第47話 パン革命
朝。
リリアーナの部屋に、一通の手紙が届いた。
差出人は、リュミエール国王。
つまり、オヤジである。
封は雑だった。
字も雑だった。
だが、内容はもっと雑だった。
『グランヴェール、傘下に入った。
今日、エリオットとノエルと、料理人と商人がそっち行く。
後はお前が指示しろ。
面倒見たれ』
リリアーナは、手紙を持ったまま固まった。
その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が手紙を睨んでいる。
ミレーヌも固まっていたが、バルドだけは静かに紅茶を置いた。
チリン。
「本日は、ここまでです」
「どこまでや。驚いただけで終われるか!」
リリアーナは、もう一度手紙を見た。
「……オヤジ、俺の知らんところでデカい国落としやがった」
ミレーヌは、黒革手帖を開いた。
「記録します。グランヴェール王国、傘下入り。通知、手紙一枚」
「雑すぎるやろ」
「国際情勢が、紙一枚で届きました」
「さすがにヤバいぞ」
グランヴェール王国。
世界一と言っても過言ではない権力国である。
海を持ち、軍を持ち、貿易を握り、外交で周辺諸国を動かす大国。
そのグランヴェールが、同盟ではなく、リュミエール王国の傘下に入った。
国が傘下に入るというのは、かなり大きな事件である。
普通なら、戦争や政略、長い交渉や条約、貴族会議や外交文書が必要になる。
だが、オヤジは。
白パンとジャムパンと、兄弟の盃で、世界一の権力国を家族にしてしまったのである。
さすがに規模がおかしい。
その時、部屋の扉が開いた。
「姫様」
入ってきたのはレイナだった。
「レイナ?」
「歩行訓練の様子を見に参りましたの。無理をしていないか、心配でしたから」
「過保護やな」
「当然ですわ」
レイナはそう言ってから、リリアーナの手元にある手紙を見た。
「何かございましたの?」
「グランヴェールが傘下に入った」
レイナの表情が止まった。
「……グランヴェール王国ですわよね?」
「せや」
「エリオット様とノエル様の国ですわよね?」
「せや」
「世界一と言っても過言ではない権力国ですわよね?」
「せや」
「それが、傘下に?」
「せや」
レイナは少し黙り、扇で口元を隠した。
「国王陛下らしいですわ」
「褒めてるんか?」
「もちろんですわ」
レイナの声は真面目だった。
彼女には、普通の者には見えないものが見えている。
リリアーナの横に立つ、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司。
そして、その清司が命を懸けてついていくと決めた男。
リュミエール国王。
オヤジ。
レイナは、あの男がただの王ではないことを理解していた。
人を動かし、国を動かし、王すら家族にしてしまう。
あれは、ただ者ではない。
「今日来るらしい」
リリアーナは、手紙をひらひらさせた。
『今日、行く』
雑である。
「準備する時間もないやんけ」
「それも、国王陛下らしいですわ」
「そこも褒めるんか」
「もちろんですわ」
「信頼が厚いな」
「姫様が信じる方ですもの」
リリアーナは少しだけ黙った。
レイナは、まっすぐこちらを見ている。
その目には、揺らぎがなかった。
「……とりあえず、歩行訓練や」
「はい」
バルドは頷き、車椅子へ手を添えた。
「車椅子も用意しております。無茶は不可です」
「分かっとる」
「分かっている方は、毎回言われません」
「バルドも刺してくるな」
「必要です」
リリアーナは、レイナとバルドに見守られながら短い距離を歩いた。
毎日の訓練で、少しずつ歩けるようにはなっている。
けれど、まだ長くは歩けない。
舞踏会までに、なんとかしなければならない。
だが今日は、それどころではなかった。
「パン工場や」
「はい」
こうしてリリアーナは、ミレーヌ、レイナ、バルドとともにパン工場へ向かった。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、リリアーナのすぐ横を歩いている。
貧民街の外れに近づくと、すでに木槌や荷車、人々の声が聞こえてきた。
粉を運ぶ音。
窯に火を入れる音。
パン工場は、前よりもさらに騒がしくなっている。
「姫さん!」
鉄ちゃんが遠くから手を振った。
「待っておりやした!」
「鉄ちゃん。なんで、もう木材積まれとんねん」
工場の隣では、鉄ちゃん組がすでに建築を始めていた。
柱が立ち、土台が組まれ、水場らしきものまで掘られている。
「工場、増やすんか?」
「へい!」
「誰に言われた」
「オヤジさんに」
「またかい」
鉄ちゃんは、にっと笑った。
「グランヴェールの衆が来る。パンの量が増える。先に建てとけ、と」
「さすがオヤジやな。先回りが過ぎる」
「ええ腕やろ、とも言っておりやした」
「言うと思ったわ」
ミレーヌは黒革手帖へ記録した。
『鉄ちゃん組、工場増設開始済み。理由、国王陛下の先回り。備考、また』
「またって書くな」
「事実ですので」
そこへ、一台の馬車が到着した。
紋章は、グランヴェール王国。
最初に降りてきたのはエリオットで、その後ろからノエルが顔を出した。
さらに料理人や商人、記録係や流通係まで続々と降りてくる。
明らかに、一流の者たちだった。
姿勢が違う。
目が違う。
荷物の持ち方まで違う。
グランヴェール王国の本気である。
「リリアーナ!」
エリオットは嬉しそうに駆け寄りかけたが、途中で王子らしく歩き直した。
「父上から聞いたよ! 僕たち、今日からリュミエールのやり方をお勉強するんだ!」
「大げさやな」
「大げさじゃないよ!」
エリオットは少し頬を膨らませたあと、胸の前で手を握った。
「グランヴェールは、とっても大きいよ。でも、大きいだけじゃ変えられないものがあるんだって。父上が、それを認めたの」
いつもより頼もしい顔をしている。
だが、言葉は素直で、どこか幼かった。
「だから僕も、ちゃんと見たいんだ。いっぱい見て、いっぱい覚えて、グランヴェールへ持って帰るの!」
「ええ顔になったな」
リリアーナは言った。
エリオットは一瞬だけ目を見開き、少し頬を赤くした。
「……リリアーナに言われると、嬉しい」
「俺やけどな」
「うん! それでも嬉しいよ!」
ミレーヌのペンが止まった。
「何止まっとんねん」
「いえ」
「書け」
「記録します。エリオット様、褒められて照れる」
「それは書かんでええ!」
「重要ですので」
その横から、ノエルが飛び出した。
「リリアーナ!」
「走るな」
「走ってないもん!」
「今のは走りかけや」
「父上にも言われた!」
「そら言われるやろ」
ノエルは、以前のように元気よく吠えている。
だが、目が違った。
誰かに自分を見てほしい目ではない。
自分から誰かを見に行こうとする目だった。
「僕ね、許してもらったの!」
「よかったな」
「うん! 孤児院の子どもたちに、おいしいパンを届けるの! グランヴェールでも、いっぱい作る!」
「頑張れよ」
「頑張る!」
ミレーヌは黒革手帖へ記録した。
『ノエル様。父上より許可。備考、チワワ、正式にパン産業参加』
「まだチワワ書くんか」
「成長記録です」
「便利にすな」
工場の中へ入ると、小麦やバター、焼けた皮の香ばしい匂いが一気に広がった。
そこには、試作品がずらりと並んでいる。
白パン。
クロワッサン。
フランスパン。
ジャムパン。
クリームパン。
バターロール。
食パン。
リリアーナは足を止めた。
「……めっちゃ増えとる」
料理長ロアンは、誇らしそうに胸を張った。
「マーガリンおじさん、メガネ聖女、王宮側に残ったモビーズ十名、そしてパン工場の職人百名で試作しました」
マーガリンおじさんも、粉のついた手で頭を下げる。
「まだまだでございやすが」
メガネ聖女は眼鏡を押し上げた。
「工程の記録は取っています。水分量、発酵時間、焼成温度、保存状態。すべて比較可能です」
「完璧やな」
「必要ですので」
「お前も便利やな」
「工程ですので」
グランヴェールの料理人たちは、並んだ試作品を見て息を呑んだ。
「これを、すでにここまで……」
「王宮の添え物ではない」
「主食として成立している」
「甘味まである」
「種類ごとに用途が分けられる」
商人たちの目も変わった。
これは、学ぶだけではない。
広げる仕事だ。
「まずは、こちらを」
ロアンからバターロールを受け取り、リリアーナは一口食べた。
柔らかく、バターの香りが広がり、ほんのり甘い。
朝食にちょうどいいパンだった。
「ええな」
次は、厚く切られた食パンだった。
リリアーナは、白い断面をじっと見る。
「これは使える」
「そのままでも、焼いても良いです。薄く切れば貴族の朝食にも、厚く切れば労働者にも出せます」
「食パン、強いな」
次は、グランヴェール国王を泣かせたジャムパンだった。
ノエルが目を輝かせている。
「これ、子どもたち絶対好きだよ!」
「せやろな」
「いっぱい持っていっていい?」
「まず作り方覚えろ」
「うん!」
続いて出されたクリームパンをレイナが一口食べ、目を少しだけ見開いた。
「……これは、舞踏会の軽食にも出せますわね」
「出すな。舞踏会がパン祭りになる」
「それはそれで楽しそうですわ」
「楽しそうにすな」
フランスパンは、外が香ばしく、中はもちっとしていた。
クロワッサンも、以前より層が綺麗になっている。
白パンは、相変わらず優しかった。
リリアーナは、並んだパンを見ながら少し黙った。
ただ種類が増えただけではない。
選べるようになったのだ。
甘いパン。
食事のパン。
朝に食べるパン。
持ち運べるパン。
特別な日のパン。
毎日のパン。
これは、食卓が変わる。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、リリアーナの横で並んだパンを見ている。
「焼きそばパンは、まだ早いな」
「やきそば?」
ロアンが首を傾げた。
「こっちの話や」
ミレーヌの手がぴたりと止まった。
「……食べたいです」
「お前、素出たな」
「失礼しました」
ミレーヌは、すん、と表情を戻した。
「ですが、焼きそばパンは必要です」
「転生者の顔すな」
「購買部の記憶が疼きます」
「ここ、学園購買ちゃうぞ」
「いつか作りましょう」
「まずはサンドイッチや」
「承知しました。焼きそばパン、未来案として保留します」
「結局書くんか」
「必要ですので」
リリアーナは、食パンを見た。
薄く切れる。
挟める。
持ち運べる。
中身も変えられる。
「サンドイッチはいけるな」
ロアンが顔を上げた。
「サンドイッチ?」
「パンに具材を挟む」
グランヴェールの商人たちが、一斉に反応した。
「挟む?」
「好きな具材を選べる。朝にも昼にもいける。学園にも持って行けるし、労働者の飯にもなる。兵士の移動食にも、貴族の軽食にもなる」
商人の一人が、小さく息を呑んだ。
「それは……売れます」
料理人の一人も目を見開いた。
「食文化が変わります」
「せや」
リリアーナは、並んだパンを見た。
「これは、ただパンの種類が増えただけやない。主食が変わる。持ち運べる飯が増える。働く者の昼飯が変わる。孤児院の子どもらの朝飯も、兵の遠征食も、学園の昼飯も変わる」
工場の中が静かになる。
「これは、パン革命や」
その言葉に、工場の空気が変わった。
「パン革命……」
「食事が変わる」
「仕事も変わる」
「流通も変わるぞ」
グランヴェールの商人たちの目が、完全に商売人の目になった。
ミレーヌは黒革手帖へ記録した。
『パン革命。主食、携帯食、労働者食、学園食、兵糧、貴族軽食へ展開可能。要、サンドイッチ試作』
「具材や。まず具材を考える」
ロアンは大きく頷いた。
「はい」
「まず、たまご。ゆで卵を潰して、マヨネーズと和える」
「マヨネーズとは?」
ロアンが首を傾げると、ミレーヌはすぐに黒革手帖を開いた。
「卵黄、油、酢、塩を混ぜて作る調味料です」
「お前が説明するんか」
「前世知識ですので」
「便利やな」
メガネ聖女も眼鏡を押し上げた。
「卵黄と油を、酢で安定させる……乳化ですね」
「把握早いな」
「工程ですので」
「次、厚焼き玉子。卵を焼いて挟む。甘めでもええ」
ミレーヌのペンが走る。
「たまご。厚焼き玉子」
「次はハム。チーズや野菜と合わせてもええ」
グランヴェールの料理人が頷いた。
「ハムはあります」
「次、ツナマヨ」
「ツナ?」
「魚や。ほぐして、マヨネーズと和える」
商人がすぐに反応した。
「海産物の保存と組み合わせられます」
「せや。グランヴェールは海が強いやろ」
エリオットも嬉しそうに頷いた。
「うん! 海のお船がいっぱいあるよ! お魚も運べる!」
「なら強い」
「僕、お魚の人たちに聞いてみるね!」
「頼むわ」
「任せて!」
「次、ポテトサラダ」
ノエルが首を傾げた。
「じゃがいも、パンに入れるの?」
「じゃがいもを潰して、野菜と合わせる」
「おいしそう! 子どもたち好きかな?」
「好きやろな」
「じゃあ僕、それがいい!」
「まだ決めるな」
「全部作る!」
「欲張りやな」
「だって、いっぱい食べてほしいもん!」
「次、BLT」
「びーえるてぃー?」
全員が首を傾げると、ミレーヌが静かに手を挙げた。
「ベーコン、レタス、トマトです」
「お前が言うんか」
「前世知識です」
「使えるな」
「名称は要検討です。頭文字文化が伝わりません」
「そこもか」
「伝わりやすさは重要です」
「確かにな」
ロアンは、並んだ材料を想像しながら真剣に頷いた。
「挟むものを変えれば、客層ごとに分けられますね。貴族向けは上質なハムやチーズ。学園向けは食べやすいもの。労働者向けは腹持ちの良いもの。孤児院向けは柔らかく、喉に詰まりにくいもの」
「ええやん」
マーガリンおじさんも感心したように頷いた。
「パンが、皿にもなるんでございやすな」
「せや。パンが器にもなる」
グランヴェールの商人たちは、すでに話し合いを始めていた。
「包装が必要です」
「油が染みない紙を」
「持ち運び用の箱も」
「日持ちする具材と、当日用を分けましょう」
「価格帯を三つ作れます」
「貴族用、学園用、庶民用」
「孤児院用は別枠で支援に」
「商人、早いな」
リリアーナが呟くと、エリオットは誇らしそうに笑った。
「グランヴェールの商人さんたち、こういうのがとっても得意なんだよ!」
「頼もしいな」
「いっぱい使ってね!」
「使うで」
工場の入口から、鉄ちゃんが声を上げた。
「姫さん!」
「なんや」
「サンドイッチ用の作業場も要りますかい?」
「早いな」
「今なら隣に足せやす」
「もう建てる気やんけ」
「へい!」
「さすがやな」
リリアーナは工場の外を見た。
鉄ちゃん組が柱を立てている。
グランヴェールの商人が流通を組み始め、料理人が具材を書き出している。
ロアンは工程をまとめ、マーガリンおじさんはパン生地を見ている。
メガネ聖女は乳化と保存を記録し、ノエルは孤児院用の柔らかい具材を考えていた。
エリオットは、全体を見ながら分からないことを一つずつ商人に聞いている。
ミレーヌも、黒革手帖へすべてを記録していた。
その隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が現場を見渡している。
「主食が変われば、民が変わる。腹が変われば、働き方が変わる。働き方が変われば、国が変わる」
リリアーナが言うと、誰も笑わなかった。
パン。
ただのパン。
けれど、それは国を動かす。
王を泣かせた白パン。
子どもを笑わせるジャムパン。
労働者の腹を満たす食パン。
兵士が持ち運べるサンドイッチ。
学園の昼を変えるたまごサンド。
それは、もう料理ではない。
産業だった。
革命だった。
その時、工場の外から慌ただしい声がした。
グランヴェールの商人が、一枚の紙を持って駆け込んでくる。
「エリオット様!」
「どうしたの?」
「グランヴェール傘下入りの報が、すでに周辺国へ広がっています!」
「早いな」
リリアーナが眉を寄せると、商人は紙を広げた。
「商人経由です。港でも噂になっております。隣国が動揺し、貴族たちもざわついています。各国の使者が、リュミエールへ向かう可能性があります」
ミレーヌは黒革手帖を開いた。
「世界情勢、変動」
「書くな。いや、書け」
「はい」
エリオットは、小さな拳を胸の前で握った。
「そうだよね。グランヴェールが、同盟じゃなくて傘下に入ったんだもん。みんな、びっくりするよ」
レイナも扇を閉じた。
「隣国も、様子を見に来るでしょうね」
リリアーナは少しだけ目を細めた。
「また新撰組が来るかもしれんな」
その言葉に、空気が一瞬だけ変わった。
新撰組。
日本から来た、面倒な連中。
世界が動けば、日本も動く。
パン革命は、食卓だけでは終わらないかもしれない。
刀を肩に担いでいた黒スーツ姿の清司も、目を鋭くして工場の外を見た。
「姫様」
レイナが静かに声をかけた。
「もう舞踏会ですわよ」
リリアーナは固まった。
「……もう舞踏会やったな」
「はい」
「国が動いて、パンが増えて、サンドイッチ考えて、新撰組の心配しとる場合ちゃうかった」
「いえ、どれも大事ですわ」
「そうやけど」
レイナは少しだけ微笑んだ。
「けれど、舞踏会も大事ですわ」
リリアーナは自分の足を見た。
毎日の訓練で、だいぶ動けるようになった。
少しなら歩ける。
けれど、ダンスは無理だ。
長時間立つことも難しい。
「ダンスは無理やな」
「分かっておりますわ」
「しんどくなったら椅子に座る」
「椅子も不要ですわ」
「ん?」
レイナは、当然のように微笑んだ。
「私の回復魔法、ヒールで全回復できますもの」
「便利すぎるやろ」
「姫様のためですわ」
送り迎えの馬車はある。
会場で長く歩く必要もない。
ダンスはしない。
しんどくなれば、最悪レイナのヒールもある。
「……それやったら、いけるな」
「もちろんですわ」
「最悪、ヒール頼ろ」
「お任せくださいませ」
「頼もしすぎるわ」
レイナは嬉しそうに胸を張った。
「姫様は、私といれば大丈夫ですわ」
「説得力あるわ」
「舞踏会だけではありません」
「ん?」
レイナは、扇を胸元で閉じた。
その声は、いつもより少し静かだった。
「私は、姫様のお姿も、清司様の在り方も、どちらも受け入れております。性別がどうであれ、お姿がどうであれ、私はあなた様のお傍にいたいのです」
リリアーナは少しだけ黙った。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、レイナを見ている。
「舞踏会だけではありません。これからも、ずっと」
工場の中の空気が、少しだけ甘くなった。
ミレーヌのペンが止まる。
レイナの告白は、かなり本気だった。
「おってくれ」
リリアーナは言った。
レイナの目が大きく開く。
「……清司様」
「お前がおってくれたら助かる。貴族の場も読める。魔力も強い。人を見る目もある。俺が動けん時、前に立てる」
リリアーナは、一拍置いた。
「お前は必要や」
レイナの頬が、ぱっと赤くなった。
「……はい」
完全に、恋が届いた顔である。
だが、リリアーナは完全に有能な現場人材を確保した顔をしていた。
ミレーヌは黒革手帖を抱えたまま、肩を震わせる。
笑ってはいけない。
今は、かなり大事な場面である。
レイナは真剣。
リリアーナも真剣。
ただし、方向が違う。
「おい」
リリアーナが言うと、ミレーヌはすぐに顔を上げた。
「はい」
「お前、なに笑ろてんねん」
「笑っておりません」
「肩震えとったぞ」
「呼吸です」
「下手な嘘つくな」
ミレーヌは、すん、と表情を消した。
「私も、レイナさんが傍にいるのは賛成です」
「急に真面目やな」
「必要ですので」
「便利な言葉やな」
「はい」
レイナは嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみですわ。姫様は私といれば大丈夫ですわ」
「舞踏会は世話になるわ」
「お任せくださいませ」
レイナは誇らしげに胸を張った。
「姫様の周囲に、不審な恋愛気配も、妙な貴族も、距離感のおかしい殿方も、すべて近づけませんわ」
「防衛範囲が広いな」
「当然ですわ」
「でも助かる」
「姫様のためですもの」
ミレーヌは黒革手帖へ記録した。
『舞踏会。リリアーナ様、車椅子なしで参加予定。ダンス不可。最悪ヒール対応。レイナ様、防衛担当』
「防衛担当なんや」
「適任です」
「否定できん」
工場では、パン革命が始まっていた。
外では、世界情勢がざわつき始めている。
舞踏会も、もう目の前だった。
その時。
「リリアーナ様」
低い声が聞こえた。
振り返ると、工場の入口にイレギュラーが立っている。
いつものように目立たない。
けれど、その目だけが笑っていなかった。
「報告があります」
空気が変わり、ミレーヌはすぐに黒革手帖を開いた。
「内容は?」
イレギュラーは工場の外へ目を向けた。
「ここ数日、工場の周囲に同じ顔がいます。商人ではありません。職人でもありません。貧民街の者でもありません」
リリアーナの目が鋭くなった。
その感情に反応するように、刀を肩に担いでいた黒スーツ姿の清司が前へ出て、刀の柄へ手をかけた。
「何者や」
「まだ確定していません」
イレギュラーは、一拍置いた。
「ただ、港でも王宮周辺でも、似た動きがあります」
エリオットの顔が変わった。
「王宮の近くにもいるの?」
「はい」
イレギュラーは、懐から小さな紙片を取り出した。
そこには、雑に描かれた羽織のような模様。
浅葱色。
だが、まだ断定はできない。
「……また面倒なんが来とるな」
リリアーナが低く言うと、工場の音が少し遠くなった。
パンの香り。
木槌の音。
商人たちの声。
焼きたての白パン。
その中に、冷たいものが混じった。
イレギュラーは、静かに言った。
「この工場、狙われています」
ミレーヌのペンが止まり、レイナが扇を閉じた。
バルドの鈴は鳴らない。
リリアーナは、工場の中を見た。
ロアン。
マーガリンおじさん。
メガネ聖女。
モビーズたち。
貧民街の職人百人。
グランヴェールの料理人。
商人たち。
ノエル。
エリオット。
パン革命は、始まったばかりだ。
けれど、革命はいつも、誰かに嫌われる。
「……来るか」
リリアーナは言った。
刀を肩に担いでいた黒スーツ姿の清司は刀を抜き、その切っ先を工場の外へ向けた。
イレギュラーも頷いた。
「はい」
工場の外で、風が鳴った。
甘いパンの香りの向こうに、まだ名を呼ばれていない影が近づいている。
パン革命は始まったばかりだというのに。
どうやら今度は、その工場ごと斬り込んでくるつもりらしい。




