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ふわ姫若頭  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

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第48話 波戦争


 グランヴェール王国は、港の国である。


 海を持ち、船を持ち、貿易を握り、潮の流れと人の流れと金の流れを読む国。


 そのグランヴェールが、リュミエール王国の傘下に入った。


 同盟ではない。


 傘下である。


 当然、周辺国はざわついた。


 貴族も、商人も、港もざわついた。


 だからグランヴェール王国は、港に面した迎賓館で舞踏会を開くことにした。


 表向きは、友好の夜会。


 本音は、各国貴族への顔見せ。


 もっと本音を言えば。


 グランヴェールは、リュミエールに頭を下げたのではない。


 自ら選び、家族になったのだ。


 それを示すための舞踏会である。


 当然、リュミエール国王も来ていた。


 つまり、オヤジである。


 会場の奥では、グランヴェール国王の隣にリュミエール国王が立っていた。


 グランヴェール国王は、王でありながら、どこか弟のような顔をしている。


 そしてリュミエール国王は、いつものように妙に堂々としていた。


「兄上、本日はよくお越しくださいました」


「堅いな」


「舞踏会ですので」


「せやけど、家族やろ」


「……はい、兄上」


 そのやり取りを見た貴族たちがざわついた。


 グランヴェール王国が、リュミエール王国の傘下に入った。


 それは噂ではない。


 目の前で、王が王を兄上と呼んでいる。


 それだけで、会場の空気は変わっていた。


 会場は白亜の迎賓館だった。


 大きな窓の向こうには夜の海が広がり、月明かりを受けた水面が静かに揺れている。


 港には、商船や貴族の船がいくつも停泊していた。


 そして、その中でもひときわ目立つ黒い船。


 『紅月の海賊ヴァンパイア』の船である。


 黒い船体。


 赤い帆。


 船首には、牙を剥いた獣の彫刻。


 夜へ沈むようなその船は、グランヴェールの港でも異様な存在感を放っていた。


 その船の前で、パード・レオが笑っていた。


 今日のパード・レオは、白黒のゼブラ柄を大胆に取り入れたドレスを着ている。


 派手だった。


 そして、安っぽかった。


 だが、それは既製品ではない。


 本人いわく、オーダーメイドである。


 商店街のパーティードレス店に予算だけ渡し、全力で盛らせたような一着だった。


 胸元の飾りは大きい。


 布は光りすぎている。


 ゼブラ柄は強すぎる。


 ラインストーンは多すぎる。


 王族や貴族が集まる舞踏会で着るには、明らかに浮いていた。


 けれど、パードは堂々としている。


 安っぽいのではない。


 本人の中では、盛れているのである。


 本来、舞踏会は誰でも入れる場所ではない。


 王族や貴族、令嬢、正式な来賓。


 そういう者たちが集まる場所である。


 では、なぜ『紅月の海賊ヴァンパイア』のパード・レオが、当然のようにドレスを着て会場に立っているのか。


 理由は単純だった。


 彼女は、『紅月の海賊ヴァンパイア』のヒロインである。


 ただし、王道の清楚ヒロインではない。


 悪役令嬢が、ヒロインなのである。


 説明しよう!


 『紅月の海賊ヴァンパイア』は、海賊、吸血鬼、夜会、財宝、血の契約、ゴシックな恋愛を売りにした乙女ゲームである。


 そこに、可憐で守られるだけのヒロインは似合わない。


 必要なのは、吸血鬼にも海賊にも怯まず、夜会で睨みを利かせ、断罪される側の顔で場を支配する女。


 つまり。


 悪役令嬢が、ヒロインなのである!


 ただし、パードの場合。


 中身はホラー好きギャルであり、ドレスのセンスは商店街である。


 情報量が多い。


「絵面強」


 パードは月明かりの下で、満足そうに呟いた。


「港、舞踏会、吸血鬼船、黒王子。最高じゃん」


「最後混ぜるな」


 リリアーナは、ゼブラ柄のドレスを見た。


「なんや、そのドレス?」


 パードは裾をつまみ、くるりと回った。


「えー? オーダーメイドで作った」


「オーダーメイドでそれなんか」


「可愛くない?」


「可愛いけど、舞踏会の格式と殴り合っとる」


「勝てばよくない?」


「勝つな」


「パードのためだけに作ってもらったし」


「職人も大変やったやろな」


「めっちゃ盛ってくださいって言った」


「やっぱりお前の指示かい」


「ゼブラ、ラインストーン、胸元強め、裾ふわっと。でも動きやすくて、黒王子に刺さる感じで」


「最後いらんやろ!」


「いるっしょ」


 ぱちん、とレイナの扇が鳴った。


「馴れ馴れしいですわね、貴方」


 レイナは笑っていた。


 だが、目は笑っていない。


「姫様に近すぎますわ」


 パードはレイナを見てから、にやりと笑った。


「え、なに? 護衛? それとも彼女?」


「どちらでも構いませんわ」


「強」


「姫様のお傍に立つ許可は、私が見ます」


「やば。独占欲の絵面強」


「絵面ではありませんわ」


「じゃあガチじゃん」


「ガチですわ」


「レイナ! 舞踏会で火花散らすな!」


 リリアーナが言うと、レイナは扇を胸元へ戻した。


「散らしておりませんわ。防衛です」


「防衛範囲広すぎるやろ!」


「姫様のためですもの」


 給仕姿のミレーヌが、黒革手帖を開いた。


「記録します。レイナ様、パード様へ牽制」


「記録するな!」


「重要です」


「重要ちゃう!」


「恋愛気配ですので」


「仕事せぇ!」


「給仕中です」


「ほんま便利やな!」


 リリアーナは、馬車から降りた。


 今日は車椅子ではない。


 レイナが横につき、バルドは少し後ろを歩いている。


 会場内では目立ちすぎないよう、控えに回る予定だった。


 そしてリリアーナの隣には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立っている。


 普通の者には見えない。


 けれど、レイナには見えている。


 パードにも、ミレーヌにも見えていた。


「歩けておりますわね」


 レイナが嬉しそうに言った。


「まあな。ただ、無理はせん」


「もちろんですわ」


「しんどくなったら、最悪ヒール頼る」


「お任せくださいませ。全回復させますわ」


「言い方が強いな」


「姫様のためですもの」


 レイナは誇らしげに微笑んだ。


 その顔があまりにも頼もしく、リリアーナは少しだけ嫌な予感がした。


 この女。


 本当にやる気だ。


 ヒールを連打する気だ。


 迎賓館の中へ入ると、そこは別世界だった。


 白い大理石の床。


 高い天井。


 大きなシャンデリア。


 壁には、海を描いた絵画。


 窓の向こうには、月に照らされた港。


 グランヴェールの貴族たちは、皆、海の国らしい装いをしている。


 真珠。


 青い宝石。


 銀糸。


 波の刺繍。


 リュミエールの貴族や各国の使者、学園の攻略対象たちも集まっていた。


 エリオットとノエルは、主催国の王子として会場の中心に立っている。


「リリアーナ」


 エリオットが嬉しそうに歩いてきた。


「来てくれてありがとう」


「主催、ご苦労さん」


「父上も、ちょっと緊張してるよ」


「国王が?」


「うん。兄上って呼んでる人の娘を迎えるんだもん」


「情報量多いな」


 ノエルが、エリオットの横から顔を出した。


「リリアーナ! パンあるよ!」


「舞踏会の第一声それか」


「白パンとジャムパンとクリームパン!」


「出したんかい」


「少しだけだよ! グランヴェールの料理人たちが頑張ったんだ!」


 会場の端には軽食台があり、白パン、ジャムパン、クリームパン、小さく切った食パン、ハムやチーズを挟んだ試作サンドイッチまで並んでいた。


 ノエルは誇らしげに胸を張った。


「子どもたちにも、いつかこういうの食べさせたいんだ」


「ええことや」


 リリアーナが言うと、ノエルは嬉しそうに笑った。


 その隣には、見慣れない貴族の少年が立っていた。


 まだ幼いが、妙に落ち着いている。


 腕には、小さな亀を抱えていた。


「ノエル、その子は?」


「僕の友達!」


「亀の方か? 人間の方か?」


「人間の方だよ!」


「亀連れて舞踏会来るな」


「この子、すごいんだよ!」


 ノエルは胸を張った。


「あの子のチート能力、ほんとにやばいんだ!」


「説明が雑やな」


「ほんとにすごいんだよ!」


「何系や」


「生き物とか、異界とか、そういうの!」


「ざっくりしすぎやろ!」


 貴族の少年は、にこにこと亀を撫でていた。


 その亀は、普通の亀に見える。


 少なくとも、今は。


 その時、銀の盆を持った給仕がリリアーナの横を通った。


 妙に姿勢が良い。


 妙に足音が静か。


 妙に目が死んでいる。


 そして盆の下に、黒革手帖を隠していた。


「……おい」


 リリアーナが呼ぶと、給仕がすっと振り返った。


「はい」


「なんでおんねん!」


 ミレーヌだった。


 黒の給仕服。


 白いエプロン。


 銀の盆。


 そして、盆の下に黒革手帖。


「給仕です」


「見たら分かるわ!」


「国王陛下のご指示です」


「オヤジかい!」


「舞踏会会場内での姫様の体調管理、貴族動向の観察、不審者確認、恋愛気配の記録を命じられております」


「最後いらんやろ」


「国王陛下は、必要だと」


「オヤジまで何見ようとしてんねん」


「給仕ですので」


「スパイやろ」


「給仕です」


 ミレーヌは、すんとした顔でグラスを配った。


 完全に紛れている。


 給仕として自然すぎる。


 それが余計に怖かった。


「西方貴族、グランヴェール傘下入りに動揺。南方商会、パン流通に興味。北の侯爵、リリアーナ様を警戒。中央伯爵令息、レイナ様に睨まれて撤退」


「全部聞いとるやんけ」


「給仕ですので」


「やっぱりスパイやろ」


「給仕です」


 その横には、キャプテントュリラーがいた。


 吸血鬼船長枠である。


 赤い目。


 黒い衣装。


 港の夜が似合いすぎる男。


 その隣には、貴族ヴァンパイア枠のティオ。


 優雅で、顔も言葉も高そうな男だった。


 さらに、ゾンピグ、ヨホーク、チョップ、シャチ、リキュウ、ライガ、ヘイオン、スイチョ。


 『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちは、今日も濃い。


 濃いが、以前より現場に馴染んでいた。


 リキュウはグランヴェールの商人と話している。


 ゾンピグは港の地図を見ている。


 ヘイオンは来賓の動線を確認している。


 チョップは救護室の位置を見ている。


 スイチョは窓から海を見ていた。


 使える。


 癖は強いが、使える。


「……現場復帰しとるな」


 リリアーナが言うと、パードが笑った。


「褒め言葉?」


「まあな」


「じゃあ、黒王子に褒められたってことで」


「お前は相変わらずやな」


「パードはパードなんで」


 パードは軽食台のクリームパンを見た。


「でもこれ、前よりめっちゃマシ。てか普通に食べられる」


「褒め方が雑やけど、褒めとるな」


「褒めてる、褒めてる」


 舞踏会は華やかに進んでいった。


 音楽が流れ、ドレスが揺れ、グラスが鳴り、貴族たちが笑っている。


 グランヴェール国王は、リュミエール国王を兄上と呼びながら各国貴族を迎えていた。


 オヤジは、妙に堂々とその横に立っている。


 エリオットは、王子としてしっかり来賓を迎えていた。


 ノエルは、何度も軽食台のパンを気にしている。


 レイナはリリアーナの横にぴたりとつき、近づく男を目だけで追い払っていた。


 ミレーヌは給仕をしながら、黒革手帖に記録している。


 バルドは、入口近くで避難導線を確認していた。


 今のところ、平和だった。


 今のところは。


 最初に入ってきたのは、潮の匂いだった。


 香水。


 蝋燭。


 花。


 甘い酒。


 磨かれた床。


 そのすべての上から、濡れた海風がかぶさった。


「……ん?」


 リリアーナが顔を上げた。


 会場の奥では、オヤジも顔を上げている。


 刀を肩に担いでいた黒スーツ姿の清司も、同じ方向へ顔を向けた。


 窓の向こう。


 夜の海が、妙に暗い。


 波が高い。


 さっきまで静かだった港の水面が、ざわざわと揺れている。


 次に吹き込んだのは、冷たい風だった。


 春でも夏でもない。


 もっと古い季節の風。


 濡れた絹の匂い。


 古い木の匂い。


 潮と怨念が混じったような匂い。


 会場の端で、誰かが悲鳴を上げた。


「水が……!」


 床へ水が流れ込んでいた。


 最初は細い流れだったが、すぐに広がった。


 大理石の床を這い、ドレスの裾を濡らし、靴の先を冷たく包む。


 シャンデリアの光が、水面に揺れた。


 オヤジもリリアーナも、舞踏会場をただの舞踏会場として見ていなかった。


 癖だった。


 広い部屋に入れば出口を見る。


 人が集まれば、詰まる場所を見る。


 酒があれば、荒れる場所を見る。


 偉い者がいれば、逃がす道を見る。


 華やかなシャンデリアより先に。


 美しいドレスより先に。


 音楽より先に。


 脱出路を見ていた。


 だから、二人の初動は早かった。


 会場の奥で、リュミエール国王が声を上げた。


「国王、王族、来賓はこっちや! ついてこい!」


 低い声が会場を割り、ざわついていた王族たちの足が動いた。


 グランヴェール国王も即座に頷く。


「各国の使者を守れ! 兄上の後ろへ!」


 オヤジは、水の流れを見た。


 崩れかけた大扉。


 波が入り込む窓側。


 人が詰まり始めた中央階段。


 そして、まだ濡れていない奥の回廊。


「こっちや。こっちは抜けられる」


 オヤジは先頭に立ち、王族たちを先へ行かせ、来賓を押し出した。


 グランヴェール国王の背中も叩く。


「弟、行け」


「兄上は」


「ワシは最後に行く」


「……はい」


 王たちが奥の回廊へ流れていく。


 オヤジは一番後ろについた。


 自分より先に王を逃がし、自分より先に来賓を通す。


 誰かが立ち止まれば背を押し、誰かが振り返れば怒鳴った。


「見るな。行け」


 それだけで、足が動く。


 それだけで、背筋が伸びる。


 命令ではない。


 背中だった。


 王たちは、その背中に従った。


 最後にオヤジは一度だけ、リリアーナを見た。


 いや。


 リリアーナの隣に立つ、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司を見た。


「清司!」


 その声が波の音を裂いた。


「あとは頼むぞ!」


 リリアーナの口元が、わずかに上がった。


「任せとけ」


 オヤジは頷き、王たちとともに安全な回廊へ消えた。


 大きな背中が、王を連れていく。


 なら。


 現場は俺の仕事や。


「こっちは動線や! ミレーヌ、右の扉が詰まっとる!」


「はい」


「バルド! 足の悪い者と子どもを左へ流せ!」


「承知しました」


「レイナ、俺を動かせ!」


「ヒールですわ!」


「ノエル! パン見るな、人見ろ!」


「見てるよ! でもパンも沈んでる!」


「後で作る!」


 リリアーナは、水と人を見た。


 逃げようとして、逆に波へ近づく者。


 ドレスの裾を踏み、転びかける令嬢。


 剣を抜いて通路を塞ぐ貴族。


 荷物を捨てられず、立ち止まる商人。


 泣きながら皿を抱える使用人。


「剣抜くな! 邪魔や! 令嬢は裾持て! 走るな、滑る! 商人、港へ出るな! 波が来とる! 使用人、皿捨てろ! 命持て!」


 リリアーナは戦っていなかった。


 けれど、戦場を動かしていた。


 窓の外で、何かが軋んだ。


 船の音だった。


 だが、グランヴェールの船でもない。


 『紅月の海賊ヴァンパイア』の黒い船でもない。


 もっと古い。


 もっと湿った。


 もっと滅びの匂いがする船。


 夜の海の向こうから、ひと隻の船が流れてきた。


 帆は破れ、御簾は濡れ、赤い布が潮を吸って重く垂れている。


 船の上には女房たちがいた。


 濡れた袖で顔を隠し、震えながら泣いている。


 陰陽師の札が風に舞った。


 狐火が揺れた。


 鬼の影が立った。


 天狗の羽音が夜風を切った。


 蛇のような影が、船縁を這った。


 そして、船の中央。


 几帳の布が、ずるりと落ちた。


 そこにいたのは、ひとりの女だった。


 着物はだらしなくはだけ、髪は海風でぼさぼさ。


 顔には丸眼鏡。


 そして、なぜか涅槃像のような体勢で横たわっていた。


「……戦とか、だるいんだけど」


 会場が静まり返った。


「空気読め!!」


 リリアーナが叫んだ。


 刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、険しい顔で船を睨んでいる。


 説明しよう!


 空樹詠女。


 通称、空気読めさん。


 空気を読む女ではない。


 空気を読まない女である。


 平安あやかしの世界観に惹かれ、乙女ゲームだとは知らずにゲームを買った。


 始めてから気づいた。


 これは、乙女ゲームだった。


 本人は思った。


 え?


 BLがいいのに、自分が恋愛するのないわー。


 浪人生。


 干物女。


 引きこもり気質。


 働いたら負けだと思っている。


 攻略されたいのではない。


 攻略対象同士をくっつけたい。


 その結果、行く先々で空気を読まず、周囲から「空気読め!」と怒られ続けた。


 だから、空気読めさんである!


「いや、ほんと無理」


 空樹詠女は、涅槃像の体勢のまま喋り続けた。


「私は晴明様と怨霊さんの湿度が見たいだけなんですけど。なんで私が船で舞踏会に流れ着いてるんですか。しかも水浸し。労働イベントじゃん。働いたら負けだと思ってるのに」


「お前が一番状況を悪くしとるんや!」


 その後ろでは、濡れた平家の姫、逃げ姫が震えていた。


 その目は、逃げてきた者の目だった。


「ここは……どこ……?」


 女房たちも泣いている。


「姫様、こちらへ」


「海が、また」


「都は、どこに」


 晴明が札を構える。


 怨霊が濡れた髪の隙間から笑う。


 お稲荷の狐火が、水面に映る。


 鬼火の足が大理石を踏み割る。


 天狗の風がシャンデリアを揺らす。


 蛇神の影が、水の中を泳ぐ。


 和の怪異が、グランヴェールの舞踏会へ流れ込んできた。


 西洋の夜が、和の海に呑まれていく。


 その時、港側から低い声がした。


「……おい」


 キャプテントュリラーだった。


 笑っていない。


 港に停泊していた黒い船が、大きく揺れていた。


 『紅月の海賊ヴァンパイア』の船。


 その船腹を、異常な波が叩いている。


 赤い帆が水を吸って重く垂れ、ロープが切れ、甲板が傾いた。


 船が、沈み始めている。


「俺たちの船を沈める気か!!」


 キャプテントュリラーが怒鳴った。


 ヨホークが剣を抜く。


 シャチが海へ飛び込む。


 スイチョが水面を走る。


 ライガが前へ出る。


 ティオの目が赤く光った。


 ヘイオンも、静かに海を睨む。


「これは、冗談では済まない」


 パードは、濡れたゼブラ柄のドレスの裾を握りしめていた。


「うちらの船……」


 その目が怒りに染まる。


 けれど、次の瞬間。


「いや、でも絵面は強……」


「パード!!」


「分かってる! キレてる! めっちゃキレてる!」


 黒い船が音を立てて沈んでいく。


 西洋ホラーの象徴のような船が、和の怨念をまとった波に呑まれていく。


 赤い霧が、海の上を這った。


 ヴァンパイアの船から流れ出たそれは、血の匂いをまとっている。


 対する平家の船からは、濡れた札が舞った。


 潮を吸った紙札は、空中で破れながらも怨霊の声を連れてくる。


 黒い翼が広がる。


 白い狐火が揺れる。


 鬼の影が、濡れた床を踏み割る。


 天狗の風が、シャンデリアを揺らす。


 波は赤く。


 霧は黒く。


 札は白い。


 女房たちは泣いていた。


 舞踏会は、もう舞踏会ではなかった。


 西洋の悪夢と和の怨念が、同じ海の上で噛み合っている。


 波戦争が、始まった。


 リリアーナは水の中を走った。


 本来なら、走れる体ではない。


 けれど。


「ヒールですわ!」


 レイナの手から淡い光が飛び、足に力が戻った。


「もう一度、ヒールですわ!」


「便利すぎるやろ!」


「姫様のためですわ!」


「助かるけど、魔法の使い方が雑!」


「現場ですもの!」


「お前も現場に染まってきとるな!」


 給仕姿のミレーヌが、動きながら黒革手帖へ記録した。


『レイナ様。回復魔法ヒールにより、リリアーナ様の現場指揮能力を強制維持。備考、実質バッテリー。』


「誰がバッテリーですの」


「適切な表現です」


「否定できんのが腹立つな」


「ミレーヌ、記録は後や!」


「記録しながら動いております」


「ほんま便利やな!」


 リリアーナは、水の中を走った。


 レイナがヒールを重ねる。


 バルドが避難路を開く。


 ミレーヌが給仕のふりをしながら、貴族たちを誘導する。


 エリオットは、グランヴェールの兵へ声を張った。


「入口を守って! 転んだ人から助けて! 窓の近くには行かせないで!」


「はっ!」


 ノエルも、流されかけた子どもの手を掴んだ。


「こっちだよ! 僕の手、離しちゃだめだよ!」


 その時、ノエルが軽食台を見て目を見開いた。


「パンが!!」


 白パンが流れていた。


 ジャムパンが沈んでいる。


 クリームパンは、水面にぷかりと浮かんでいた。


「パンが沈んでる!」


「人が先や!」


「分かってるよ! でもパンも大事なんだよ!」


「後でまた作る!」


「絶対だよ!」


「約束したる!」


 リリアーナは、流れてきたテーブルを避けた。


「船は後で作る!」


 キャプテントュリラーが振り返った。


「作る!?」


「鉄ちゃん組に話通す! 今は人を上げろ! 沈んだ船より、生きてる奴が先や!」


 海賊たちは、一瞬だけ黙った。


 そしてキャプテントュリラーが、牙を見せて笑った。


「……気に入った。ならば今は、沈めた連中を噛み裂く」


「殺すな! まず止めろ!」


 その時、庭の方から子どもの声がした。


「行ってみる?」


 リリアーナが振り返る。


 庭の端。


 水に濡れた石畳の上で、ひとりの少年が亀の甲羅を撫でていた。


 ノエルが声を上げる。


「あ、あの子!」


「知り合いか!」


「僕の友達だよ!」


 亀が、ゆっくりと首を上げた。


「波の中にも、都がございます」


 亀が喋った。


 いや、正確には。


 亀に喋らせていた。


 少年は、にこにこと笑っている。


「この子、本当は喋れないよ。僕が喋らせてるだけ」


「やばいやんけ!」


 リリアーナが叫ぶと、少年は亀の背へ手を置いた。


「じゃあ、見てくるね」


「おい、待て!」


 水面が開いた。


 少年と亀が、すうっと波の中へ沈んでいく。


 会場の貴族たちが悲鳴を上げた。


 だが、ノエルだけは落ち着いていた。


「あの子は大丈夫だよ!」


「なんでや!」


「チート能力がやばいから!」


「説明が雑!」


「本当にやばいんだよ!」


「何系や!」


「生き物とか、異界とか、そういうの!」


「ざっくりしすぎやろ!」


 ミレーヌが黒革手帖を開いた。


「記録します。チワワの友達、浦島太郎枠」


「枠で片付けるな!」


 水が舞踏会場の床を這った。


 白パンが流れていく。


 ジャムパンが沈む。


 クリームパンが、波に押されてくるくる回る。


 黒い海賊船が沈み、赤い帆が波に呑まれていく。


 濡れた御簾。


 泣き叫ぶ女房。


 潮の匂い。


 流れ着いた平家の船。


 海に消える子ども。


 水に呑まれるパン。


 そして、夜の港に広がる赤い霧と白い札。


 リリアーナは、目の前の光景を見た。


「……これって、壇ノ浦?」

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