第50話 朧月あやかし恋絵巻
波は引いた。
だが、現場は残った。
濡れた大理石の床には椅子が倒れ、割れたグラスが散らばり、水を吸ったカーテンが重く垂れている。
港では黒い船が沈み、流されたパンが水面を漂っていた。
泣き疲れた女房たちの横では、濡れたゼブラ柄のドレスが安っぽく光っている。
その真ん中に、リリアーナは立っていた。
隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、荒れた会場を見渡している。
リリアーナは言った。
「……後始末や」
誰も笑わなかった。
笑う余裕がなかった。
「まず、生きとる奴の確認や。怪我人、濡れた奴、震えとる奴を分けろ。海賊船と会場は後や。『朧月あやかし恋絵巻』の連中は一か所にまとめろ。空気読めさん、寝るな」
詠女は、濡れた着物のまま床に座り込んでいた。
丸眼鏡はずれ、髪はぼさぼさで、目も死んでいる。
「私、今なら気絶できます」
「するな」
「労働から逃げるための気絶です」
「余計するな」
「せめて布団を」
「後や」
「後始末って、後に始末するから後始末じゃないんですか」
「今するから後始末や!」
「日本語が現場に負けてる」
「黙って座っとけ!」
給仕服のまま動いていたミレーヌが、黒革手帖を開いた。
「記録します。空気読めさん、労働回避のため気絶を希望」
「記録せんでええ!」
「人材評価です」
「人材なんか、これ」
「人材にします」
「怖いこと言うな」
床には、まだ水が残っている。
グランヴェール兵が貴族たちを誘導し、バルドは入口付近で避難者の数を確認していた。
レイナはリリアーナの横で淡い光を絶やさず、ノエルは浮いているクリームパンを未練がましく見ている。
「ノエル」
「分かってる。食べない」
「偉い」
「でも、あれだけ浮いてたのに……」
「海水や」
「分かってる……」
「めちゃくちゃ残念そうやな」
「命は助かったけど、パンは助からなかった」
「名言みたいに言うな」
少し離れた場所では、エリオットがグランヴェール兵を動かしていた。
顔はまだ青い。
それでも、しっかり立っている。
「リリアーナ、会場の修復はグランヴェール側で手配する」
「ただ直すだけやったらあかん」
「え?」
リリアーナの隣で、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が濡れた床へ目を向けた。
割れた窓。
港側から流れ込んだ水。
中央階段で人が詰まりかけた跡。
避難者が滑った場所。
波が入り込んだ道。
リリアーナは、それらを順に指した。
「港の迎賓館やのに、水に弱すぎる。避難導線が少ない。中央階段に人が詰まる。窓が広すぎる。床の水はけが悪い。救護室まで遠い。貴族用と使用人用の道を分けすぎて、非常時に合流できん」
エリオットは息を呑んだ。
「直すんやない。次に同じことが起きても、死なん形に変える」
グランヴェールの建設職人たちが、顔を見合わせる。
白亜の迎賓館を美しく建てる技術はある。
真珠の装飾も、優雅な階段も、貴族が好む曲線も知っている。
だが、濡れた床を剥がし、水の逃げ道を作り、詰まる導線を潰し、沈んだ船の材を拾い、朝までに人が通れる状態へ戻す。
そういう現場には慣れていなかった。
建設頭が、恐る恐る口を開く。
「姫殿下、すぐに図面を確認し、改修案をまとめます」
「今や」
「今、でございますか」
「床が水吸っとる。木材も濡れとる。朝まで待ったら腐る。窓枠も歪む。今、動く」
職人たちが、また顔を見合わせた。
慎重なのだ。
丁寧なのだ。
だが今いるのは、美しい建物を作る現場ではない。
水を吸った現場である。
その時、外から馬車の音がした。
一台ではない。
二台でもない。
何台もの馬車が、港の迎賓館前へ次々に止まっていく。
泥のついた靴の者たちが降りてきた。
先頭にいたのは、鉄ちゃんだった。
その後ろには鉄ちゃん組。
さらに、貧民街の男たちや女たち、若い者や年寄りまで続いている。
荷運びができる者。
炊き出しができる者。
木材を扱える者。
金具を打てる者。
水を抜ける者。
百五十人近い人間が、ぞろぞろと港へ降り立った。
「……多いな」
鉄ちゃんは迷わず頭を下げた。
「波戦争があったって聞きやして」
「早いな」
「親分さんの姫さんが、まだ現場に立ってるって聞いたら、黙ってられねぇ奴らが多くて」
鉄ちゃんは、濡れた迎賓館と沈んだ船を見た。
「俺ひとりで来る話じゃねぇと思いやした」
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司の口元が、わずかに上がる。
リリアーナも低く笑った。
「……話が早いな」
「現場でさぁ」
鉄ちゃんの後ろでは、貧民街の者たちがすでに動き始めていた。
縄を運ぶ。
板を降ろす。
水の溜まり方を見る。
炊き出しの場所を探す。
怪我人の通路を空ける。
誰も、ぼんやり立っていない。
貧民街の人間は、待っていたら食えない。
だから、手が早い。
空いている仕事を自分で拾う。
生きるための癖だった。
リリアーナは、濡れていない紙を一枚差し出した。
避難導線。
水はけ。
非常口。
中央階段の詰まり。
港側窓の補強。
床の勾配。
救護室への導線。
沈んだ海賊船。
新造船の条件。
赤い帆と牙の彫刻は要相談。
ゼブラ柄は禁止。
鉄ちゃんは一度だけ目を通した。
「楽勝でさぁ」
「ほな、ここ任せる」
「へい」
「グランヴェールの建設チームと揉めるなよ」
「揉めやせん。使いやす」
「言い方」
「現場でさぁ」
鉄ちゃんは振り返った。
「水抜き、三組! 床剥がし、二組! 窓枠見る奴、行け! 船の方、五十人! 使える材は拾え! 飯班、湯ぅ沸かせ! 怪我人の道、空けとけ! グランヴェールの職人衆は図面出してくだせぇ! 綺麗なとこは壊しやせん! 使えるもんは使いやす!」
早かった。
あまりにも早かった。
グランヴェールの建設職人たちは戸惑っていたが、鉄ちゃん組の怒鳴り声には無駄がない。
汚れることを嫌がらず、濡れた床を見ればどこから剥がすかを決め、水の流れを見ればどこへ逃がすかを決める。
柱を見れば、触っていい場所と悪い場所をすぐに見分けた。
貧民街の者たちも、空いた手で動く。
椅子をどかし、濡れた布をまとめ、泣いている女房へ湯を渡し、怪我人の足元へ布を敷く。
貴族の濡れた靴まで、黙って並べていた。
グランヴェールの建設頭は、しばらくその様子を見ていた。
やがて鉄ちゃんの前へ進み、深く頭を下げる。
「教えていただけませんか」
鉄ちゃんが振り返った。
「あ?」
「我々に、この現場の動かし方を」
鉄ちゃんは一瞬黙り、それからにやりと笑った。
「弟子入りでさぁ?」
「はい」
「なら、まず綺麗な靴を脱ぎなせぇ。現場は、足元からでさぁ」
職人たちは顔を見合わせた。
そして一人、また一人と靴を脱ぎ、濡れた床へ入っていく。
その瞬間。
グランヴェールの建築は、少し変わった。
美しい建物から。
人を生かす建物へ。
「……ええな」
レイナが、リリアーナの肩へ手を添えた。
「姫様、お身体は」
「まだ動ける」
「ヒールですわ」
「もう癖みたいに撃つな」
「現場ですもの」
「ほんま染まったな」
ミレーヌが黒革手帖へ書き込む。
「鉄ちゃん組、百五十人規模で現場入り。グランヴェール建設チーム、弟子入り」
「ほな次や」
リリアーナは、広間の端にまとめられた『朧月あやかし恋絵巻』の者たちを見た。
逃げ姫。
女房たち。
晴明。
怨霊。
お稲荷。
鬼火。
天狗。
蛇神。
そして、座り込んでいる詠女。
「あいつらは王宮預かりや」
「王宮へ?」
エリオットが目を丸くした。
「ここには置いとけん。人間、あやかし、怨霊、神格っぽいやつが混ざっとる。一旦、王宮の広い客間に入れる」
詠女が手を上げた。
「客間に布団はありますか」
「ある」
「じゃあ行きます」
「寝るためちゃう」
「待遇の良い監禁」
「王宮預かりや!」
「言い方の違いでは」
「布団と茶は出す」
「待遇は良いです」
「せやろ」
逃げ姫が、不安そうにリリアーナを見た。
「私たちは……また、どこかへ流されるのでしょうか」
リリアーナは少しだけ声を柔らかくした。
「流されるんやない。一旦、預かる。話聞いて、危ない奴は分ける。困っとる奴は助ける。その後のことは、こっちで考える」
怨霊が、濡れた髪の隙間からこちらを見る。
「怨霊も預かると?」
「今ここに置いたら、また沈むやろ」
「否定はせぬ」
「ほな来い」
晴明が静かに頭を下げた。
「従いましょう」
バルドが鈴を鳴らす。
チリン。
「王宮への馬車を手配いたします」
「頼む」
リリアーナは会場を鉄ちゃんへ任せた。
グランヴェールの建設チームは、鉄ちゃん組の弟子として動き始める。
『朧月あやかし恋絵巻』の者たちは、王宮預かりへ。
海賊船は、引き上げと新造船へ。
迎賓館は、修復ではなく改修へ。
波戦争は終わった。
だが、仕事は増えた。
その頃、リュミエール王宮でも別の後始末が始まっていた。
オヤジは、グランヴェール国王や各国の王族、来賓、使者たちを連れて王宮へ戻っていた。
皆、濡れている。
震えている。
顔色も悪い。
つい先ほどまで、死ぬかもしれないと思っていた者たちである。
だが、オヤジもまだ濡れたままだった。
髪先から雫を落としながら、自分の着替えには見向きもしない。
「濡れたままにすな。男どもはこっちで着替えろ。女衆は姐さんとこや。湯も用意しとる。腹減っとるやろ。食え」
命令は荒い。
だが、全部が行き届いていた。
着替え。
暖炉。
乾いた布。
温かい茶。
女性たちのもとには、姐さんが向かった。
「こちらへどうぞ。冷えたままではいけません。髪も乾かしましょう。大丈夫です。もう安全です」
その声を聞いただけで、泣き出す者がいた。
王である前に。
令嬢である前に。
貴族である前に。
ただ、人として怖かった。
その恐怖が、温かい湯と乾いた布で少しずつほどけていく。
広間には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
肉。
魚。
卵。
野菜。
ジャム。
柔らかいパンに挟まれたサンドイッチは、手で食べられる。
震える者に、ちょうどよかった。
オヤジは皿を持ったまま、王たちを見る。
「肉がええ奴」
一人の王が、呆然と顔を上げた。
「え」
「肉や。食えるか」
「は、はい」
「ほな食え」
別の使者へは魚。
年老いた王へは柔らかいもの。
若い令嬢へは甘いもの。
食べられない者へは温かい茶。
誰も、飾りとして扱われなかった。
生き残った人間として扱われた。
グランヴェール国王が目頭を押さえる。
「兄上……」
「泣くな言うたやろ」
「ですが」
「当たり前のことしただけや」
一人の小国の王が、サンドイッチを握ったまま震えた。
「私は……死ぬと思いました。ですが、貴方の背中を見た時、ついていけば生きられると思いました」
別の王も立ち上がる。
「我が国も、リュミエール王国の傘下に加えていただきたい」
広間がざわついた。
「私もです」
「我が国も」
「我らも、どうか」
「この男の下なら、国は沈まぬ」
次々に声が上がる。
グランヴェール国王は、誇らしげに笑っていた。
オヤジは困ったように頭をかく。
「お前らなぁ。ワシは、当たり前のことしただけや」
それでも、王たちは引かなかった。
オヤジは、濡れて震えながらも立ち上がろうとする王たちを見る。
そして、にやりと笑った。
「お前らも、ワシと世界変えるか」
広間の空気が止まった。
「お前らみんな兄弟じゃ!」
それは、王の宣言ではなかった。
親分の言葉だった。
盃が用意された。
またしても、ワインだった。
グランヴェール国王が笑う。
「兄上、またワインです」
「分かっとる」
「以前も不味いと」
「不味いもんは不味い」
王たちは、借り物の服のまま盃を持った。
サンドイッチを片手に持った者までいる。
オヤジが盃を上げた。
「兄弟の盃や」
「兄弟の盃を」
全員でワインを口に含む。
オヤジの眉間に、深いしわが寄った。
「……やっぱワイン不味いな」
一瞬、広間が静かになる。
そして誰かが吹き出した。
王が笑う。
使者が笑う。
王妃が笑う。
グランヴェール国王が泣き笑いする。
恐怖が、笑いに変わった。
「次は酒変えろ」
「兄上、国ごとに酒を持ち寄らせましょう」
「それや」
「また国が増えましたので」
「言い方」
その頃、リリアーナは王宮へ向かう馬車の中で、ようやく背を預けていた。
体は限界に近い。
足は重く、息も浅い。
それでも最後まで現場に立てたのは、レイナがいたからだった。
窓の外では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、馬車と並ぶように静かに進んでいる。
「姫様、お身体は」
「大丈夫や」
「ですが」
「レイナ」
リリアーナは、まっすぐレイナを見た。
「今日は、助かった。お前のヒールがなかったら、途中で倒れとった。人も逃がされへんかったし、現場も見られへんかった。この借りは、必ず返す」
レイナが目を見開いた。
「姫様……?」
頬が、ゆっくり赤くなる。
ミレーヌは黒革手帖を開こうとして、そっと閉じた。
「今のは記録しないのか」
「これは、レイナ様の記憶に残るべき案件かと」
「なんやそれ」
レイナは、両手を胸の前で握った。
「借りなどと……私は、姫様のお傍にいたかっただけですわ」
「それでもや。助けてもろた恩は忘れん」
「では、いつか返していただきますわ」
「せやな」
「必ず」
「分かっとる」
「逃がしませんわ」
「言い方怖いな」
「現場ですもの」
「そこで現場使うな」
馬車の中へ、柔らかな沈黙が落ちた。
リリアーナは窓の外を見る。
濡れた港。
灯りの下で動く鉄ちゃん組。
沈んだ黒い船。
「……オヤジも、やっぱりかっこええわ」
レイナが、少しだけ目を細めた。
「国王陛下は、本当にご立派でしたわ」
「自分は最後に出て、王たち逃がした。今頃、自分は濡れたままで、他の奴ら先に着替えさせとる。腹減っとる奴には飯出して、震えとる奴には湯出してるわ」
ミレーヌが頷く。
「国王陛下なら、そうなさるでしょうね」
「やろ。そら惚れるわ」
馬車が王宮へ入った。
広間から笑い声が聞こえる。
扉が開かれると、その真ん中にまだ濡れたままのオヤジがいた。
盃を片手に、王たちと笑っている。
「……やっぱワイン不味いな」
広間に、また笑いが起きた。
リリアーナの口元が少しだけ上がる。
「……やっぱりな。自分だけ濡れたまま、他の奴ら助けて、飯食わせて、笑わせて、そのまま兄弟増やしとる」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「記録します。リュミエール王国、また国が大きくなりました」
「やっぱりか」
親分の背中と。
若頭の現場。
その両方で、世界が変わっていく。
そして後日。
『紅月の海賊ヴァンパイア』の新しい船は、鉄ちゃん組によって完成した。
赤い帆。
牙の彫刻。
前より頑丈な船体。
なお、ゼブラ柄は採用されなかった。
波戦争の後始末をしていたはずなのに、現場も国も増えていた。




