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ふわ姫若頭 〜恋愛フラグを全部現場復帰させたら、女王ルートが開きました〜  作者: 夜嶋朔
第三章 食卓現場復帰編

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第44話 パン工場


 翌日。


 リリアーナは、貧民街へ向かっていた。


 目的は、パン工場である。


 前日、王宮内モビーズ本部は事件になった。


 宴会。


 聖歌隊。


 海賊船。


 硬い生地。


 割れた窓。


 説明しよう!


 パン改善のために集められた『セイントミステリア』と『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちが、王宮内モビーズ本部で見事な化学反応を起こしたのである!


 悪い方に!


 だが、現場は戻った。


 料理長ロアンは、潰されていた才能を見つけられた。『セイントミステリア』と『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも、それぞれの持ち場へ戻され、パン作りに必要な工程も見えた。


 ならば、次に必要なのは。


「工場やな」


 リリアーナが言った。


 車椅子の横にはミレーヌがいて、その隣にはバルドが立っている。


 貧民街へ、リリアーナとミレーヌの二人だけで向かわせるなど危なすぎる。


 そのため、バルドも同行していた。


 腰には鈴。


 チリン。


「今、鳴らした?」


「安全確認です」


「まだ王宮出たとこやぞ」


「すでに始まっておりますので」


「何がや」


「警戒です」


「頼もしすぎて怖いな」


 少し後ろには料理長ロアンが歩き、その隣にはメガネ聖女もいる。


 今日はパン工場を見学する日ではない。


 パン工場に必要な設備や導線を、職人へ伝える日である。


「ロアン。今日は、お前が鉄ちゃんに伝えるんや」


「私が、ですか?」


「せや」


 リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が歩いていた。


 車椅子に座ったリリアーナがロアンを見上げ、その隣に立つ清司も、まっすぐロアンを見ている。


 見える者にだけ見える、二つの視線だった。


「粉をどこに置くか。水場はどこに要るか。こね台はどれくらいの高さがええか。窯との距離はどうするか。発酵させる部屋には何が要るか。焼けたパンをどこで冷ますか。人がぶつからんように、どの道を空けるか」


 ロアンが息を呑んだ。


「作る奴にしか分からんことがある。建てる奴にしか分からんこともある。今日は、お前の現場を鉄ちゃんの腕に渡しに行くんや」


 ロアンの背筋が伸びた。


「……はい!」


「固くなるな」


「はい!」


「返事が固い」


「申し訳ありません!」


「パンまで固くなりそうやから、やめろ」


「は、はい……」


 メガネ聖女も静かに頷いた。


「私は工程として記録します。水分量、発酵、乾燥、焼成、保存。必要な場所と流れを、誰でも再現できる形に残します」


「頼む」


「はい」


 ミレーヌが黒革手帖を開いた。


「記録します。料理長ロアン、現場条件伝達係」


「ええやん」


「追加記録。緊張によるパンへの影響が懸念されます」


「それはいらん」


「重要ですので」


「ロアンが泣くやろ」


「すでに泣きそうです」


「見るな」


 バルドが前方へ視線を向けた。


「姫様。まもなく貧民街です」


 王宮の石畳が終わり、道の色が変わった。


 整った街並みは次第に薄れ、古い家々が増えていく。


 それでも、以前とは違っていた。


 ところどころに新しい木材が使われ、崩れていた壁も修繕されている。荷車が通れるよう道も少し広くなり、子どもたちは工場の方角へ走っていた。


 貧民街は、まだ貧民街だった。


 けれど、完全な沈黙はなくなっている。


 乾いた土地の中に細い煙が上がり、どこかから木槌の音が聞こえてくる。


 誰かが働いている音だった。


 リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、変わり始めた街を見渡している。


 普通の者には見えない。


 だが、ミレーヌには見えていた。


 金髪ふわふわの姫の隣を歩く、黒スーツ姿の元若頭。


 絵面だけなら、完全に違う作品である。


「清司さん」


「なんや」


「貧民街に黒スーツが似合いすぎています」


「知らんわ」


「背景が急に任侠映画です」


「乙女ゲームや」


「そうでした」


「忘れんな」


 ミレーヌは淡々と黒革手帖へ書き込んだ。


『貧民街視察。

備考、黒スーツ姿の清司さん、背景との親和性が高い』


「いらん記録や」


「読者の脳内補助です」


「誰向けやねん」


 バルドが前方を確認した。


「安全に問題はありません」


「さすがやな」


「貧民街です。警戒は緩めません」


「そこはほんま頼む」


「必要です」


 チリン。


「今のは?」


「確認完了です」


「鈴で報告すな」


「便利ですので」


「便利にすな」


 そう言いながら、一行は貧民街の外れへ着いた。


 かつて葉巻と煙草の工場を建てた場所から、少し離れた土地。


 そこに、大きな建物が立っていた。


 まだ新しい木の匂い。


 広い窓。


 煙突。


 水場。


 搬入口。


 出荷口。


 どう見ても、工場だった。


「……できとる」


 リリアーナが低く言った。


 ロアンも完全に固まっている。


「まだ、何もお伝えしておりません」


「せやな」


「ですが、すでに必要なものが揃っているように見えます」


 ロアンは工場の入口を見つめた。


 リリアーナは、ふっと笑った。


 その隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も目を細めている。


「さすがオヤジと鉄ちゃんやな」


 その時、入口の向こうから太い声が飛んできた。


「姫さん! お待ちしておりやしたよ!」


 鉄ちゃんだった。


 日に焼けた顔。


 傷だらけの手。


 少し汚れた作業着。


 貴族の前に立つには、正しくない格好なのかもしれない。


 けれど、その背筋はまっすぐだった。


 学園の大階段を高性能なオートスロープへ変え、葉巻と煙草の工場を一晩で形にし、貧民街から腕利き百人を連れてきた男。


 鉄ちゃん組の頭、鉄蔵である。


「鉄ちゃん。パン工場、頼みに来たんやけど」


「へい。聞いておりやした」


「誰に?」


「オヤジさんに」


「またかい」


 リリアーナは小さく息を吐いたが、その口元には笑みが浮かんでいた。


 ここにオヤジはいない。


 いないのに、現場の隅々へ手が回っている。


「オヤジさんが言っておりやした。どうせ姫が来る。先に建てとけ、と」


「読まれとるやんけ」


「あと、ええ腕やろ、と」


「さすがオヤジやな。ほんま、仕事が早い」


 命を懸けてついていくと決めた男である。


 先に動くことなど、分かっていた。


 分かっていたのに、それでも毎回、想像の少し上を行く。


 だから、背中を預けられた。


 だから、守りたいと思った。


 そして今も、その仕事の早さに笑ってしまう。


 ミレーヌが淡々と記録した。


『国王陛下、今回も根回し済み。

伝言、どうせ姫が来る。先に建てとけ。

追加伝言、ええ腕やろ』


「王家の書簡としては不適切ですね」


「でも、オヤジらしいやろ」


「はい」


「ほな、ええ」


 鉄ちゃんは、にっと笑った。


「見てくだせぇ」


 リリアーナたちは、パン工場の中へ入った。


 広い。


 まず、それが分かった。


 ただ広いのではなく、動きやすい。


 粉を運び込む入口から保管室へ進み、その先に水場と大きなこね台がある。さらに進めば、発酵させるための温かい部屋、焼き窯、焼けたパンを冷ます棚、包装する場所、出荷口までが、ひとつの流れでつながっていた。


 人と人がぶつからない。


 粉と焼き上がったパンが混ざらない。


 熱い場所と休む場所が分かれている。


 重い物を、長い距離運ばなくてもいい。


 さらに奥には、休憩所まで作られていた。


 木の長椅子。


 水桶。


 簡単な食事を置ける台。


 風が通る窓。


「休憩所まであるんか」


「へい。窯仕事は暑いでさぁ。休める場所がねぇと、人が潰れやす」


 リリアーナは休憩所を見渡した。


 広すぎず、狭すぎず、作業場からは近いが火の熱は届きにくい。


 働く者を、ちゃんと人間として見て作られた場所だった。


 ロアンは工場の中を見つめ、言葉を失っていた。


「……これは」


「どうや」


 リリアーナが聞くと、ロアンは作業台、水場、窯、発酵室、冷却棚を順番に見た。


「作りやすいです。粉を運び、こね、発酵させ、焼いて冷ます。その流れが止まりません。熱い場所と休む場所が分かれ、水場も近く、重い物を何度も持ち上げる必要もありません」


 ロアンの声が震えた。


「働く人のことを考えています」


 鉄ちゃんが少し照れたように笑った。


「パンを作る奴がそう言ってくれるなら、間違いねぇでさぁ」


 メガネ聖女も静かに頷く。


「工程として、とても美しいです。粉、水、こね、発酵、焼成、冷却、包装、出荷。流れが分断されていません。乾燥を避けたい場所と、熱を逃がしたい場所も分けられています。これなら、同じ品質を何度も再現しやすいです」


「分析が早いな」


「工程ですので」


「ええやんけ」


 リリアーナは、もう一度工場を見渡した。


「……ええ仕事や」


 鉄ちゃんの目が、少しだけ揺れた。


「へへっ」


 照れたように鼻の下をこする。


「そいつを言われたくて、生きてきやした」


 リリアーナは鉄ちゃんの手を見た。


 石を組み、木を合わせ、水の逃げ道を作り、魔石の床まで動かしてきた傷だらけの手。


 貴族の茶会では、誰も見ない手かもしれない。


 だが、国を動かすのは、こういう手だった。


「ほんま、この世界は何見とんねん」


 ミレーヌが顔を上げる。


「清司さん?」


「こんな腕のある奴が、背景みたいに埋もれとったんか。恋愛イベントばっかり見て、攻略対象ばっかり追うて、背景におる奴の手ぇは誰も見てへん」


 リリアーナは工場を見渡した。


「国を動かすんは、こういう手やろ」


 リリアーナの隣では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、鉄ちゃんの仕事をまっすぐ見ていた。


 細い肩の姫と、広い肩の若頭。


 白いドレスと、黒いスーツ。


 車椅子に座る姫と、地面を踏む男。


 まるで、一つの心に二つの人生が並んでいるようだった。


 普通の者には見えない。


 だが、ミレーヌには見えていた。


「記録します」


 ミレーヌが静かに言った。


「貧民街パン工場。鉄ちゃん組施工。働く者の導線、休憩所まで完備。備考、職人の手は国を動かす」


「最後は書かんでええ」


「重要ですので」


「……まあ、ええわ」


 鉄ちゃんは、少しだけ目を細めた。


「姫さん。ありがてぇこって」


「礼言うのはこっちや」


「へい」


 鉄ちゃんは工場の奥へ案内した。


「葉巻と煙草の工場も、ついでに見ていってくだせぇ」


「順調か?」


「順調すぎるくらいでさぁ」


 葉巻と煙草の工場は、隣の区画にあった。


 中へ入ると、空気が変わった。


 乾いた葉の匂い。


 木箱の匂い。


 紙の音。


 指先で葉を巻く音。


 検品する声。


 記録する声。


 忙しい。


 だが、荒れてはいない。


 誰も走り回らず、誰も怒鳴っていない。作業台は整い、箱は止まることなく流れ、書類も順番に積まれている。


 注文が多いことは、見れば分かった。


 それでも、仕事は詰まっていなかった。


「姫様!」


 一人の男が顔を上げた。


 葉巻工場で働く、貧民街出身の男だった。


「注文、山ほど来てます!」


「捌けとるか?」


「はい! 待たせてません!」


 別の女が箱を閉じながら笑った。


「最初は手が震えましたけど、今は手順が体に入ってきました」


「ええやん」


「働けるって、幸せですね。毎日仕事があって、賃金をもらえて、家に食べ物を持って帰れる。贅沢な暮らしができるようになりました」


「贅沢?」


「はい。昨日、子どもに果物を買えました」


 それは、貴族から見れば贅沢ではない。


 けれど、この女にとっては、確かに贅沢だった。


 家族の腹を満たせること。


 子どもへ果物を買って帰れること。


 明日も働く場所があること。


 それは、生活の勝利だった。


「これからも、よろしくお願いします!」


 工場の者たちも一斉に頭を下げた。


「よろしくお願いします!」


 リリアーナは、その声を聞いた。


 葉巻と煙草は、ただの嗜好品ではなくなっていた。


 仕事になり、飯になり、誇りになっている。


 ミレーヌが黒革手帖へ書き込んだ。


『葉巻・煙草工場。

注文殺到。

作業は順調。

待ちなし。

貧民街雇用、生活改善あり』


「ええ記録やな」


「はい」


「けど」


 リリアーナは工場の外を見た。


 貧民街は、まだ広い。


 ここにいる者たちだけではない。


 働き口のない者。


 腕があるのに、道具を持たない者。


 家に食べ物を持って帰れない者。


 名前すら呼ばれない者。


 まだ、何万人もいる。


「貧民街の復興は、始まったばっかりやな」


「そうですね」


 ミレーヌは静かに頷いた。


「何万人もおりますから。ここで働いているのは、その中の百人にすぎません」


 黒革手帖の上で、ペンが止まった。


 工場の空気も少しだけ静かになる。


 百人。


 大きな数だった。


 だが、まだ足りない。


 鉄ちゃんが、ゆっくりと口を開いた。


「百人でも、大きな希望の光でさぁ」


 リリアーナは鉄ちゃんを見た。


「今まで、ひとりも見つけられなかった腕が、百人も見つかった。そいつぁ、小さくありやせん」


 鉄ちゃんは、工場で働く者たちを見渡した。


「もちろん、まだ足りねぇ。まだまだ働く場所がいりやす。まだまだ飯もいりやす。けど、百人が働いて、飯食って、笑えた」


 鉄ちゃんは、にっと笑った。


「なら、次の百人もいけやす」


 リリアーナも、少しだけ笑った。


 姫らしい微笑みではない。


 現場を見る者の顔だった。


「せやな。次の百人や」


「へい」


「その次もや」


「任せてくだせぇ」


 鉄ちゃんは、少しだけ頭をかいた。


「……もう連れてきやした」


「はや!!!!」


 リリアーナの声が工場に響いた。


「いつも早いな!!」


「へへっ」


 鉄ちゃんは照れくさそうに笑った。


「パン工場で働きてぇ奴らは、もう外で待っておりやす」


「百人か?」


「へい。力仕事ができる奴、細かい作業が得意な奴、火を扱える奴、荷運びができる奴。前の百人に入れなかった連中から、腕とやる気がある奴を集めやした」


「仕事早すぎるやろ」


「仕事ができる場所があるなら、待たせる理由はねぇでさぁ」


 ミレーヌが黒革手帖を開いた。


「記録します。次の百人、すでに確保済み」


「はやすぎるわ」


「想定を超える速さです」


「鉄ちゃん、毎回こっちの想定超えてくるな」


「へへっ」


 工場の外から、大勢の気配がした。


 リリアーナが窓の外を見る。


 そこには、年齢も体格も違う者たちが並んでいた。


 若い男。


 力のありそうな女。


 年老いた職人。


 細い指を持つ者。


 大きな荷物を担げる者。


 子どもを抱いた母親。


 片足を引きずりながらも、背筋を伸ばす男。


 服は古い。


 靴もすり減っている。


 けれど、全員の目は前を向いていた。


 仕事を求めている目だった。


 自分の腕を使える場所を求めている目だった。


 リリアーナは、しばらく何も言わなかった。


 前の百人だけではない。


 その後ろにも、まだ人がいる。


 働ける者がいる。


 働きたい者がいる。


「パン工場は、次の雇用になりますね」


 メガネ聖女が静かに言った。


「せや」


 リリアーナは、新しいパン工場を見た。


「パンは王宮の朝食を良くするだけやない。舞踏会の食卓を飾るだけでもない。毎日の飯で、働く場所で、次の百人の持ち場になる」


 ロアンが息を呑んだ。


 自分が作るパンが、誰かの仕事になる。


 その意味が、ようやく腹に落ちた顔だった。


「……はい」


 ロアンは工場の外に並ぶ者たちを見た。


「必ず、良いパンを作ります。ここで働く方々が、自分の仕事を誇れるようなパンを作ります」


「頼むで」


「はい」


 その時だった。


「姫さん」


 鉄ちゃんが振り返った。


「その百人の中でも、まず会ってほしい奴がおりやす」


「誰や?」


「パンの腕がある男でさぁ」


 リリアーナの目が細くなった。


「腕がある?」


「へい」


「なら、会う」


 鉄ちゃんは工場の奥へ向かって声を張った。


「おい、マーガリンおじさん!」


「名前の癖」


 リリアーナが即座に言うと、ミレーヌも黒革手帖を構えた。


「記録します。マーガリンおじさん」


「まだ人物出てへん」


「名前が強いので」


「強い名前やな」


 奥から、小柄な男が現れた。


 年齢はよく分からないが、おじさんではある。


 丸い顔。


 粉のついた服。


 少し困ったような笑顔。


 だが、その手だけは違っていた。


 粉の白。


 火傷の跡。


 厚くなった指先。


 何度も何度も、生地へ触れてきた手だった。


「マーガリンおじさんでございやす」


「ほんまに名乗るんか」


「皆がそう呼ぶもんで」


「本名は?」


「マルガンでございやす」


「近いな」


「子どもらが言い間違えまして」


「マーガリンおじさんになったんか」


「へい」


「可愛い由来やった」


 マーガリンおじさんは、照れたように笑った。


「店を持つ金はありやせんでした。けど、パンは焼きたくて、貧民街で手に入る材料を集めて、子どもらが笑うならそれでいいと思って、ずっと焼いておりやした」


 リリアーナは、黙ってその手を見た。


 金はない。


 店もない。


 立派な窯もなかったはずだ。


 それでも、この手はパンを作ることをやめなかった。


 まただ。


 また、この世界は見落としていた。


 恋愛イベントの背景に、有能な者を埋めていた。


「姫さん」


 マーガリンおじさんが、布をかけた籠を差し出した。


「試作品を焼いてきやした」


「もうか?」


「昨日、鉄ちゃんに聞きやして」


「早いな」


「パン屋は、朝が早いもんで」


「筋が通っとる」


 布が外されると、香りが広がった。


 その瞬間、ロアンが一歩前へ出た。


「……これは」


 白パン。


 クロワッサン。


 フランスパン。


 ロアンの目が、三つのパンへ釘づけになった。


 白パンの割れ目。


 クロワッサンの層。


 フランスパンの焼き色。


 食べる前から、分かるものがあった。


「姫様。食べても、よろしいですか?」


「お前から行くんか」


「はい。これは、食べなければ分かりません」


「ええ。食え」


「ありがとうございます!」


 ロアンは白パンを手に取り、そっと割った。


 ふわり。


 中から湯気が逃げた。


 ロアンの目が大きく揺れる。


「……柔らかい」


 ひと口食べると、しばらく黙って味を確かめ、それからゆっくり息を吐いた。


「発酵がきれいです。水分が残っていますが、重くありません。甘みも強すぎず、毎日食べられる味です」


 メガネ聖女も小さくひと口食べ、目を見開いた。


「……素晴らしいです」


 彼女はパンの断面を見つめた。


「こんなパンは、生まれて初めて食べました」


 工場の空気が、少しだけ変わった。


 生まれて初めて。


 その言葉が、この世界のパンの貧しさを物語っていた。


 次に、ロアンはクロワッサンを見た。


「層が……」


 まだ食べていないのに、声が漏れた。


「これを、貧民街で?」


 マーガリンおじさんは、困ったように笑った。


「何度も失敗しやした」


「失敗だけで済むものではありません」


 ロアンがクロワッサンを割った。


 さくっ。


 軽い音とともに薄い層が崩れ、バターの香りが立った。


「外は軽く、中はしっとりしています。生地とバターの温度を見なければ、こうはなりません」


 メガネ聖女も頷いた。


「層が空気を抱いています。焼いた時に持ち上がる構造になっているのですね」


「はい」


 ロアンは感動した顔で、深く頷いた。


「これは、技術です」


 最後に、フランスパン。


 ロアンは表面を見ただけで息を呑んだ。


「焼き色がきれいです」


 切ると、皮がぱりっと鳴った。


 中は、もちっとしている。


 ロアンはひと口食べた。


「外側は香ばしく、中には水分が残っています。窯の熱を見ています。表面を焼き切りながら、中を乾かしすぎていません」


 メガネ聖女も食べた。


「硬いのに、嫌な硬さではありません。噛むほど小麦の甘みが出ます。これは保存食ではなく、食事の主役になれるパンです」


 リリアーナは、三つのパンを見た。


 白パン。


 クロワッサン。


 フランスパン。


 貧民街で焼いたとは思えないほど形が整っている。


 いや、違う。


 金があるパンではない。


 飾りがあるパンでもない。


 手があるパンだった。


 リリアーナはパンを置き、まっすぐマーガリンおじさんを見た。


「最高の腕やないか!!」


 工場が止まった。


 マーガリンおじさんの目が大きく見開かれる。


「……へ?」


「最高や。白パンは柔らかい。クロワッサンはサクッとして、中はしっとりしとる。フランスパンは外がカリッとして、中がもちもちや」


 リリアーナの声が、低く響いた。


「貧民街で、店も持てず、金もない中で、ここまで焼いてきたんか」


 マーガリンおじさんの唇が震えた。


「……子どもらが」


「うん」


「子どもらが、笑うもんで」


 それだけだった。


 だが、それで十分だった。


 リリアーナの横には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が立っていた。


 低く鋭い目で、マーガリンおじさんの手を見ている。


 恋愛イベントの相手を見る目ではない。


 人材を見る目。


 職人を見る目。


 背景にされた者を、表へ出す目だった。


「ほんま、この世界は見落としすぎや。鉄ちゃんも、ロアンも、マーガリンおじさんも、みんなちゃんと腕がある」


 誰も茶化さなかった。


「恋愛フラグばっかり追うて、攻略対象ばっかり見て、何を見逃しとんねん。国を動かす人間、背景に置きすぎやろ」


 ミレーヌが静かにペンを走らせた。


『背景にいた職人、発掘。

マーガリンおじさん。

本名、マルガン。

強み、白パン、クロワッサン、フランスパン。

動機、子どもたちの笑顔』


 ロアンが、マーガリンおじさんの前へ立った。


「マーガリンおじさん」


「へ、へい」


「教えてください」


 マーガリンおじさんが固まった。


「王宮料理長様が、何を……」


「私は工程を知っています。ですが、あなたの手が知っていることを知りたいのです」


 ロアンは深く頭を下げた。


「一緒に、パンを作ってください」


 マーガリンおじさんの目から、涙が落ちた。


「……俺なんぞで」


「なんぞ言うな」


 リリアーナの声が飛ぶと、マーガリンおじさんは肩を跳ねさせた。


「腕がある奴が、自分を下げるな。下げる暇があるなら焼け。店がなかったなら工場で焼け。一人で足りんかったなら、百人に教えろ」


 マーガリンおじさんは、工場の外に並ぶ者たちを見た。


 仕事を求める百人。


 自分の技術を覚えようとしている者たち。


 自分と同じように、場所を持てなかった者たち。


 マーガリンおじさんは、泣きながら笑った。


「へい……!」


「ロアン」


「はい!」


「お前とマーガリンおじさんがおったら、勝ったも同然や!」


 リリアーナは工場の外に並ぶ百人へ目を向けた。


「働く場所もある!」


 鉄ちゃんが胸を張った。


「へい!」


「作る奴もおる!」


「はい!」


 ロアンが答える。


「教える奴もおる!」


「へい!」


 マーガリンおじさんが涙を拭った。


「ほな、やるぞ!」


 その言葉に、工場が揺れた。


「オォーーー!!!!」


 新しく集められた百人が声を上げた。


 葉巻と煙草の工場で働く百人も続いた。


「オォーーー!!!!」


 鉄ちゃん組も拳を上げる。


「オォーーー!!!!」


 ロアンも、マーガリンおじさんも声を上げた。


「オォーーー!!!!」


 ミレーヌも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 バルドが鈴を鳴らす。


 チリン。


「士気の上昇を確認しました」


「鈴で確認すな」


「必要です」


「まあ、今のはええ音やったわ」


「ありがとうございます」


 ロアンは白パンを見つめ、マーガリンおじさんはクロワッサンを見ていた。


 二人の目は、もう客と職人のものではない。


 同じ現場を見る者の目だった。


 その後ろには、次の百人がいる。


 作り方を覚える者。


 粉を運ぶ者。


 窯を見る者。


 生地をこねる者。


 焼けたパンを冷ます者。


 包む者。


 運ぶ者。


 売る者。


 まだ役割は決まっていない。


 けれど、全員に持ち場ができる。


 リリアーナはパン工場を見渡した。


 鉄ちゃんが作った場所。


 ロアンが組む工程。


 マーガリンおじさんの腕。


 メガネ聖女の記録。


 モビーズの手。


 そして、貧民街の次の百人。


 葉巻と煙草の次は、パン。


 嗜好品の次は、食卓。


 そして、食卓は雇用になる。


「動かすぞ」


 リリアーナが言った。


「はい!」


 ロアンが答える。


「へい!」


 マーガリンおじさんも答えた。


「任せてくだせぇ」


 鉄ちゃんが笑う。


 工場の外に並んでいた百人も、それぞれの持ち場へ動き始めた。


 ミレーヌは黒革手帖を閉じた。


「記録します」


「もう閉じたやん」


「締めの記録です」


「なんや」


「パン工場、百人とともに始動」


 リリアーナは、少しだけ笑った。


「ええやん」


 その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も工場を見ていた。


 ふわふわの姫の隣に立つ、黒い若頭。


 乙女ゲームの光の中で、一人だけ現場の影を背負った男。


 だが、その影は暗いだけではない。


 背景にいた者を、見つけるための影だった。


 こうして、貧民街の外れに、働く者が働きやすいパン工場が生まれた。


 正確には、すでに建っていた。


 オヤジが根回ししていたからである。


 鉄ちゃん組の腕により、窯も、作業台も、発酵室も、休憩所も、搬入導線も、出荷導線も、だいたい完璧だった。


 そこへ、料理長ロアンとマーガリンおじさんが加わった。


 さらに、鉄ちゃんが連れてきた次の百人も加わった。


 白パン。


 クロワッサン。


 フランスパン。


 乙女ゲームの舞踏会に出るはずだった、きらびやかな恋愛イベントは、いつの間にか百人規模のパン工場になっていた。


 恋が始まるより先に、次の雇用が始まったのである。

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