第44話 パン工場
翌日。
リリアーナは、貧民街へ向かっていた。
目的は、パン工場である。
前日、王宮内モビーズ本部は事件になった。
宴会。
聖歌隊。
海賊船。
硬い生地。
割れた窓。
説明しよう!
パン改善のために集められた『セイントミステリア』と『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちが、王宮内モビーズ本部で見事な化学反応を起こしたのである!
悪い方に!
だが、現場は戻った。
料理長ロアンは、潰されていた才能を見つけられた。『セイントミステリア』と『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも、それぞれの持ち場へ戻され、パン作りに必要な工程も見えた。
ならば、次に必要なのは。
「工場やな」
リリアーナが言った。
車椅子の横にはミレーヌがいて、その隣にはバルドが立っている。
貧民街へ、リリアーナとミレーヌの二人だけで向かわせるなど危なすぎる。
そのため、バルドも同行していた。
腰には鈴。
チリン。
「今、鳴らした?」
「安全確認です」
「まだ王宮出たとこやぞ」
「すでに始まっておりますので」
「何がや」
「警戒です」
「頼もしすぎて怖いな」
少し後ろには料理長ロアンが歩き、その隣にはメガネ聖女もいる。
今日はパン工場を見学する日ではない。
パン工場に必要な設備や導線を、職人へ伝える日である。
「ロアン。今日は、お前が鉄ちゃんに伝えるんや」
「私が、ですか?」
「せや」
リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が歩いていた。
車椅子に座ったリリアーナがロアンを見上げ、その隣に立つ清司も、まっすぐロアンを見ている。
見える者にだけ見える、二つの視線だった。
「粉をどこに置くか。水場はどこに要るか。こね台はどれくらいの高さがええか。窯との距離はどうするか。発酵させる部屋には何が要るか。焼けたパンをどこで冷ますか。人がぶつからんように、どの道を空けるか」
ロアンが息を呑んだ。
「作る奴にしか分からんことがある。建てる奴にしか分からんこともある。今日は、お前の現場を鉄ちゃんの腕に渡しに行くんや」
ロアンの背筋が伸びた。
「……はい!」
「固くなるな」
「はい!」
「返事が固い」
「申し訳ありません!」
「パンまで固くなりそうやから、やめろ」
「は、はい……」
メガネ聖女も静かに頷いた。
「私は工程として記録します。水分量、発酵、乾燥、焼成、保存。必要な場所と流れを、誰でも再現できる形に残します」
「頼む」
「はい」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「記録します。料理長ロアン、現場条件伝達係」
「ええやん」
「追加記録。緊張によるパンへの影響が懸念されます」
「それはいらん」
「重要ですので」
「ロアンが泣くやろ」
「すでに泣きそうです」
「見るな」
バルドが前方へ視線を向けた。
「姫様。まもなく貧民街です」
王宮の石畳が終わり、道の色が変わった。
整った街並みは次第に薄れ、古い家々が増えていく。
それでも、以前とは違っていた。
ところどころに新しい木材が使われ、崩れていた壁も修繕されている。荷車が通れるよう道も少し広くなり、子どもたちは工場の方角へ走っていた。
貧民街は、まだ貧民街だった。
けれど、完全な沈黙はなくなっている。
乾いた土地の中に細い煙が上がり、どこかから木槌の音が聞こえてくる。
誰かが働いている音だった。
リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、変わり始めた街を見渡している。
普通の者には見えない。
だが、ミレーヌには見えていた。
金髪ふわふわの姫の隣を歩く、黒スーツ姿の元若頭。
絵面だけなら、完全に違う作品である。
「清司さん」
「なんや」
「貧民街に黒スーツが似合いすぎています」
「知らんわ」
「背景が急に任侠映画です」
「乙女ゲームや」
「そうでした」
「忘れんな」
ミレーヌは淡々と黒革手帖へ書き込んだ。
『貧民街視察。
備考、黒スーツ姿の清司さん、背景との親和性が高い』
「いらん記録や」
「読者の脳内補助です」
「誰向けやねん」
バルドが前方を確認した。
「安全に問題はありません」
「さすがやな」
「貧民街です。警戒は緩めません」
「そこはほんま頼む」
「必要です」
チリン。
「今のは?」
「確認完了です」
「鈴で報告すな」
「便利ですので」
「便利にすな」
そう言いながら、一行は貧民街の外れへ着いた。
かつて葉巻と煙草の工場を建てた場所から、少し離れた土地。
そこに、大きな建物が立っていた。
まだ新しい木の匂い。
広い窓。
煙突。
水場。
搬入口。
出荷口。
どう見ても、工場だった。
「……できとる」
リリアーナが低く言った。
ロアンも完全に固まっている。
「まだ、何もお伝えしておりません」
「せやな」
「ですが、すでに必要なものが揃っているように見えます」
ロアンは工場の入口を見つめた。
リリアーナは、ふっと笑った。
その隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も目を細めている。
「さすがオヤジと鉄ちゃんやな」
その時、入口の向こうから太い声が飛んできた。
「姫さん! お待ちしておりやしたよ!」
鉄ちゃんだった。
日に焼けた顔。
傷だらけの手。
少し汚れた作業着。
貴族の前に立つには、正しくない格好なのかもしれない。
けれど、その背筋はまっすぐだった。
学園の大階段を高性能なオートスロープへ変え、葉巻と煙草の工場を一晩で形にし、貧民街から腕利き百人を連れてきた男。
鉄ちゃん組の頭、鉄蔵である。
「鉄ちゃん。パン工場、頼みに来たんやけど」
「へい。聞いておりやした」
「誰に?」
「オヤジさんに」
「またかい」
リリアーナは小さく息を吐いたが、その口元には笑みが浮かんでいた。
ここにオヤジはいない。
いないのに、現場の隅々へ手が回っている。
「オヤジさんが言っておりやした。どうせ姫が来る。先に建てとけ、と」
「読まれとるやんけ」
「あと、ええ腕やろ、と」
「さすがオヤジやな。ほんま、仕事が早い」
命を懸けてついていくと決めた男である。
先に動くことなど、分かっていた。
分かっていたのに、それでも毎回、想像の少し上を行く。
だから、背中を預けられた。
だから、守りたいと思った。
そして今も、その仕事の早さに笑ってしまう。
ミレーヌが淡々と記録した。
『国王陛下、今回も根回し済み。
伝言、どうせ姫が来る。先に建てとけ。
追加伝言、ええ腕やろ』
「王家の書簡としては不適切ですね」
「でも、オヤジらしいやろ」
「はい」
「ほな、ええ」
鉄ちゃんは、にっと笑った。
「見てくだせぇ」
リリアーナたちは、パン工場の中へ入った。
広い。
まず、それが分かった。
ただ広いのではなく、動きやすい。
粉を運び込む入口から保管室へ進み、その先に水場と大きなこね台がある。さらに進めば、発酵させるための温かい部屋、焼き窯、焼けたパンを冷ます棚、包装する場所、出荷口までが、ひとつの流れでつながっていた。
人と人がぶつからない。
粉と焼き上がったパンが混ざらない。
熱い場所と休む場所が分かれている。
重い物を、長い距離運ばなくてもいい。
さらに奥には、休憩所まで作られていた。
木の長椅子。
水桶。
簡単な食事を置ける台。
風が通る窓。
「休憩所まであるんか」
「へい。窯仕事は暑いでさぁ。休める場所がねぇと、人が潰れやす」
リリアーナは休憩所を見渡した。
広すぎず、狭すぎず、作業場からは近いが火の熱は届きにくい。
働く者を、ちゃんと人間として見て作られた場所だった。
ロアンは工場の中を見つめ、言葉を失っていた。
「……これは」
「どうや」
リリアーナが聞くと、ロアンは作業台、水場、窯、発酵室、冷却棚を順番に見た。
「作りやすいです。粉を運び、こね、発酵させ、焼いて冷ます。その流れが止まりません。熱い場所と休む場所が分かれ、水場も近く、重い物を何度も持ち上げる必要もありません」
ロアンの声が震えた。
「働く人のことを考えています」
鉄ちゃんが少し照れたように笑った。
「パンを作る奴がそう言ってくれるなら、間違いねぇでさぁ」
メガネ聖女も静かに頷く。
「工程として、とても美しいです。粉、水、こね、発酵、焼成、冷却、包装、出荷。流れが分断されていません。乾燥を避けたい場所と、熱を逃がしたい場所も分けられています。これなら、同じ品質を何度も再現しやすいです」
「分析が早いな」
「工程ですので」
「ええやんけ」
リリアーナは、もう一度工場を見渡した。
「……ええ仕事や」
鉄ちゃんの目が、少しだけ揺れた。
「へへっ」
照れたように鼻の下をこする。
「そいつを言われたくて、生きてきやした」
リリアーナは鉄ちゃんの手を見た。
石を組み、木を合わせ、水の逃げ道を作り、魔石の床まで動かしてきた傷だらけの手。
貴族の茶会では、誰も見ない手かもしれない。
だが、国を動かすのは、こういう手だった。
「ほんま、この世界は何見とんねん」
ミレーヌが顔を上げる。
「清司さん?」
「こんな腕のある奴が、背景みたいに埋もれとったんか。恋愛イベントばっかり見て、攻略対象ばっかり追うて、背景におる奴の手ぇは誰も見てへん」
リリアーナは工場を見渡した。
「国を動かすんは、こういう手やろ」
リリアーナの隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、鉄ちゃんの仕事をまっすぐ見ていた。
細い肩の姫と、広い肩の若頭。
白いドレスと、黒いスーツ。
車椅子に座る姫と、地面を踏む男。
まるで、一つの心に二つの人生が並んでいるようだった。
普通の者には見えない。
だが、ミレーヌには見えていた。
「記録します」
ミレーヌが静かに言った。
「貧民街パン工場。鉄ちゃん組施工。働く者の導線、休憩所まで完備。備考、職人の手は国を動かす」
「最後は書かんでええ」
「重要ですので」
「……まあ、ええわ」
鉄ちゃんは、少しだけ目を細めた。
「姫さん。ありがてぇこって」
「礼言うのはこっちや」
「へい」
鉄ちゃんは工場の奥へ案内した。
「葉巻と煙草の工場も、ついでに見ていってくだせぇ」
「順調か?」
「順調すぎるくらいでさぁ」
葉巻と煙草の工場は、隣の区画にあった。
中へ入ると、空気が変わった。
乾いた葉の匂い。
木箱の匂い。
紙の音。
指先で葉を巻く音。
検品する声。
記録する声。
忙しい。
だが、荒れてはいない。
誰も走り回らず、誰も怒鳴っていない。作業台は整い、箱は止まることなく流れ、書類も順番に積まれている。
注文が多いことは、見れば分かった。
それでも、仕事は詰まっていなかった。
「姫様!」
一人の男が顔を上げた。
葉巻工場で働く、貧民街出身の男だった。
「注文、山ほど来てます!」
「捌けとるか?」
「はい! 待たせてません!」
別の女が箱を閉じながら笑った。
「最初は手が震えましたけど、今は手順が体に入ってきました」
「ええやん」
「働けるって、幸せですね。毎日仕事があって、賃金をもらえて、家に食べ物を持って帰れる。贅沢な暮らしができるようになりました」
「贅沢?」
「はい。昨日、子どもに果物を買えました」
それは、貴族から見れば贅沢ではない。
けれど、この女にとっては、確かに贅沢だった。
家族の腹を満たせること。
子どもへ果物を買って帰れること。
明日も働く場所があること。
それは、生活の勝利だった。
「これからも、よろしくお願いします!」
工場の者たちも一斉に頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
リリアーナは、その声を聞いた。
葉巻と煙草は、ただの嗜好品ではなくなっていた。
仕事になり、飯になり、誇りになっている。
ミレーヌが黒革手帖へ書き込んだ。
『葉巻・煙草工場。
注文殺到。
作業は順調。
待ちなし。
貧民街雇用、生活改善あり』
「ええ記録やな」
「はい」
「けど」
リリアーナは工場の外を見た。
貧民街は、まだ広い。
ここにいる者たちだけではない。
働き口のない者。
腕があるのに、道具を持たない者。
家に食べ物を持って帰れない者。
名前すら呼ばれない者。
まだ、何万人もいる。
「貧民街の復興は、始まったばっかりやな」
「そうですね」
ミレーヌは静かに頷いた。
「何万人もおりますから。ここで働いているのは、その中の百人にすぎません」
黒革手帖の上で、ペンが止まった。
工場の空気も少しだけ静かになる。
百人。
大きな数だった。
だが、まだ足りない。
鉄ちゃんが、ゆっくりと口を開いた。
「百人でも、大きな希望の光でさぁ」
リリアーナは鉄ちゃんを見た。
「今まで、ひとりも見つけられなかった腕が、百人も見つかった。そいつぁ、小さくありやせん」
鉄ちゃんは、工場で働く者たちを見渡した。
「もちろん、まだ足りねぇ。まだまだ働く場所がいりやす。まだまだ飯もいりやす。けど、百人が働いて、飯食って、笑えた」
鉄ちゃんは、にっと笑った。
「なら、次の百人もいけやす」
リリアーナも、少しだけ笑った。
姫らしい微笑みではない。
現場を見る者の顔だった。
「せやな。次の百人や」
「へい」
「その次もや」
「任せてくだせぇ」
鉄ちゃんは、少しだけ頭をかいた。
「……もう連れてきやした」
「はや!!!!」
リリアーナの声が工場に響いた。
「いつも早いな!!」
「へへっ」
鉄ちゃんは照れくさそうに笑った。
「パン工場で働きてぇ奴らは、もう外で待っておりやす」
「百人か?」
「へい。力仕事ができる奴、細かい作業が得意な奴、火を扱える奴、荷運びができる奴。前の百人に入れなかった連中から、腕とやる気がある奴を集めやした」
「仕事早すぎるやろ」
「仕事ができる場所があるなら、待たせる理由はねぇでさぁ」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「記録します。次の百人、すでに確保済み」
「はやすぎるわ」
「想定を超える速さです」
「鉄ちゃん、毎回こっちの想定超えてくるな」
「へへっ」
工場の外から、大勢の気配がした。
リリアーナが窓の外を見る。
そこには、年齢も体格も違う者たちが並んでいた。
若い男。
力のありそうな女。
年老いた職人。
細い指を持つ者。
大きな荷物を担げる者。
子どもを抱いた母親。
片足を引きずりながらも、背筋を伸ばす男。
服は古い。
靴もすり減っている。
けれど、全員の目は前を向いていた。
仕事を求めている目だった。
自分の腕を使える場所を求めている目だった。
リリアーナは、しばらく何も言わなかった。
前の百人だけではない。
その後ろにも、まだ人がいる。
働ける者がいる。
働きたい者がいる。
「パン工場は、次の雇用になりますね」
メガネ聖女が静かに言った。
「せや」
リリアーナは、新しいパン工場を見た。
「パンは王宮の朝食を良くするだけやない。舞踏会の食卓を飾るだけでもない。毎日の飯で、働く場所で、次の百人の持ち場になる」
ロアンが息を呑んだ。
自分が作るパンが、誰かの仕事になる。
その意味が、ようやく腹に落ちた顔だった。
「……はい」
ロアンは工場の外に並ぶ者たちを見た。
「必ず、良いパンを作ります。ここで働く方々が、自分の仕事を誇れるようなパンを作ります」
「頼むで」
「はい」
その時だった。
「姫さん」
鉄ちゃんが振り返った。
「その百人の中でも、まず会ってほしい奴がおりやす」
「誰や?」
「パンの腕がある男でさぁ」
リリアーナの目が細くなった。
「腕がある?」
「へい」
「なら、会う」
鉄ちゃんは工場の奥へ向かって声を張った。
「おい、マーガリンおじさん!」
「名前の癖」
リリアーナが即座に言うと、ミレーヌも黒革手帖を構えた。
「記録します。マーガリンおじさん」
「まだ人物出てへん」
「名前が強いので」
「強い名前やな」
奥から、小柄な男が現れた。
年齢はよく分からないが、おじさんではある。
丸い顔。
粉のついた服。
少し困ったような笑顔。
だが、その手だけは違っていた。
粉の白。
火傷の跡。
厚くなった指先。
何度も何度も、生地へ触れてきた手だった。
「マーガリンおじさんでございやす」
「ほんまに名乗るんか」
「皆がそう呼ぶもんで」
「本名は?」
「マルガンでございやす」
「近いな」
「子どもらが言い間違えまして」
「マーガリンおじさんになったんか」
「へい」
「可愛い由来やった」
マーガリンおじさんは、照れたように笑った。
「店を持つ金はありやせんでした。けど、パンは焼きたくて、貧民街で手に入る材料を集めて、子どもらが笑うならそれでいいと思って、ずっと焼いておりやした」
リリアーナは、黙ってその手を見た。
金はない。
店もない。
立派な窯もなかったはずだ。
それでも、この手はパンを作ることをやめなかった。
まただ。
また、この世界は見落としていた。
恋愛イベントの背景に、有能な者を埋めていた。
「姫さん」
マーガリンおじさんが、布をかけた籠を差し出した。
「試作品を焼いてきやした」
「もうか?」
「昨日、鉄ちゃんに聞きやして」
「早いな」
「パン屋は、朝が早いもんで」
「筋が通っとる」
布が外されると、香りが広がった。
その瞬間、ロアンが一歩前へ出た。
「……これは」
白パン。
クロワッサン。
フランスパン。
ロアンの目が、三つのパンへ釘づけになった。
白パンの割れ目。
クロワッサンの層。
フランスパンの焼き色。
食べる前から、分かるものがあった。
「姫様。食べても、よろしいですか?」
「お前から行くんか」
「はい。これは、食べなければ分かりません」
「ええ。食え」
「ありがとうございます!」
ロアンは白パンを手に取り、そっと割った。
ふわり。
中から湯気が逃げた。
ロアンの目が大きく揺れる。
「……柔らかい」
ひと口食べると、しばらく黙って味を確かめ、それからゆっくり息を吐いた。
「発酵がきれいです。水分が残っていますが、重くありません。甘みも強すぎず、毎日食べられる味です」
メガネ聖女も小さくひと口食べ、目を見開いた。
「……素晴らしいです」
彼女はパンの断面を見つめた。
「こんなパンは、生まれて初めて食べました」
工場の空気が、少しだけ変わった。
生まれて初めて。
その言葉が、この世界のパンの貧しさを物語っていた。
次に、ロアンはクロワッサンを見た。
「層が……」
まだ食べていないのに、声が漏れた。
「これを、貧民街で?」
マーガリンおじさんは、困ったように笑った。
「何度も失敗しやした」
「失敗だけで済むものではありません」
ロアンがクロワッサンを割った。
さくっ。
軽い音とともに薄い層が崩れ、バターの香りが立った。
「外は軽く、中はしっとりしています。生地とバターの温度を見なければ、こうはなりません」
メガネ聖女も頷いた。
「層が空気を抱いています。焼いた時に持ち上がる構造になっているのですね」
「はい」
ロアンは感動した顔で、深く頷いた。
「これは、技術です」
最後に、フランスパン。
ロアンは表面を見ただけで息を呑んだ。
「焼き色がきれいです」
切ると、皮がぱりっと鳴った。
中は、もちっとしている。
ロアンはひと口食べた。
「外側は香ばしく、中には水分が残っています。窯の熱を見ています。表面を焼き切りながら、中を乾かしすぎていません」
メガネ聖女も食べた。
「硬いのに、嫌な硬さではありません。噛むほど小麦の甘みが出ます。これは保存食ではなく、食事の主役になれるパンです」
リリアーナは、三つのパンを見た。
白パン。
クロワッサン。
フランスパン。
貧民街で焼いたとは思えないほど形が整っている。
いや、違う。
金があるパンではない。
飾りがあるパンでもない。
手があるパンだった。
リリアーナはパンを置き、まっすぐマーガリンおじさんを見た。
「最高の腕やないか!!」
工場が止まった。
マーガリンおじさんの目が大きく見開かれる。
「……へ?」
「最高や。白パンは柔らかい。クロワッサンはサクッとして、中はしっとりしとる。フランスパンは外がカリッとして、中がもちもちや」
リリアーナの声が、低く響いた。
「貧民街で、店も持てず、金もない中で、ここまで焼いてきたんか」
マーガリンおじさんの唇が震えた。
「……子どもらが」
「うん」
「子どもらが、笑うもんで」
それだけだった。
だが、それで十分だった。
リリアーナの横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立っていた。
低く鋭い目で、マーガリンおじさんの手を見ている。
恋愛イベントの相手を見る目ではない。
人材を見る目。
職人を見る目。
背景にされた者を、表へ出す目だった。
「ほんま、この世界は見落としすぎや。鉄ちゃんも、ロアンも、マーガリンおじさんも、みんなちゃんと腕がある」
誰も茶化さなかった。
「恋愛フラグばっかり追うて、攻略対象ばっかり見て、何を見逃しとんねん。国を動かす人間、背景に置きすぎやろ」
ミレーヌが静かにペンを走らせた。
『背景にいた職人、発掘。
マーガリンおじさん。
本名、マルガン。
強み、白パン、クロワッサン、フランスパン。
動機、子どもたちの笑顔』
ロアンが、マーガリンおじさんの前へ立った。
「マーガリンおじさん」
「へ、へい」
「教えてください」
マーガリンおじさんが固まった。
「王宮料理長様が、何を……」
「私は工程を知っています。ですが、あなたの手が知っていることを知りたいのです」
ロアンは深く頭を下げた。
「一緒に、パンを作ってください」
マーガリンおじさんの目から、涙が落ちた。
「……俺なんぞで」
「なんぞ言うな」
リリアーナの声が飛ぶと、マーガリンおじさんは肩を跳ねさせた。
「腕がある奴が、自分を下げるな。下げる暇があるなら焼け。店がなかったなら工場で焼け。一人で足りんかったなら、百人に教えろ」
マーガリンおじさんは、工場の外に並ぶ者たちを見た。
仕事を求める百人。
自分の技術を覚えようとしている者たち。
自分と同じように、場所を持てなかった者たち。
マーガリンおじさんは、泣きながら笑った。
「へい……!」
「ロアン」
「はい!」
「お前とマーガリンおじさんがおったら、勝ったも同然や!」
リリアーナは工場の外に並ぶ百人へ目を向けた。
「働く場所もある!」
鉄ちゃんが胸を張った。
「へい!」
「作る奴もおる!」
「はい!」
ロアンが答える。
「教える奴もおる!」
「へい!」
マーガリンおじさんが涙を拭った。
「ほな、やるぞ!」
その言葉に、工場が揺れた。
「オォーーー!!!!」
新しく集められた百人が声を上げた。
葉巻と煙草の工場で働く百人も続いた。
「オォーーー!!!!」
鉄ちゃん組も拳を上げる。
「オォーーー!!!!」
ロアンも、マーガリンおじさんも声を上げた。
「オォーーー!!!!」
ミレーヌも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
バルドが鈴を鳴らす。
チリン。
「士気の上昇を確認しました」
「鈴で確認すな」
「必要です」
「まあ、今のはええ音やったわ」
「ありがとうございます」
ロアンは白パンを見つめ、マーガリンおじさんはクロワッサンを見ていた。
二人の目は、もう客と職人のものではない。
同じ現場を見る者の目だった。
その後ろには、次の百人がいる。
作り方を覚える者。
粉を運ぶ者。
窯を見る者。
生地をこねる者。
焼けたパンを冷ます者。
包む者。
運ぶ者。
売る者。
まだ役割は決まっていない。
けれど、全員に持ち場ができる。
リリアーナはパン工場を見渡した。
鉄ちゃんが作った場所。
ロアンが組む工程。
マーガリンおじさんの腕。
メガネ聖女の記録。
モビーズの手。
そして、貧民街の次の百人。
葉巻と煙草の次は、パン。
嗜好品の次は、食卓。
そして、食卓は雇用になる。
「動かすぞ」
リリアーナが言った。
「はい!」
ロアンが答える。
「へい!」
マーガリンおじさんも答えた。
「任せてくだせぇ」
鉄ちゃんが笑う。
工場の外に並んでいた百人も、それぞれの持ち場へ動き始めた。
ミレーヌは黒革手帖を閉じた。
「記録します」
「もう閉じたやん」
「締めの記録です」
「なんや」
「パン工場、百人とともに始動」
リリアーナは、少しだけ笑った。
「ええやん」
その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も工場を見ていた。
ふわふわの姫の隣に立つ、黒い若頭。
乙女ゲームの光の中で、一人だけ現場の影を背負った男。
だが、その影は暗いだけではない。
背景にいた者を、見つけるための影だった。
こうして、貧民街の外れに、働く者が働きやすいパン工場が生まれた。
正確には、すでに建っていた。
オヤジが根回ししていたからである。
鉄ちゃん組の腕により、窯も、作業台も、発酵室も、休憩所も、搬入導線も、出荷導線も、だいたい完璧だった。
そこへ、料理長ロアンとマーガリンおじさんが加わった。
さらに、鉄ちゃんが連れてきた次の百人も加わった。
白パン。
クロワッサン。
フランスパン。
乙女ゲームの舞踏会に出るはずだった、きらびやかな恋愛イベントは、いつの間にか百人規模のパン工場になっていた。
恋が始まるより先に、次の雇用が始まったのである。




