第42話 料理人ロアン
パンが不味い。
それは、国王の一言から始まった。
いや。
正確には、前から全員うすうす思っていた。
硬くて、重くて、味がない。スープにつけなければ食べにくく、食べ物というより何かの試練に近い。
「まずは現場やな」
リリアーナが言った。
向かった先は、王宮の調理場だった。
王宮の厨房は広く、大きな窯や粉袋、水桶、作業台が整然と並んでいる。その中央には、焼き上がったばかりのパンが積まれていた。
そして、見ただけで硬そうだった。
「……見ただけで硬いな」
「硬いですね」
ミレーヌが即答した。
「言い切るな」
「事実ですので」
調理場の者たちは、突然現れたリリアーナを前に背筋を伸ばしていた。
今のリリアーナは、ただ体の弱い姫ではない。
葉巻と煙草の産業を動かし、工場を作り、貧民街に仕事を生み、レセプションパーティーまで成功させた姫である。
その横では、黒スーツ姿の清司が刀を肩に担ぎ、厨房全体を見渡していた。
「普段のパン、見せろ」
リリアーナが言うと、調理人が皿に載せたパンを差し出した。
硬い。
やはり硬い。
リリアーナはパンを手に取り、ひと口かじった。
こん。
「……こん」
ミレーヌが呟いた。
「言うな」
「パンから出てはいけない音がしました」
「言うなって」
リリアーナは無言で咀嚼したが、飲み込むまでに時間がかかった。
「水」
「はい」
ミレーヌが差し出した水を飲み、リリアーナは深く息を吐いた。
「……これは、あかん」
「記録します」
「記録せんでええ」
「パン、あかん」
「そのまま書くな」
調理場の空気が重くなった。
料理人たちは全員、これから怒鳴られると思っている顔だった。
だが、リリアーナは怒鳴らなかった。
怒鳴っても、パンは柔らかくならない。
「誰が作っとる」
「王宮の規定に従い、全員で作っております」
「規定か」
「はい。粉、水、塩の量も、焼き時間も決まっております」
「発酵は?」
「発酵……でございますか?」
リリアーナは目を細めた。
「……そこからか」
ミレーヌも黒革手帖を開いた。
「パン改善は、基礎から必要ですね」
「せやな」
その時、調理場の隅から違う匂いが漂ってきた。
硬いパンや焼けた粉の匂いではない。
香草と野菜の香りが重なった、少し甘くて食欲を引く匂いだった。
黒スーツ姿の清司は刀を肩に担いだまま、厨房の端へ視線を向けている。
誰も見ていない場所。
誰にも名前を呼ばれていない料理人。
だが、その手元だけは違っていた。
「……あれやな」
リリアーナも顔を向けた。
調理場の端にある小さな作業台で、一人の若い料理人が鍋を見つめている。周りの料理人よりも控えめな位置にいて、いかにも名前のないモブのようだった。
だが、手元の動きは丁寧だった。
鍋の中だけではなく、火を見て、香りを確かめ、野菜の柔らかさを指先で確かめている。
「おい」
リリアーナが声をかけると、若い料理人は肩を跳ねさせた。
「は、はい!」
「それ、何作っとる」
「こちらは、その……」
「怒らん。見せろ」
若い料理人は少し迷ったあと、小さな皿を差し出した。
柔らかく煮込まれた野菜に、香草を使ったソースがかけられている。見た目は素朴だが、香りが良かった。
「賄いか」
「いえ。趣味で試していたものです」
「趣味?」
「はい。王宮の献立には入れられません。規定外ですので」
「味見してええか」
「姫様がですか!?」
「なんや」
「いえ、そのような粗末な皿を姫様へお出しするわけには」
「うまいかどうか聞いとる」
若い料理人は一瞬黙った。
だが、料理を見た途端、その目から怯えが消えた。
「……美味しく作ったつもりです」
「ほな、出せ」
「ただし、熱いのでお気をつけください。姫様のお口を傷つけるわけにはまいりません」
「そこ気にするんやな」
「女性へ熱すぎる料理を出すなど、料理人以前の問題です」
「急に男前になったな」
若い料理人は皿の温度を確かめてから、改めてリリアーナへ差し出した。
リリアーナは小さくひと口食べ、黙った。
ミレーヌが少し身構える。
「清司さん?」
リリアーナは、もうひと口食べた。
黒スーツ姿の清司も静かに目を細めている。
「……うまい」
調理場が止まった。
若い料理人も固まった。
「え……」
「うまい」
二回言った。
「お前、名前は?」
「ロアンと申します」
「ロアン。なんでこれを出してへん」
「規定外ですので」
「規定外やから、うまいんか」
「いいえ。王宮の規定を守ってきた先輩方を否定するつもりはありません」
ロアンは慌てて首を振ったが、料理からは目を逸らさなかった。
「この厨房を支えてきたのは、私ではなく皆様です。食材の保存も、決められた量で大勢へ食事を出す技術も、私はまだ先輩方に及びません」
調理人たちがロアンを見る。
「ですが」
ロアンの声が、少しだけ強くなった。
「食べる方が苦しむ料理を、そのままでいいとは思いません」
リリアーナは目を細めた。
「姫様が水で流し込まなければならないパンを、料理人が黙って出し続けるのは違います」
「言うやん」
「申し訳ありません」
「謝るな。合っとる」
リリアーナは皿へ視線を落とした。
味がある。
香りがある。
食べやすい。
火の入れ方も分かっている。
派手な料理ではないが、食べる人間のことを考えて作られていた。
「お前、今日からリーダーや」
「……はい?」
「パン改善チームのリーダーや」
「お待ちください!」
ロアンの声に、調理場がざわついた。
「嫌なんか」
「そうではありません。ですが、私より長く厨房へ立っている方々を差し置いて、いきなり上に立つことはできません」
「ほう」
「パンも私の専門ではありません。先輩方に教えていただかなければ、粉の扱いも窯の癖も分かりません」
ロアンは調理人たちへ頭を下げた。
「私一人の力では何もできません」
そして、リリアーナへ向き直る。
「それでも、食べる方のためにパンを変えろとおっしゃるのであれば、皆様に教えを請いながら、味をまとめる役目を務めます」
「それでええ」
「ですが、リーダーというより――」
「名前はなんでもええ。うまいもんを作れる奴が中心に立て。先輩に頭下げるんも、職人に教えてもらうんも、お前の仕事や」
ロアンは息を呑んだ。
「パン、叩き直すぞ」
「……はい」
「声小さいぞ」
ロアンは背筋を伸ばした。
「はい!」
ミレーヌが黒革手帖へ書き込んだ。
『王宮調理場。
料理人ロアン発掘。
趣味料理、非常に美味。
女性への配慮、強め。
職人への敬意あり。
パン改善チーム、リーダー抜擢』
「途中から人物評価になっとるぞ」
「重要ですので」
「女性への配慮、強めはいらんやろ」
「今後も増えそうです」
「まだ一回やぞ」
その時、女性の調理人が熱い鍋へ手を伸ばした。
「危ない!」
ロアンはすぐに間へ入り、布を使って鍋を持ち上げた。
「火傷をしたらどうするんです。重いものは私が持ちますから、声をかけてください」
「す、すみません」
「謝らないでください。女性の手は料理だけでなく、たくさんのものを支える大切な手です」
「始まったな」
リリアーナが言った。
「女性への配慮、非常に強めへ変更します」
ミレーヌが記録した。
「早いねん」
ロアンはまだ緊張していたが、その目は死んでいなかった。
急に前へ出された恐怖。
見つけられた驚き。
それ以上に、料理人として認められた喜びと、食卓を変えたいという火が宿っていた。
リリアーナは、それを見逃さなかった。
「よし。次行くぞ」
「次はどちらへ?」
ミレーヌが聞いた。
「モビーズや」
「パンを?」
「作る」
リリアーナは、調理場に積まれた硬いパンをもう一度見た。
不味い。
だが、変えられる。
変えられる人間がいるなら、見つければいい。
力を使える場所へ立たせればいい。
その後、モビーズの作業場には大勢の者が集められていた。
葉巻と煙草の産業で動いた者たち。
記録する者。
作る者。
検品する者。
運ぶ者。
教える者。
そこにはメガネ聖女と、スギナ・カワイを含む『セイントミステリア』の者たちもいる。
さらに、パード・レオと『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも顔を出していた。
王宮の調理場から連れてこられたロアンは、大人数を前に少し緊張していた。
「人多いな」
リリアーナが言った。
「第3章ですので」
ミレーヌが答えた。
「メタいこと言うな」
パードはロアンを見た途端、楽しそうに笑った。
「え、料理できる男子? いいじゃん」
ロアンもパードを見て、姿勢を正した。
「美しい方に食べていただけるのであれば、料理人として光栄です」
「え、急に口説いてる?」
「料理を食べてくださる女性へ敬意を示しているだけです」
「パード、そーいうの好きー」
「お前ら、話進まへんぞ」
「黒王子、嫉妬?」
「ちゃうわ」
スギナは胸の前で両手を組んでいた。
「パン。それは日々の糧。魂を支える、白き祈り……」
「パンや」
「白き祈りのパン……」
「包むな」
アネイモが隣で淡々と言った。
「暴走は抑えます」
「頼む」
メガネ聖女は、すでにロアンから工程を聞き取っていた。
「小麦粉の粒の粗さ、水分量、塩、こね方、休ませる時間、窯の温度。すべて確認が必要です」
「早いな」
「パンは工程です」
「分かっとるやんけ」
「葉巻と煙草も工程でしたので、経験が使えます」
「ええやん」
ロアンはメガネ聖女がまとめた紙を見て、頭を下げた。
「これほど分かりやすく整理していただけるとは。ありがとうございます。私は粉と火しか見えておりませんでした」
「現場を分けて確認しているだけです」
「それができる方を、私は尊敬します」
「……ありがとうございます」
「誰にでもちゃんと敬意払うんやな」
リリアーナが言うと、ロアンは不思議そうに顔を上げた。
「職人の技術は、その方が積み重ねてきた時間です。年齢や立場に関係なく、私が持っていない技術を持つ方には教えを請います」
「筋通っとるな」
「料理人として当然です」
ワトゾンは記録用の紙を広げ、シャーホムズは粉袋を調べている。ネツゾウは工程表を作り始め、シュドケンは倉庫の粉を守る位置に立った。ゲンコワは不正な仕入れがないか帳簿を確認している。
イレギュラーは、すでに市場の粉の噂を拾いに行こうとしていた。
「待て」
リリアーナが止めた。
「まだ説明してへん」
「噂は早い方がいい」
「早いけど待て」
「分かった」
『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも、好き勝手に見えて動きは早かった。
キャプテントュリラーはリキュウと流通の話を始め、ティオは貴族向けの食卓について意見を出している。ゾンピグは海路と麦の輸送地図を広げ、チョップは食中毒対策をロアンへ伝えていた。
ヨホークが粉袋へ手を伸ばすと、ロアンが慌てて止めた。
「お待ちください。それは乱暴に扱わないでください」
「粉袋だぞ」
「中身は、農家と製粉職人が作った大切な食材です。斬るものと同じように扱われては困ります」
ヨホークが手を止める。
「……分かった」
「ありがとうございます。運ぶ時は底を支えてください」
「料理になると強いな」
リリアーナが言った。
「食材を粗末に扱う方には、相手が誰でも申し上げます」
「ええやん」
シャチは荷運びの邪魔になっていた樽を一瞬で退かし、ライガはすでに必要な道具を取りに走っている。ヘイオンは全体を見ながら配置を考え、スイチョは姿こそ見えないが、おそらくどこかからすべてを見ていた。
「……使えるな」
「使えます」
リキュウが頷いた。
「リキュウ、お前がここのメンバーなん、ほんま分かるわ」
「ありがたきお言葉でございます」
「褒めてる時と、褒めてへん時があるからな」
「今回は褒めていただいたと受け取ります」
「強いな」
ロアンは、周囲を見て固まっていた。
「私が、この人数をまとめるのですか……?」
「全部まとめろとは言ってへん」
「え?」
「お前は味を見る。火を見る。粉を見る。食べる人間を見る。周りは、それを支える」
リリアーナが言うと、ロアンは息を止めた。
メガネ聖女が頷く。
「工程は私が整理します」
ワトゾンも紙を持ち上げた。
「記録は任せてください」
リキュウは穏やかに微笑んでいる。
「仕入れと流通は、こちらで」
パードが元気よく手を上げた。
「試食はパードもやるー」
「お前は食べたいだけやろ」
「でも、味分かるし?」
「ゲロマズ判定は早かったな」
「でしょ?」
ロアンがパードへ微笑んだ。
「試食していただけるのであれば、必ず美味しいものをお出しします」
「ロアン、パードにだけ優しくない?」
「女性には、美味しいものを笑顔で食べていただきたいので」
「黒王子、ロアンもらっていい?」
「物みたいに言うな」
スギナも目を輝かせた。
「私は、パンが美味しく焼き上がるよう祈ります」
「祈りすぎるなよ」
「存在がポーションですので」
「自分で言うな」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「役割分担は可能です」
「せやな」
リリアーナは、集まった者たちを見渡した。
モビーズ。
『セイントミステリア』の者たち。
『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たち。
王宮調理場のロアン。
そして、これまで現場へ戻ってきた者たち。
葉巻。
煙草。
工場。
重要書類。
レセプションパーティー。
すべてが、彼らの力で形になった。
だから、次もやる。
リリアーナの小さな体が、ほんの少し前へ出る。
その横では、黒スーツ姿の清司も刀を肩に担いだまま一歩前へ出た。
ふわふわの姫と、黒スーツの若頭。
二つの姿が、同じ現場を見渡している。
「葉巻と煙草。お前らの力は、思ってた以上の結果やった」
モビーズが息を呑んだ。
『セイントミステリア』の者たちも、『紅月の海賊ヴァンパイア』の者たちも静かに聞いている。
「工場が動いた。商いが動いた。貧民街にも金が回り始めた。重要書類も守った。レセプションも成功した。注文も捌いた」
リリアーナの声は淡々としていたが、その奥には熱があった。
「やから」
一拍置く。
「お前らなら、できる」
誰も笑わなかった。
「今度は、毎日の飯や」
ロアンが顔を上げた。
「パンが不味い。飯が弱い。食卓が弱い。そこを叩き直す」
黒スーツ姿の清司は刀を肩に担いだまま、集まった者たちを見ている。
「お前らの力、見せたれ。パン作るぞ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、モビーズの声が揃った。
「はい!」
「記録します!」
「工程を組みます!」
「粉を確認します!」
「窯を見ます!」
「仕入れを調べます!」
「市場を探ります!」
「海路も見ます!」
「試食するー!」
「祈ります!」
「祈りすぎるな!」
現場が動き始めた。
早い。
誰にも迷いがない。
もう、誰も背景ではなかった。
それぞれが、自分の持ち場を分かっている。
ロアンも胸の前で拳を握った。
「やります」
「声小さいぞ」
ロアンは、周囲の料理人や職人たちを見た。
「皆様の技術を、どうか私に貸してください。必ず、食べる方が笑顔になるパンを作ります!」
「ええやん」
リリアーナは頷いた。
それだけで、ロアンの背筋がさらに伸びた。
スギナは、リリアーナの横に立つ黒スーツ姿の清司を見つめている。
パードも同じだった。
ふわふわの姫の隣に立つ、刀を担いだ黒い男。
甘い乙女ゲームの光から、一人だけ外れたような存在。
パードは頬を緩ませた。
「やっぱ黒王子、超タイプ」
スギナも胸の前で両手を組む。
「黒き運命の守護者様は、私の魂が見つけた攻略対象です」
「え、待って。黒王子はパードの攻略対象なんだけど」
「いいえ。魂の波動が、私に告げています」
「パードも顔面と中身に告げられてるし」
「それは波動ではありません」
「刺さった時点で波動っしょ」
「真似しないでください」
「ウケる」
リリアーナは二人の会話を聞き流し、粉袋へ顔を向けた。
「粉の種類、全部並べろ。水の量も変えて試すぞ」
「はい!」
「窯の温度も記録しろ」
「はい!」
「ロアン、お前は全部味見して判断せぇ」
「承知しました。ただし、まずは製粉職人と窯番の方から話を聞かせてください。この場所を一番知っているのは、私ではありません」
「ええ判断や」
「ありがとうございます」
「メガネ聖女、工程表」
「すぐに作ります」
「リキュウ、粉の仕入れ」
「承知しました」
「ゾンピグ、海路で麦の産地を調べろ」
「パード様のためなら」
「俺の指示や」
「黒王子のためにも」
「増やすな」
現場は次々に動いていく。
ヒロインたちの火花より、パンの方が優先だった。
ミレーヌが黒革手帖を開く。
「清司さん」
「なんや」
「攻略対象にされました」
「おい、俺ふわ姫やぞ」
「記録します」
「するな」
パードが楽しそうに笑った。
「黒王子、攻略対象っぽいもん」
スギナも深く頷いている。
「黒き運命の守護者様は、選ばれし存在です」
「拾わんぞ」
リリアーナは粉袋を見た。
「まず粉や。パンが先や。恋愛フラグは後や」
「後にはあるんですね」
「ない」
ミレーヌは黒革手帖へ何かを書き込み、静かに閉じた。
リリアーナは額に手を当てた。
パンを作るだけだった。
いや、パンを作るだけではない。
国の食卓を変える。
人々の毎日の食事を変える。
それは確かに、大きな現場だった。
だが、なぜ自分が攻略対象になっているのかは分からない。
分からないが、現場はもう動き始めている。
粉が運ばれ、窯が確認され、水の量が測られる。工程表が作られ、仕入れの相談が始まり、海路の地図が広げられていく。
その中心では、ロアンが先輩料理人と製粉職人へ頭を下げながら、一つずつ話を聞いていた。
普段は控えめな料理人だった。
女性には甘い。
職人には謙虚。
食材を粗末に扱う者には、相手が誰でも譲らない。
料理のことになれば、筋を通して前へ出る。
清司が見つけたのは、ただ美味しい料理を作れる男ではなかった。
人の食卓を背負える料理人だった。
葉巻と煙草の次は、パン。
嗜好品の次は、食卓。
パン改善が始まった。
そして元若頭は、いつの間にかヒロインたちから攻略対象として狙われ始めていた。




