第41話 紅月の海賊ヴァンパイア
リリアーナは、普通に学園へ通っていた。
普通に。
この言葉が、今のリリアーナにとってどれほど大きいか。
少し前までは、部屋の端まで歩くだけで精一杯だった。王宮の廊下を歩くにもバルドの付き添いが必要で、学園へ戻るとなれば、車椅子、安全確認、休憩場所、体調記録。すべてを整えなければならなかった。
だが、今は違う。
短い距離なら自分の足で歩ける。長い移動や体調が悪い時には、車椅子を使えばいい。無茶さえしなければ、学園生活は回るようになっていた。
だから、バルドの護衛も外れている。
ただし。
「車椅子は常備です。休憩場所も確認済みです。無茶は禁止です」
隣を歩くミレーヌが言った。
「分かっとる」
「分かっている方は、三回も言わせません」
「相棒の詰め方やめろ」
「相棒ですので」
「便利に使うな」
リリアーナの横では、黒スーツ姿の清司が刀を肩に担いで歩いている。
普通の生徒には見えない。
見える者には見える。
そして最近、その見える者が増えてきている気がした。
ミレーヌは黒革手帖へ視線を落とした。
「黒スーツ姿の清司さんも、すっかり学園の日常風景になりましたね」
「背景にすな」
学園は、以前よりも落ち着いていた。
大階段は、もう恋愛イベントの舞台ではない。オートスロープは普通に使われ、噴水の前で泣く者も減り、授業を放り出す攻略対象もいない。
王子も公爵も貴族も、すでに自分の持ち場を覚えている。
恋愛フラグは、だいたい現場復帰していた。
「平和やな」
リリアーナが言った。
「はい。乙女ゲームとしては、かなり平和です」
「乙女ゲームとして、それでええんか」
「恋愛イベントは減りましたが、業務効率は上がりました」
「乙女ゲームとして、それでええんか」
二回言った。
その時だった。
「リリアーナ様」
優雅な声とともに、レイナが扇を手に歩いてきた。
姿勢も、歩き方も、表情も美しい。
そして、目だけは完全に仕事をしていた。
「お知らせがありますわ」
「嫌な予感するな」
「舞踏会ですわ」
リリアーナは、少し黙った。
隣に立つ黒スーツ姿の清司も、刀を肩に担いだまま動きを止める。
「……舞踏会?」
「はい」
「乙女ゲームっぽいやん」
「乙女ゲームですので」
「忘れかけてたわ」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「王族、貴族、他国の来賓が参加する舞踏会。長時間の滞在、挨拶、会場内の移動。場合によっては、ダンスも必要です」
「待て。ダンス?」
「舞踏会ですので」
「半日立つやつやんけ」
「正確には、半日歩き、挨拶をし、休憩を挟みながら必要に応じて踊ります」
「体力地獄やないか」
レイナは、にっこりと笑った。
「ですので、訓練計画の更新が必要ですわ」
「乙女ゲームのイベントが来たと思ったら、体力強化メニューかい」
「現場ですわ」
「便利やな、現場」
リリアーナは額に手を当てた。
舞踏会。
きらびやかな会場。
美しいドレス。
流れる音楽。
攻略対象に手を取られる姫。
普通なら、乙女ゲームの大イベントである。
だが、リリアーナの頭に浮かんだのは、歩行距離、休憩導線、酸素、靴擦れ、体力配分、途中離脱のタイミング、車椅子の待機位置だった。
「乙女ゲーム?」
「はい?」
「いや、なんでもない」
レイナは扇を閉じた。
「皆様には、すでに連絡しておりますわ」
「早いな」
「総括ですので」
その言葉どおり、攻略対象たちはもう動き始めている。
来賓対応、会場導線、休憩場所、温度管理、救護、合図。
誰も言われるのを待たず、自分の持ち場へ入っていた。
もう、恋愛イベントだけで動く者はいない。
「……現場復帰しすぎやろ」
リリアーナが呟いた時だった。
「姫様」
いつもの穏やかな笑みを浮かべたリキュウが現れた。
ただ、その後ろには見慣れない者たちが並んでいる。
学園の生徒ではない。
王宮の者でもない。
商人だけでもない。
潮の匂いと夜の気配。そこに、血のように赤い月の空気が混ざっていた。
「ご紹介したい方々がおります」
「嫌な予感しかせぇへん」
「葉巻と煙草をさらに遠くへ運ぶには、海の道が必要です」
「海か」
「はい」
リキュウが一歩横へずれた。
「こちらが――」
「ウケる。超イケメンじゃん」
紹介より先に、女が喋った。
派手だった。
髪も、目元も、爪も、まとっている空気も、全部が派手である。
圧倒的にギャルだった。
彼女はリリアーナではなく、その隣を見ていた。
刀を肩に担いだ、黒スーツ姿の清司を。
「歌舞伎映画の主演俳優じゃん。超タイプでヤバい」
「なんや、こいつ」
「聞いてる聞いてる。黒王子っしょ?」
「誰が黒王子や」
「そこの超イケメン」
「俺かい」
ミレーヌが、じっと女を見た。
「……この方、嫌いではありません」
「気に入ったんか」
「はい。私も前世では、お姉さん系の白ギャルでしたので。ノリが好きです」
「お前もギャルやったんかい」
「お姉さん系です」
「でもギャルやろ」
「上品なギャルです」
「ギャルに種類あるんかい」
「あります。清司さんは前世でも、ギャルとは縁がなさそうですものね」
「ないな」
「でしょうね」
「なんで納得しとんねん」
女は、けらけらと笑った。
「パード、そういうノリ好きー」
「パード?」
「パード・レオ。レオパードさんでもいいよ」
「自分でさん付けすな」
「パードがここに来たきっかけ、超ウケるんだけど聞く?」
「聞いてへん」
「パードさ、ホラー好きじゃん」
「知らんがな」
「スマホでホラーゲームやってたら、実は乙女ゲームでさぁ。は? 乙女ゲームじゃんって思った瞬間、この世界に来てたワケぇ」
「雑な転移やな」
「マジ、パネェ」
「お前のテンションがパネェわ」
リキュウは隣で、静かに微笑んでいる。
明らかに慣れている顔だった。
「リキュウ」
「はい」
「お前、ここのメンバーやったんか」
「はい」
「なんか分かるわ」
「ありがたきお言葉でございます」
「褒めてへん」
パードは後ろに並んだ者たちを、親指で指した。
「で、こっちが攻略対象たち」
「紹介の入り雑やな」
「まず船長。キャプテントュリラー。名前長いから、パードは船長って呼んでる」
「雑」
「パード様」
船長が静かに頭を下げた。
「パード様とか呼んでくんの、ウケるっしょ」
「攻略済み感すごいな」
「こっちがティオ。貴族ヴァンパイア。顔が高そう」
「顔が高そうってなんや」
「パード様」
ティオも優雅に頭を下げる。
「こっちはゾンピグ。航海士。地図読める。マジ助かる」
「それは助かる」
「パード様」
「ヨホークは剣士。だいたい斬る」
「物騒やな」
「パード様」
「チョップは医者。名前のわりに治す側」
「名前が悪い」
「パード様」
「シャチは戦闘担当。説明いらんくらい戦闘」
「説明せえ」
「パード様」
「ライガは実働。動き早い」
「パード様」
「ヘイオンは参謀。落ち着いてる」
「パード様」
「スイチョは偵察。気づいたら見てる」
「怖いな」
「パード様」
全員が、当たり前のようにパードを様付けで呼んだ。
パードは満足そうに笑った。
「一応、攻略済みっす」
「最後に言うことか?」
「だって、済んでるし」
「済ませ方が雑やねん」
「黒王子の言うことなら聞くー」
「なんで俺や」
「顔がいいから」
「理由が浅い」
「でも、強そうじゃん」
「そこは当たっとる」
リリアーナは、並んだ者たちを見た。
船長。
ヴァンパイア。
航海士。
剣士。
医者。
戦闘員。
実働部隊。
参謀。
偵察。
そして、商人。
癖は強い。
だが、使える。
海路、流通、護衛、偵察、医療、交渉、実働。
葉巻と煙草を海へ流すにも、これから国の食を変えるにも、必要な人材だった。
「……こいつら、流通に使えるな」
「はい」
リキュウが頷いた。
「リキュウがここのメンバーなん、ほんま分かるわ」
「ありがたきお言葉でございます」
「せやから、褒めてへん」
レイナが扇を閉じた。
「舞踏会にも、海路にも、食卓にも関わりますわね」
「総括早いな」
「総括ですので」
「また仕事増えたな」
「増えました」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
『紅月の海賊ヴァンパイア勢、合流。
パード・レオ。
通称、レオパードさん。
自称、パード。
攻略対象、攻略済み。
清司さんへの呼称、黒王子』
「最後いらん」
「重要です」
「黒王子は重要ちゃう」
「パードさんが呼び続けそうですので」
「嫌な予感するな」
「黒王子ー」
「もう呼んどる」
パードはリリアーナの前へ軽くしゃがむと、その横に立つ黒スーツ姿の清司を見上げた。
「で、黒王子。今なにしてんの?」
「舞踏会の準備や」
「へー。乙女ゲームっぽ」
「やっとな」
「でも顔が仕事モードじゃん」
「パン作るところやねん」
「パン?」
「あぁ。この世界のパン、どう思う」
リリアーナが聞くと、パードは即答した。
「ゲロマズだよねぇ」
「やっぱりな」
「パード、最初に食べた時バグかと思ったもん。噛んでも噛んでも飲み込めない系じゃん?」
「それや」
「スープないと無理なやつ」
「完全にそれや」
「口ん中の水分、全部持ってくじゃん」
「被害者おったわ」
「みんな言わないだけで思ってるっしょ」
「それな」
ミレーヌも頷いた。
「たしかに不味いですよね」
「お前も乗るな」
「事実ですので」
「パードさんは、パン作りに参加しますか?」
ミレーヌが聞くと、パードはぱっと笑った。
「え? いいじゃん。やろやろ」
「軽いな」
「食べ物、大事じゃん。しかも舞踏会あるんでしょ? キラキラしたところでゲロマズパン出たら、テンション下がるじゃん」
「それは確かに」
「かわいいドレス着て、口の中パサパサとか無理」
「乙女ゲーム目線の正論やな」
レイナが、すっと頷いた。
「舞踏会の食卓改善も必要ですわ。来賓が集まる以上、パンの質は国の印象に関わります」
「急に外交になったな」
「食卓は外交ですわ」
「ええこと言うやん」
リキュウが一歩前へ出た。
「海路、流通、人手、護衛。必要なものは揃います。食材の流通にも活用できます」
リリアーナは目を細めた。
「小麦か」
「はい」
「他国の麦、粉、酵母、窯、職人」
「すべて調べられます」
「パン改善に、海賊ヴァンパイアを使うんか」
「使えるものは使うべきです」
「お前、ほんま商人やな」
「ありがたきお言葉でございます」
「今のは褒めた」
「ありがとうございます」
レイナが扇を閉じた。
「では、舞踏会までに必要なことを整理しますわ。リリアーナ様の体力強化、会場導線、休憩場所、食卓改善、来賓対応、海路調査、パンの試作です」
「多い多い多い」
「総括ですので」
「総括したら減るわけちゃうぞ」
「減りませんわ」
「やろな」
リリアーナは、小さく息を吐いた。
第3章。
食卓現場復帰編。
その始まりは、舞踏会だった。
きらびやかな音楽。
美しいドレス。
華やかな挨拶。
そういう、乙女ゲームらしい物語になるはずだった。
だが、現実にはギャルが来て、海賊が来て、ヴァンパイアが来た。
そして、パンがゲロマズだと再確認され、仕事だけが増えた。
「……ほんまに乙女ゲームか?」
リリアーナが言った。
パードは楽しそうに笑う。
「ウケるっしょ」
「ウケとる場合ちゃう」
ミレーヌが黒革手帖を閉じた。
「第3章、始まりました」
「言うな」
「食卓現場復帰編です」
「言うなって」
学園の中庭には、柔らかな光が差していた。
かつてなら、恋が始まりそうな光だった。
今は、パンの話をしている。
乙女ゲームらしいきらめきは残っている。
ただし、その中心にあるのは恋ではなく、主食だった。




