第45話 ラブコメ、始まってました
パン産業は、ひとまず動き始めた。
貧民街のパン工場では、料理長ロアンとマーガリンおじさんが、白パン、クロワッサン、フランスパンを前に、職人の顔で話し込んでいる。
モビーズの半分は工場へ向かい、もう半分は王宮に残って、『セイントミステリア』や『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちと仕事を回していた。
説明しよう!
恋愛フラグを現場復帰させ続けた結果、パン産業が始まったのである!
乙女ゲームで!
そんな中、リリアーナは久しぶりに学園へ向かっていた。
毎日の歩行訓練で、少しずつ歩けるようにはなってきた。
けれど、まだ長い距離は歩けない。
車椅子は必要だった。
「舞踏会までに、なんとかせなあかんな」
リリアーナが言った。
チリン。
バルドが静かに鈴を鳴らした。
「本日は、ここまでです。学園へ行ってらっしゃいませ」
「送り出しまでチリンなんやな」
「必要です」
「便利すぎるやろ」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「歩行距離、体力配分、休憩導線。すべて確認が必要です」
「乙女ゲーム要素、薄くなってきましたね」
「せやな。ええことや」
「ええんですね」
「倒れて恋愛イベントするより、倒れん導線の方が大事や」
「現場復帰ですね」
「便利すぎるやろ、その言葉」
リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が歩いている。
普通の生徒には見えない。
だが、ミレーヌには見えていた。
大階段跡のオートスロープを横目に、リリアーナが学園の廊下へ入った時だった。
「リリアーナー!」
廊下の向こうから、エミールが駆けてきた。
朝の光を受けて、王子らしく輝いている。
だが、顔は完全に慌てていた。
「リリアーナ! だれかと恋したの?!」
「は?」
リリアーナが固まった。
その横で、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も動きを止める。
ミレーヌは黒革手帖を開いた。
「記録します。第一声、恋愛疑惑」
「記録すな」
エミールは真剣だった。
「学園でね、うわさになってるの! リリアーナのまわりで、あまーい空気があるんだって!」
「甘い空気?」
「だれかが毎朝だれかを待ってたり、落とし物を返したり、廊下でじーっと見つめ合ってたりするんだって!」
「情報がふわふわすぎる」
「でもね、うわさが広がってるうちに、なんでかリリアーナの名前も出てきたの!」
「なんでやねん」
「王宮の人も知ってたよ!」
「学園の噂が王宮まで行っとるやないか」
説明しよう!
噂とは、伝言ゲームである!
そして伝言ゲームは、だいたい最後に別物になるのである!
そこへ、レイナが扇を手に優雅に歩いてきた。
姿勢は完璧。
目だけは鋭い。
「姫様は、そのような暇はありませんわ」
「レイナ」
「その前に、私が近づかせません」
「防衛が強すぎる」
「当然ですわ。姫様の周囲に、許可のない恋愛気配など必要ありません」
「恋愛に許可制あんの?」
「あります」
「あるんかい」
「姫様へ近づくのであれば、まず私を通していただきます」
「門番やんけ」
「門番ですわ」
レイナの目は本気だった。
正確には、リリアーナの恋愛を心配しているのではない。
リリアーナの中にいる清司へ、誰かが近づくことを許せないだけである。
ミレーヌが急に顔を上げた。
「調べましょう」
「なんで楽しそうやねん」
「誰が噂になっているのか、確認が必要です」
「必要か?」
「必要です」
「バルドみたいに言うな」
「相棒ですので」
「相棒は便利な言葉ちゃうぞ」
エミールも勢いよく頷いた。
「ぼくも知りたい! リリアーナのお相手、だれなの?」
「おらん」
レイナも頷く。
「私も確認いたしますわ。必要であれば、距離を取らせます」
「取らせるな」
「姫様を守るためです」
ミレーヌは黒革手帖を掲げた。
「では、聞き込み開始です」
「ノリノリやな」
「恋愛事件ですので」
「事件にすな」
こうして、聞き込みが始まった。
まずは、エリオット。
「エリオット」
「リリアーナ! どうしたの?」
「恋愛の噂、知っとるか」
エリオットは、一瞬だけ表情を止めた。
「……恋愛のうわさ?」
「知っとる顔やな」
「ち、ちがうよ! ちょっとだけ聞いただけ!」
「誰の噂や」
「それは……」
エリオットは、なぜか目を逸らした。
ミレーヌのペンが走る。
「記録します。エリオット様、目を逸らす」
「記録が早い」
「怪しいですので」
エリオットは慌てて顔を戻した。
「でもね、だれかが毎朝、だれかを待ってるって聞いたよ!」
「毎朝」
「廊下で!」
「廊下」
「それとね、落とし物もあるんだって!」
「乙女ゲームあるあるやな」
「たぶん、リリアーナじゃないよ!」
「当たり前や」
次は、レオンだった。
「レオン、恋愛の噂知っとるか」
「恋愛?」
レオンは眉を寄せた。
「ぼく、よく分かんない」
「即答やな」
「でもね、最近、庭で女の子たちがわーってなってた!」
「女子」
「落とし物で、だれかと仲よくなったんだって!」
「落とし物確定やな」
「恋愛って、落とし物から始まるの?」
「知らん」
ミレーヌが記録する。
「落とし物。毎朝。廊下。女子が騒ぐ」
「だんだん材料揃ってきたな」
次は、アレクシス。
「アレクシス、恋愛の噂」
「聞いてるよ!」
「早い」
「ぼく、いっぱい聞いたの!」
「誰やと思う」
「まだ分かんない。でもね、だれかがわざと広めた感じじゃないよ。見た人が、いっぱいお話してるだけ!」
「自然発生か」
「うん! 廊下と、庭と、図書室の前でも見たんだって。あとね、王宮の厨房でもお話してたよ!」
「なんで厨房まで行くねん」
「パン工場のお話をしてたモビーズから、ぴょんって混ざったみたい!」
「情報の動線が増えすぎや」
ミレーヌの目が輝いた。
「恋愛事件、王宮ルートへ拡散」
「やめろ」
次は、ルシアン。
音楽室の前で、楽譜を片手に窓の外を見ていた。
「ルシアン」
「リリアーナ! 来てくれたんだね!」
「呼んでへん」
「ぼくの氷の翼、リリアーナなら溶かせるよ!」
「聞き込みに向いてなさすぎる」
ルシアンは静かに目を伏せた。
「うわさなら聞いたよ。朝の廊下に、あまーい約束が落ちてるんだって」
「約束?」
「落とし物!」
「普通に言え」
「だれかが、だれかを待ってるの。好きって言えないまま、きらきらの廊下で運命を待ってるの!」
「重い」
「恋はね、暗い夜に咲く白い火なんだよ!」
「何も分からん」
ミレーヌが黒革手帖へ書き込んだ。
「ルシアン様、情報なし。中二病強め」
「それは書いてええ」
「はい」
次は、セシル。
校庭の近くで、数人の生徒に囲まれていた。
笑顔が明るい。
距離感が近い。
声が爽やか。
学園で一番の人気者である。
「リリアーナー!」
セシルは、こちらを見るなり大きく笑った。
「今日は学園に来てたんだね!」
「セシル、恋愛の噂知っとるか」
「知ってるよ!」
「軽いな」
「みんなお話してるもん! だれかが落としたリボンを、だれかがずーっと持ってたんだって!」
「リボン」
「君に返せたらいいなって思いながら、待ってたんじゃないかな!」
「口癖出たな」
「ちゃんと届いたら、うれしいよね!」
「うるさいくらい届かせてくるな」
セシルは、まっすぐ笑った。
「でもね、そのうわさ、イヤな感じじゃないよ! 見た子たちも、みんなニコニコしてた! からかうんじゃなくて、がんばれーって言いたくなる感じ!」
「へえ」
「リリアーナにも届いたらいいな!」
「もう届いた」
「えへへ!」
ミレーヌが記録する。
「リボン。応援したくなる噂。セシル様、眩しい」
「最後は感想やろ」
「眩しいので」
残るは、ノエル。
廊下の端で、孤児院へ持っていく荷物を確認していた。
小柄で、目が強い。
見た目だけなら可愛い。
しかし、中身はよく吠える。
「ノエル」
「リリアーナ!」
ノエルは振り返るなり、眉を吊り上げた。
「そんなことより、パン作り直してるってなに?!」
「第一声それかい」
「ぼく、毎日孤児院に行ってるもん! 子どもたち、ぼくが持っていったパンを喜んで食べてるんだよ!」
ノエルは、小さな体で全力で吠えていた。
チワワである。
だが、その目だけは本気だった。
「ぼく、子どもたちのためにやってるの! パンがあったら、みんなうれしそうにするんだよ! それを作り直すって、なにが悪いの?!」
リリアーナは、ノエルを見た。
その横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立っている。
「ノエル」
「なに!」
「お前は、子どもたちの何を見てきた」
ノエルは一瞬だけ止まったが、すぐに答えた。
「うれしそうなお顔だよ! ぼくがパンを持っていったら、みんな喜んで、ありがとうって言って、笑ってくれるの! ぼくのこと、待っててくれるんだよ!」
リリアーナは黙って聞いた。
誰も茶化さなかった。
「それは間違ってない。お前が見てきたもんは、間違ってへん。喜んだ目は、本物や」
ノエルの目が揺れる。
「じゃあ!」
「けどな。そのパン、食べにくそうやろ?」
ノエルの口が止まった。
「え……」
「水につけて、ふやかして食べたりしてへんか?」
ノエルは何も言わなかった。
ミレーヌも、レイナも、エミールも黙っている。
「……してる」
小さな声だった。
「固いから、小さい子はそのまま噛めなくて、スープとかお水につけてる。でも、笑ってたから……」
「笑ってたんやな」
「うん」
「それは大事や。けど、もっと見ろ」
ノエルが顔を上げた。
「そのまま食べられる柔らかいパン。甘いパン。美味しいパン。水につけんでも食べられるパン」
一拍置く。
「食べさせたいと思わんか?」
ノエルの目が大きく開いた。
喜んだ顔だけを見ていた少年が、その奥を見ようとしている顔だった。
「……思う」
ノエルの声は小さかった。
けれど、さっきより強かった。
「食べさせたい! そのまま食べられるパン! 小さい子でも、にこにこして食べられるパン!」
ノエルは荷物を握り締めた。
「ぼく、父上にお話する! 孤児院に持っていくパン、変えたい! ぼくも、子どもたちのためにパンのお仕事する!」
リリアーナは、少しだけ頷いた。
「分かった」
ノエルが息を止める。
「よく見れるようになったな」
その一言で、ノエルの顔がくしゃっと歪んだ。
「……うん!」
チワワは吠えるのをやめた。
代わりに、今にも走り出しそうな顔になっている。
「まだ走るな」
「走らない!」
「今もう足が走っとる」
「父上にお話する!」
「話してから走れ」
「分かった!」
分かっていなさそうな勢いで、ノエルは去っていった。
ミレーヌが静かに記録した。
『ノエル様。
孤児院用パン改善へ関与希望。
備考、チワワ、現場復帰』
「チワワ書くな」
「印象記録です」
「消せ」
「検討します」
「消さんやつや」
レイナが静かに扇を閉じた。
「よろしい変化ですわ」
「せやな」
エミールも勢いよく頷いた。
「リリアーナ、やっぱりすごいね!」
「パンの話になったけどな」
「恋愛のうわさを調べてたのにね!」
「せやねん」
ミレーヌが黒革手帖を見る。
「恋愛の噂、未解決です」
「忘れとったわ」
「まだ、甘い空気の正体が分かっていません」
「もうええんちゃうか」
「よくありません」
「なんでや」
「気になります」
「正直やな」
だが、その日の聞き込みはそこで終わった。
リリアーナは王宮へ戻った。
学園復帰初日としては、十分すぎるほど動いた。
歩いた。
聞き込んだ。
ノエルを現場復帰させた。
恋愛の噂は、まだ分からない。
そして王宮へ戻ると、今度は別の甘い空気が待っていた。
王宮内モビーズ本部。
そこでは、メガネ聖女が書類を抱えて立っていた。
モビーズたちへ、仕事の依頼に来ていたのである。
パン工場へ向かったモビーズの半分は、ロアンとマーガリンおじさんの監修のもと、貧民街の腕ある職人たちとパン作りに励んでいる。
王宮に残った半分は、『セイントミステリア』と『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちとともに、記録、発注、流通、検品、改善案、試食調整を進めていた。
メガネ聖女は工程表を広げた。
「白パンは、水分保持の記録を優先します。クロワッサンは、層の失敗原因を分類します。フランスパンは、窯の熱と焼成時間を記録します。失敗作も食べられるものは作業員の試食へ回し、孤児院には完成度の高い柔らかいパンを優先してください」
「的確やな」
「必要ですので」
「お前も必要で通すな」
「現場ですので」
「ええ返しや」
メガネ聖女は淡々としている。
だが、その横では、セドリックが彼女を見つめていた。
いつもの穏やかな笑みとは少し違う。
柔らかく、近く、見守るような目だった。
メガネ聖女も書類を抱えたまま、ほんの少し頬を染めた。
二人の目が合う。
すぐに逸らす。
また合う。
また逸らす。
間が甘い。
明らかに甘かった。
ミレーヌのペンが止まり、リリアーナも動きを止めた。
その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が二人を見ている。
「……おい」
リリアーナが言った。
メガネ聖女が振り返る。
「はい?」
「恋愛してんのか?」
「え」
メガネ聖女が固まり、セドリックも固まった。
ミレーヌは黒革手帖を開く。
「記録します。第二恋愛疑惑」
「記録早いな」
リリアーナはメガネ聖女を指さした。
「メガネ聖女! 色ボケせんとってくれよ! お前は工程の要や! 発酵と乾燥と焼成を見られる貴重な人材や! 恋愛で現場飛んだら困るんや!」
「飛びません」
「ほんまか!」
「はい」
リリアーナは、今度はセドリックを見た。
「セドリック! なんで大事なメガネ聖女に手ぇ出してくれてんねん!」
王宮内モビーズ本部が止まった。
モビーズも、『セイントミステリア』も、『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも動きを止める。
セドリックは、きょとんとした。
「え?」
「え? やない!」
「私の妹ですが……」
沈黙。
「……妹?」
「はい」
メガネ聖女が、少し恥ずかしそうに眼鏡を押し上げた。
「兄です」
「兄妹なんかい!!」
リリアーナの声が本部に響いた。
ミレーヌも固まっている。
パードが手を叩いて笑った。
「ウケる! 黒王子、完全に詰めに行ってたじゃん!」
「笑うな」
スギナが胸の前で両手を組む。
「家族愛の波動でしたか……」
「波動で済ますな」
ゴスペルが小さく祈ろうとした。
「兄妹の絆に――」
「歌うな」
「はい」
メガネ聖女は、まだ少し頬を染めたまま言った。
「兄は昔から、私の仕事を見守ってくれていますので」
セドリックも微笑んだ。
「妹が評価されているのは、嬉しいものです」
「そういう目やったんかい」
「はい」
「紛らわしいわ!」
ミレーヌが、ようやくペンを動かした。
『第二恋愛疑惑。
対象、セドリック様、メガネ聖女。
結果、兄妹。
備考、若頭、過剰防衛』
「最後消せ」
「重要です」
「大事な人材守っただけや」
「過剰でした」
「相棒が刺してくる」
「相棒ですので」
その時だった。
シャーホムズが本部へ駆け込んできた。
「リリアーナ様!」
「今度は何や」
「恋愛の噂の正体が分かりました!」
全員が止まった。
ミレーヌの目が輝く。
「本命ですね」
「言い方。誰や」
シャーホムズは真剣な顔で言った。
「学園のモブ男子と、モブ女子です」
「……モブ?」
「はい」
王宮内モビーズ本部に、微妙な沈黙が落ちた。
「攻略対象ではなく?」
「はい」
「貴族の令嬢でもなく?」
「はい」
「リリアーナ関係なく?」
「はい」
ミレーヌが、ゆっくりと黒革手帖を閉じた。
「まさかの背景側」
「背景言うな」
シャーホムズは続けた。
「目撃者によると、朝の廊下で、かなり甘い会話があったそうです」
「甘い会話?」
「はい」
「どれくらい」
「胃もたれするほどです」
「胃もたれ」
説明しよう!
乙女ゲームにおけるモブとは、名前もなく、背景にいる者である!
しかし、この学園のモブは、攻略対象が現場復帰している間に、勝手に青春を始めていたのである!
しかも、甘い!
翌朝。
リリアーナたちは現場を押さえるため、学園の廊下へ向かった。
「なんで俺ら、恋愛現場の張り込みしてんねん」
「気になるからです」
「正直すぎるやろ」
ミレーヌ、レイナ、エミール、シャーホムズ、ワトゾンまでいる。
なぜかパードもいた。
「黒王子の恋愛調査とか、見逃せなくない?」
「俺のちゃう」
「でも現場じゃん?」
「現場の意味が違う」
廊下の角には、一人の男子生徒が立っていた。
名前はない。
いや、あるのかもしれないが、物語上はモブ男子である。
手には、小さなリボン。
そこへ、一人の女子生徒がやって来た。
こちらもモブ女子である。
だが、二人の間に流れる空気だけは、やたら主役級だった。
「……おはよう」
モブ男子が言った。
「お、おはよう」
モブ女子が答えた。
すでに甘い。
「これ、君が落としたリボン。ずっと返したかったんだ」
「そんな……わざわざ、毎朝ここで待っていてくれたの?」
「違うよ」
「え?」
モブ男子は、まっすぐ彼女を見た。
「リボンを返す理由で、君に会いたかっただけだ」
廊下の空気が、砂糖になった。
ミレーヌのペンが止まる。
レイナは扇で口元を隠した。
エミールは、目を丸くした。
「うわぁ……あまい……」
パードも小声で言う。
「甘っ。これ黒王子じゃなくても胃もたれするわ」
モブ女子は頬を赤くした。
「もう……ばか」
モブ男子は少し笑う。
「その“ばか”を聞けるなら、何度でも待つよ」
リリアーナは数秒黙り、深く息を吸った。
「お前らやったんかい!」
廊下に声が響き、モブ男子とモブ女子が肩を跳ねさせた。
「リ、リリアーナ様!?」
「す、すみません!」
「謝らんでええ」
リリアーナは深く息を吐いた。
甘い。
甘すぎる。
「私、胃薬を飲みます」
ミレーヌが真顔で言った。
「飲むな」
「胸やけが」
「分かるけどな」
リリアーナは二人を見た。
怒る気にはならなかった。
名前もなかったはずの二人が、今はちゃんと自分たちの物語を持っている。
「……でも、ええことや」
リリアーナが静かに言うと、二人は顔を上げた。
「今まで、王子や公爵や貴族ばっかり目立っとった。モブは背景で、恋愛する空気もなかったんかもしれん。堂々とモブが青春してるって、ええことやんけ」
レイナが少しだけ目を細めた。
「たしかに、穏やかな光景ですわね」
エミールも笑顔で頷いた。
「うん! 学園っぽいね!」
「せやな」
リリアーナは、ふっと笑った。
「攻略対象やなくて、モブからやけどな」
ミレーヌが黒革手帖を閉じた。
「記録します。ラブコメ、始まっていました」
「ほんまに始まっとったな」
リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、甘い空気の流れる廊下を見ていた。
朝の廊下。
落としたリボン。
毎朝待つ男子。
照れる女子。
完全に乙女ゲームの一場面だった。
ただし、攻略対象ではない。
モブである。
こうして、学園に流れていた恋愛の噂は解決した。
リリアーナの恋でもない。
攻略対象の暴走でもない。
セドリックとメガネ聖女の禁断でもない。
ただ、名前も知られていなかった男子と女子が、朝の廊下で胃もたれするほど甘い青春をしていただけだった。
攻略対象が仕事をしている間に、背景にいた者たちの恋が始まっていたのである。




