え」


 命令は荒い。


 だが、全部が行き届いていた。


 着替え。


 暖炉。


 乾いた布。


 温かい茶。


 女性たちのもとには、姐さんが向かった。


「こちらへどうぞ。冷えたままではいけません。髪も乾かしましょう。大丈夫です。もう安全です」


 その声を聞いただけで、泣き出す者がいた。


 王である前に。


 令嬢である前に。


 貴族である前に。


 ただ、人として怖かった。


 その恐怖が、温かい湯と乾いた布で少しずつほどけていく。


 広間には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。


 肉。


 魚。


 卵。


 野菜。


 ジャム。


 柔らかいパンに挟まれたサンドイッチは、手で食べられる。


 震える者に、ちょうどよかった。


 オヤジは皿を持ったまま、王たちを見る。


「肉がええ奴」


 一人の王が、呆然と顔を上げた。


「え」


「肉や。食えるか」


「は、はい」


「ほな食え」


 別の使者へは魚。


 年老いた王へは柔らかいもの。


 若い令嬢へは甘いもの。


 食べられない者へは温かい茶。


 誰も、飾りとして扱われなかった。


 生き残った人間として扱われた。


 グランヴェール国王が目頭を押さえる。


「兄上……」


「泣くな言うたやろ」


「ですが」


「当たり前のことしただけや」


 一人の小国の王が、サンドイッチを握ったまま震えた。


「私は……死ぬと思いました。ですが、貴方の背中を見た時、ついていけば生きられると思いました」


 別の王も立ち上がる。


「我が国も、リュミエール王国の傘下に加えていただきたい」


 広間がざわついた。


「私もです」


「我が国も」


「我らも、どうか」


「この男の下なら、国は沈まぬ」


 次々に声が上がる。


 グランヴェール国王は、誇らしげに笑っていた。


 オヤジは困ったように頭をかく。


「お前らなぁ。ワシは、当たり前のことしただけや」


 それでも、王たちは引かなかった。


 オヤジは、濡れて震えながらも立ち上がろうとする王たちを見る。


 そして、にやりと笑った。


「お前らも、ワシと世界変えるか」


 広間の空気が止まった。


「お前らみんな兄弟じゃ!」


 それは、王の宣言ではなかった。


 親分の言葉だった。


 盃が用意された。


 またしても、ワインだった。


 グランヴェール国王が笑う。


「兄上、またワインです」


「分かっとる」


「以前も不味いと」


「不味いもんは不味い」


 王たちは、借り物の服のまま盃を持った。


 サンドイッチを片手に持った者までいる。


 オヤジが盃を上げた。


「兄弟の盃や」


「兄弟の盃を」


 全員でワインを口に含む。


 オヤジの眉間に、深いしわが寄った。


「……やっぱワイン不味いな」


 一瞬、広間が静かになる。


 そして誰かが吹き出した。


 王が笑う。


 使者が笑う。


 王妃が笑う。


 グランヴェール国王が泣き笑いする。


 恐怖が、笑いに変わった。


「次は酒変えろ」


「兄上、国ごとに酒を持ち寄らせましょう」


「それや」


「また国が増えましたので」


「言い方」


 その頃、リリアーナは王宮へ向かう馬車の中で、ようやく背を預けていた。


 体は限界に近い。


 足は重く、息も浅い。


 それでも最後まで現場に立てたのは、レイナがいたからだった。


 窓の外では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、馬車と並ぶように静かに進んでいる。


「姫様、お身体は」


「大丈夫や」


「ですが」


「レイナ」


 リリアーナは、まっすぐレイナを見た。


「今日は、助かった。お前のヒールがなかったら、途中で倒れとった。人も逃がされへんかったし、現場も見られへんかった。この借りは、必ず返す」


 レイナが目を見開いた。


「姫様……?」


 頬が、ゆっくり赤くなる。


 ミレーヌは黒革手帖を開こうとして、そっと閉じた。


「今のは記録しないのか」


「これは、レイナ様の記憶に残るべき案件かと」


「なんやそれ」


 レイナは、両手を胸の前で握った。


「借りなどと……私は、姫様のお傍にいたかっただけですわ」


「それでもや。助けてもろた恩は忘れん」


「では、いつか返していただきますわ」


「せやな」


「必ず」


「分かっとる」


「逃がしませんわ」


「言い方怖いな」


「現場ですもの」


「そこで現場使うな」


 馬車の中へ、柔らかな沈黙が落ちた。


 リリアーナは窓の外を見る。


 濡れた港。


 灯りの下で動く鉄ちゃん組。


 沈んだ黒い船。


「……オヤジも、やっぱりかっこええわ」


 レイナが、少しだけ目を細めた。


「国王陛下は、本当にご立派でしたわ」


「自分は最後に出て、王たち逃がした。今頃、自分は濡れたままで、他の奴ら先に着替えさせとる。腹減っとる奴には飯出して、震えとる奴には湯出してるわ」


 ミレーヌが頷く。


「国王陛下なら、そうなさるでしょうね」


「やろ。そら惚れるわ」


 馬車が王宮へ入った。


 広間から笑い声が聞こえる。


 扉が開かれると、その真ん中にまだ濡れたままのオヤジがいた。


 盃を片手に、王たちと笑っている。


「……やっぱワイン不味いな」


 広間に、また笑いが起きた。


 リリアーナの口元が少しだけ上がる。


「……やっぱりな。自分だけ濡れたまま、他の奴ら助けて、飯食わせて、笑わせて、そのまま兄弟増やしとる」


 ミレーヌが黒革手帖を開いた。


「記録します。リュミエール王国、また国が大きくなりました」


「やっぱりか」


 親分の背中と。


 若頭の現場。


 その両方で、世界が変わっていく。


 そして後日。


 『紅月の海賊ヴァンパイア』の新しい船は、鉄ちゃん組によって完成した。


 赤い帆。


 牙の彫刻。


 前より頑丈な船体。


 なお、ゼブラ柄は採用されなかった。


 波戦争の後始末をしていたはずなのに、現場も国も増えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
あれよあれよと思いながら話の展開が面白く読ませていただいてます。 オヤジがカッコいい!男が男に惚れる!兄弟仁義が乙女ゲームという全く違うところで展開していくとは! 化学反応が面白いです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。