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ふわ姫若頭 〜恋愛フラグを全部現場復帰させたら、女王ルートが開きました〜  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

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第45話 ラブコメ、始まってました


 パン産業は、ひとまず動き始めた。


 貧民街のパン工場では、料理長ロアンとマーガリンおじさんが、白パン、クロワッサン、フランスパンを前に、職人の顔で話し込んでいる。


 モビーズの半分は工場へ向かい、もう半分は王宮に残って、『セイントミステリア』や『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちと仕事を回していた。


 説明しよう!


 恋愛フラグを現場復帰させ続けた結果、パン産業が始まったのである!


 乙女ゲームで!


 そんな中、リリアーナは久しぶりに学園へ向かっていた。


 毎日の歩行訓練で、少しずつ歩けるようにはなってきた。


 けれど、まだ長い距離は歩けない。


 車椅子は必要だった。


「舞踏会までに、なんとかせなあかんな」


 リリアーナが言った。


 チリン。


 バルドが静かに鈴を鳴らした。


「本日は、ここまでです。学園へ行ってらっしゃいませ」


「送り出しまでチリンなんやな」


「必要です」


「便利すぎるやろ」


 ミレーヌが黒革手帖を開いた。


「歩行距離、体力配分、休憩導線。すべて確認が必要です」


「乙女ゲーム要素、薄くなってきましたね」


「せやな。ええことや」


「ええんですね」


「倒れて恋愛イベントするより、倒れん導線の方が大事や」


「現場復帰ですね」


「便利すぎるやろ、その言葉」


 リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が歩いている。


 普通の生徒には見えない。


 だが、ミレーヌには見えていた。


 大階段跡のオートスロープを横目に、リリアーナが学園の廊下へ入った時だった。


「リリアーナー!」


 廊下の向こうから、エミールが駆けてきた。


 朝の光を受けて、王子らしく輝いている。


 だが、顔は完全に慌てていた。


「リリアーナ! だれかと恋したの?!」


「は?」


 リリアーナが固まった。


 その横で、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も動きを止める。


 ミレーヌは黒革手帖を開いた。


「記録します。第一声、恋愛疑惑」


「記録すな」


 エミールは真剣だった。


「学園でね、うわさになってるの! リリアーナのまわりで、あまーい空気があるんだって!」


「甘い空気?」


「だれかが毎朝だれかを待ってたり、落とし物を返したり、廊下でじーっと見つめ合ってたりするんだって!」


「情報がふわふわすぎる」


「でもね、うわさが広がってるうちに、なんでかリリアーナの名前も出てきたの!」


「なんでやねん」


「王宮の人も知ってたよ!」


「学園の噂が王宮まで行っとるやないか」


 説明しよう!


 噂とは、伝言ゲームである!


 そして伝言ゲームは、だいたい最後に別物になるのである!


 そこへ、レイナが扇を手に優雅に歩いてきた。


 姿勢は完璧。


 目だけは鋭い。


「姫様は、そのような暇はありませんわ」


「レイナ」


「その前に、私が近づかせません」


「防衛が強すぎる」


「当然ですわ。姫様の周囲に、許可のない恋愛気配など必要ありません」


「恋愛に許可制あんの?」


「あります」


「あるんかい」


「姫様へ近づくのであれば、まず私を通していただきます」


「門番やんけ」


「門番ですわ」


 レイナの目は本気だった。


 正確には、リリアーナの恋愛を心配しているのではない。


 リリアーナの中にいる清司へ、誰かが近づくことを許せないだけである。


 ミレーヌが急に顔を上げた。


「調べましょう」


「なんで楽しそうやねん」


「誰が噂になっているのか、確認が必要です」


「必要か?」


「必要です」


「バルドみたいに言うな」


「相棒ですので」


「相棒は便利な言葉ちゃうぞ」


 エミールも勢いよく頷いた。


「ぼくも知りたい! リリアーナのお相手、だれなの?」


「おらん」


 レイナも頷く。


「私も確認いたしますわ。必要であれば、距離を取らせます」


「取らせるな」


「姫様を守るためです」


 ミレーヌは黒革手帖を掲げた。


「では、聞き込み開始です」


「ノリノリやな」


「恋愛事件ですので」


「事件にすな」


 こうして、聞き込みが始まった。


 まずは、エリオット。


「エリオット」


「リリアーナ! どうしたの?」


「恋愛の噂、知っとるか」


 エリオットは、一瞬だけ表情を止めた。


「……恋愛のうわさ?」


「知っとる顔やな」


「ち、ちがうよ! ちょっとだけ聞いただけ!」


「誰の噂や」


「それは……」


 エリオットは、なぜか目を逸らした。


 ミレーヌのペンが走る。


「記録します。エリオット様、目を逸らす」


「記録が早い」


「怪しいですので」


 エリオットは慌てて顔を戻した。


「でもね、だれかが毎朝、だれかを待ってるって聞いたよ!」


「毎朝」


「廊下で!」


「廊下」


「それとね、落とし物もあるんだって!」


「乙女ゲームあるあるやな」


「たぶん、リリアーナじゃないよ!」


「当たり前や」


 次は、レオンだった。


「レオン、恋愛の噂知っとるか」


「恋愛?」


 レオンは眉を寄せた。


「ぼく、よく分かんない」


「即答やな」


「でもね、最近、庭で女の子たちがわーってなってた!」


「女子」


「落とし物で、だれかと仲よくなったんだって!」


「落とし物確定やな」


「恋愛って、落とし物から始まるの?」


「知らん」


 ミレーヌが記録する。


「落とし物。毎朝。廊下。女子が騒ぐ」


「だんだん材料揃ってきたな」


 次は、アレクシス。


「アレクシス、恋愛の噂」


「聞いてるよ!」


「早い」


「ぼく、いっぱい聞いたの!」


「誰やと思う」


「まだ分かんない。でもね、だれかがわざと広めた感じじゃないよ。見た人が、いっぱいお話してるだけ!」


「自然発生か」


「うん! 廊下と、庭と、図書室の前でも見たんだって。あとね、王宮の厨房でもお話してたよ!」


「なんで厨房まで行くねん」


「パン工場のお話をしてたモビーズから、ぴょんって混ざったみたい!」


「情報の動線が増えすぎや」


 ミレーヌの目が輝いた。


「恋愛事件、王宮ルートへ拡散」


「やめろ」


 次は、ルシアン。


 音楽室の前で、楽譜を片手に窓の外を見ていた。


「ルシアン」


「リリアーナ! 来てくれたんだね!」


「呼んでへん」


「ぼくの氷の翼、リリアーナなら溶かせるよ!」


「聞き込みに向いてなさすぎる」


 ルシアンは静かに目を伏せた。


「うわさなら聞いたよ。朝の廊下に、あまーい約束が落ちてるんだって」


「約束?」


「落とし物!」


「普通に言え」


「だれかが、だれかを待ってるの。好きって言えないまま、きらきらの廊下で運命を待ってるの!」


「重い」


「恋はね、暗い夜に咲く白い火なんだよ!」


「何も分からん」


 ミレーヌが黒革手帖へ書き込んだ。


「ルシアン様、情報なし。中二病強め」


「それは書いてええ」


「はい」


 次は、セシル。


 校庭の近くで、数人の生徒に囲まれていた。


 笑顔が明るい。


 距離感が近い。


 声が爽やか。


 学園で一番の人気者である。


「リリアーナー!」


 セシルは、こちらを見るなり大きく笑った。


「今日は学園に来てたんだね!」


「セシル、恋愛の噂知っとるか」


「知ってるよ!」


「軽いな」


「みんなお話してるもん! だれかが落としたリボンを、だれかがずーっと持ってたんだって!」


「リボン」


「君に返せたらいいなって思いながら、待ってたんじゃないかな!」


「口癖出たな」


「ちゃんと届いたら、うれしいよね!」


「うるさいくらい届かせてくるな」


 セシルは、まっすぐ笑った。


「でもね、そのうわさ、イヤな感じじゃないよ! 見た子たちも、みんなニコニコしてた! からかうんじゃなくて、がんばれーって言いたくなる感じ!」


「へえ」


「リリアーナにも届いたらいいな!」


「もう届いた」


「えへへ!」


 ミレーヌが記録する。


「リボン。応援したくなる噂。セシル様、眩しい」


「最後は感想やろ」


「眩しいので」


 残るは、ノエル。


 廊下の端で、孤児院へ持っていく荷物を確認していた。


 小柄で、目が強い。


 見た目だけなら可愛い。


 しかし、中身はよく吠える。


「ノエル」


「リリアーナ!」


 ノエルは振り返るなり、眉を吊り上げた。


「そんなことより、パン作り直してるってなに?!」


「第一声それかい」


「ぼく、毎日孤児院に行ってるもん! 子どもたち、ぼくが持っていったパンを喜んで食べてるんだよ!」


 ノエルは、小さな体で全力で吠えていた。


 チワワである。


 だが、その目だけは本気だった。


「ぼく、子どもたちのためにやってるの! パンがあったら、みんなうれしそうにするんだよ! それを作り直すって、なにが悪いの?!」


 リリアーナは、ノエルを見た。


 その横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立っている。


「ノエル」


「なに!」


「お前は、子どもたちの何を見てきた」


 ノエルは一瞬だけ止まったが、すぐに答えた。


「うれしそうなお顔だよ! ぼくがパンを持っていったら、みんな喜んで、ありがとうって言って、笑ってくれるの! ぼくのこと、待っててくれるんだよ!」


 リリアーナは黙って聞いた。


 誰も茶化さなかった。


「それは間違ってない。お前が見てきたもんは、間違ってへん。喜んだ目は、本物や」


 ノエルの目が揺れる。


「じゃあ!」


「けどな。そのパン、食べにくそうやろ?」


 ノエルの口が止まった。


「え……」


「水につけて、ふやかして食べたりしてへんか?」


 ノエルは何も言わなかった。


 ミレーヌも、レイナも、エミールも黙っている。


「……してる」


 小さな声だった。


「固いから、小さい子はそのまま噛めなくて、スープとかお水につけてる。でも、笑ってたから……」


「笑ってたんやな」


「うん」


「それは大事や。けど、もっと見ろ」


 ノエルが顔を上げた。


「そのまま食べられる柔らかいパン。甘いパン。美味しいパン。水につけんでも食べられるパン」


 一拍置く。


「食べさせたいと思わんか?」


 ノエルの目が大きく開いた。


 喜んだ顔だけを見ていた少年が、その奥を見ようとしている顔だった。


「……思う」


 ノエルの声は小さかった。


 けれど、さっきより強かった。


「食べさせたい! そのまま食べられるパン! 小さい子でも、にこにこして食べられるパン!」


 ノエルは荷物を握り締めた。


「ぼく、父上にお話する! 孤児院に持っていくパン、変えたい! ぼくも、子どもたちのためにパンのお仕事する!」


 リリアーナは、少しだけ頷いた。


「分かった」


 ノエルが息を止める。


「よく見れるようになったな」


 その一言で、ノエルの顔がくしゃっと歪んだ。


「……うん!」


 チワワは吠えるのをやめた。


 代わりに、今にも走り出しそうな顔になっている。


「まだ走るな」


「走らない!」


「今もう足が走っとる」


「父上にお話する!」


「話してから走れ」


「分かった!」


 分かっていなさそうな勢いで、ノエルは去っていった。


 ミレーヌが静かに記録した。


『ノエル様。

孤児院用パン改善へ関与希望。

備考、チワワ、現場復帰』


「チワワ書くな」


「印象記録です」


「消せ」


「検討します」


「消さんやつや」


 レイナが静かに扇を閉じた。


「よろしい変化ですわ」


「せやな」


 エミールも勢いよく頷いた。


「リリアーナ、やっぱりすごいね!」


「パンの話になったけどな」


「恋愛のうわさを調べてたのにね!」


「せやねん」


 ミレーヌが黒革手帖を見る。


「恋愛の噂、未解決です」


「忘れとったわ」


「まだ、甘い空気の正体が分かっていません」


「もうええんちゃうか」


「よくありません」


「なんでや」


「気になります」


「正直やな」


 だが、その日の聞き込みはそこで終わった。


 リリアーナは王宮へ戻った。


 学園復帰初日としては、十分すぎるほど動いた。


 歩いた。


 聞き込んだ。


 ノエルを現場復帰させた。


 恋愛の噂は、まだ分からない。


 そして王宮へ戻ると、今度は別の甘い空気が待っていた。


 王宮内モビーズ本部。


 そこでは、メガネ聖女が書類を抱えて立っていた。


 モビーズたちへ、仕事の依頼に来ていたのである。


 パン工場へ向かったモビーズの半分は、ロアンとマーガリンおじさんの監修のもと、貧民街の腕ある職人たちとパン作りに励んでいる。


 王宮に残った半分は、『セイントミステリア』と『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちとともに、記録、発注、流通、検品、改善案、試食調整を進めていた。


 メガネ聖女は工程表を広げた。


「白パンは、水分保持の記録を優先します。クロワッサンは、層の失敗原因を分類します。フランスパンは、窯の熱と焼成時間を記録します。失敗作も食べられるものは作業員の試食へ回し、孤児院には完成度の高い柔らかいパンを優先してください」


「的確やな」


「必要ですので」


「お前も必要で通すな」


「現場ですので」


「ええ返しや」


 メガネ聖女は淡々としている。


 だが、その横では、セドリックが彼女を見つめていた。


 いつもの穏やかな笑みとは少し違う。


 柔らかく、近く、見守るような目だった。


 メガネ聖女も書類を抱えたまま、ほんの少し頬を染めた。


 二人の目が合う。


 すぐに逸らす。


 また合う。


 また逸らす。


 間が甘い。


 明らかに甘かった。


 ミレーヌのペンが止まり、リリアーナも動きを止めた。


 その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が二人を見ている。


「……おい」


 リリアーナが言った。


 メガネ聖女が振り返る。


「はい?」


「恋愛してんのか?」


「え」


 メガネ聖女が固まり、セドリックも固まった。


 ミレーヌは黒革手帖を開く。


「記録します。第二恋愛疑惑」


「記録早いな」


 リリアーナはメガネ聖女を指さした。


「メガネ聖女! 色ボケせんとってくれよ! お前は工程の要や! 発酵と乾燥と焼成を見られる貴重な人材や! 恋愛で現場飛んだら困るんや!」


「飛びません」


「ほんまか!」


「はい」


 リリアーナは、今度はセドリックを見た。


「セドリック! なんで大事なメガネ聖女に手ぇ出してくれてんねん!」


 王宮内モビーズ本部が止まった。


 モビーズも、『セイントミステリア』も、『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも動きを止める。


 セドリックは、きょとんとした。


「え?」


「え? やない!」


「私の妹ですが……」


 沈黙。


「……妹?」


「はい」


 メガネ聖女が、少し恥ずかしそうに眼鏡を押し上げた。


「兄です」


「兄妹なんかい!!」


 リリアーナの声が本部に響いた。


 ミレーヌも固まっている。


 パードが手を叩いて笑った。


「ウケる! 黒王子、完全に詰めに行ってたじゃん!」


「笑うな」


 スギナが胸の前で両手を組む。


「家族愛の波動でしたか……」


「波動で済ますな」


 ゴスペルが小さく祈ろうとした。


「兄妹の絆に――」


「歌うな」


「はい」


 メガネ聖女は、まだ少し頬を染めたまま言った。


「兄は昔から、私の仕事を見守ってくれていますので」


 セドリックも微笑んだ。


「妹が評価されているのは、嬉しいものです」


「そういう目やったんかい」


「はい」


「紛らわしいわ!」


 ミレーヌが、ようやくペンを動かした。


『第二恋愛疑惑。

対象、セドリック様、メガネ聖女。

結果、兄妹。

備考、若頭、過剰防衛』


「最後消せ」


「重要です」


「大事な人材守っただけや」


「過剰でした」


「相棒が刺してくる」


「相棒ですので」


 その時だった。


 シャーホムズが本部へ駆け込んできた。


「リリアーナ様!」


「今度は何や」


「恋愛の噂の正体が分かりました!」


 全員が止まった。


 ミレーヌの目が輝く。


「本命ですね」


「言い方。誰や」


 シャーホムズは真剣な顔で言った。


「学園のモブ男子と、モブ女子です」


「……モブ?」


「はい」


 王宮内モビーズ本部に、微妙な沈黙が落ちた。


「攻略対象ではなく?」


「はい」


「貴族の令嬢でもなく?」


「はい」


「リリアーナ関係なく?」


「はい」


 ミレーヌが、ゆっくりと黒革手帖を閉じた。


「まさかの背景側」


「背景言うな」


 シャーホムズは続けた。


「目撃者によると、朝の廊下で、かなり甘い会話があったそうです」


「甘い会話?」


「はい」


「どれくらい」


「胃もたれするほどです」


「胃もたれ」


 説明しよう!


 乙女ゲームにおけるモブとは、名前もなく、背景にいる者である!


 しかし、この学園のモブは、攻略対象が現場復帰している間に、勝手に青春を始めていたのである!


 しかも、甘い!


 翌朝。


 リリアーナたちは現場を押さえるため、学園の廊下へ向かった。


「なんで俺ら、恋愛現場の張り込みしてんねん」


「気になるからです」


「正直すぎるやろ」


 ミレーヌ、レイナ、エミール、シャーホムズ、ワトゾンまでいる。


 なぜかパードもいた。


「黒王子の恋愛調査とか、見逃せなくない?」


「俺のちゃう」


「でも現場じゃん?」


「現場の意味が違う」


 廊下の角には、一人の男子生徒が立っていた。


 名前はない。


 いや、あるのかもしれないが、物語上はモブ男子である。


 手には、小さなリボン。


 そこへ、一人の女子生徒がやって来た。


 こちらもモブ女子である。


 だが、二人の間に流れる空気だけは、やたら主役級だった。


「……おはよう」


 モブ男子が言った。


「お、おはよう」


 モブ女子が答えた。


 すでに甘い。


「これ、君が落としたリボン。ずっと返したかったんだ」


「そんな……わざわざ、毎朝ここで待っていてくれたの?」


「違うよ」


「え?」


 モブ男子は、まっすぐ彼女を見た。


「リボンを返す理由で、君に会いたかっただけだ」


 廊下の空気が、砂糖になった。


 ミレーヌのペンが止まる。


 レイナは扇で口元を隠した。


 エミールは、目を丸くした。


「うわぁ……あまい……」


 パードも小声で言う。


「甘っ。これ黒王子じゃなくても胃もたれするわ」


 モブ女子は頬を赤くした。


「もう……ばか」


 モブ男子は少し笑う。


「その“ばか”を聞けるなら、何度でも待つよ」


 リリアーナは数秒黙り、深く息を吸った。


「お前らやったんかい!」


 廊下に声が響き、モブ男子とモブ女子が肩を跳ねさせた。


「リ、リリアーナ様!?」


「す、すみません!」


「謝らんでええ」


 リリアーナは深く息を吐いた。


 甘い。


 甘すぎる。


「私、胃薬を飲みます」


 ミレーヌが真顔で言った。


「飲むな」


「胸やけが」


「分かるけどな」


 リリアーナは二人を見た。


 怒る気にはならなかった。


 名前もなかったはずの二人が、今はちゃんと自分たちの物語を持っている。


「……でも、ええことや」


 リリアーナが静かに言うと、二人は顔を上げた。


「今まで、王子や公爵や貴族ばっかり目立っとった。モブは背景で、恋愛する空気もなかったんかもしれん。堂々とモブが青春してるって、ええことやんけ」


 レイナが少しだけ目を細めた。


「たしかに、穏やかな光景ですわね」


 エミールも笑顔で頷いた。


「うん! 学園っぽいね!」


「せやな」


 リリアーナは、ふっと笑った。


「攻略対象やなくて、モブからやけどな」


 ミレーヌが黒革手帖を閉じた。


「記録します。ラブコメ、始まっていました」


「ほんまに始まっとったな」


 リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、甘い空気の流れる廊下を見ていた。


 朝の廊下。


 落としたリボン。


 毎朝待つ男子。


 照れる女子。


 完全に乙女ゲームの一場面だった。


 ただし、攻略対象ではない。


 モブである。


 こうして、学園に流れていた恋愛の噂は解決した。


 リリアーナの恋でもない。


 攻略対象の暴走でもない。


 セドリックとメガネ聖女の禁断でもない。


 ただ、名前も知られていなかった男子と女子が、朝の廊下で胃もたれするほど甘い青春をしていただけだった。


 攻略対象が仕事をしている間に、背景にいた者たちの恋が始まっていたのである。

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