第40話 パン、不味い
リリアーナは、王宮の廊下をゆっくりと歩いていた。
一歩。
もう一歩。
静かな足音が落ちるたび、白と淡い金のドレスの裾が揺れる。
隣にはバルド。
少し後ろには、黒革手帖を持ったミレーヌ。
そして、リリアーナの横では、黒スーツ姿の清司が刀を肩に担いで歩いている。
長い距離ではない。
走れるわけでも、階段を好きに上り下りできるわけでもない。
それでも、王宮内なら少しずつ歩けるようになっていた。
「……いけるやん」
リリアーナが言った。
バルドが隣で頷く。
「歩幅が安定しています」
ミレーヌも歩きながら黒革手帖を開いた。
「前より、ふらつきも減りました。王宮内の短距離移動は補助付きで可能。休憩を挟めば、複数区画の移動も視野に入ります」
「そこまで来たか」
「はい」
リリアーナは廊下の柱に手を添え、ゆっくりと息を整えた。
少し息は上がっている。
けれど、倒れ込むほどではない。
以前なら、部屋の端まで移動するだけで体力を使い果たしていた。それが今は、自分の足で王宮の廊下を歩いている。
ふわふわの姫の体も、少しずつ現場へ戻り始めていた。
「姫様」
バルドが静かに鈴を鳴らした。
チリン。
「本日は、ここまでです」
「出たな」
「必要です」
「せやな。ここで調子乗ったら終わる」
「はい」
リリアーナは、廊下に用意されていた椅子へ座った。
バルドが水を差し出し、ミレーヌが脈と呼吸を確認する。黒スーツ姿の清司は刀を肩に担いだまま、廊下の先を見ていた。
王宮。
学園。
工房。
工場。
そして、先ほど終わったレセプションパーティー。
この体で、ずいぶん動いた。
歩けなかった姫が、今は王宮内を歩けるようになった。
恋愛イベントどころではなかった体も、少しずつ自分の持ち場へ戻っている。
「……悪くないな」
リリアーナが小さく言うと、ミレーヌが顔を上げた。
「清司さん。順調です」
「せやな」
「ただし、無茶は禁止です」
「分かっとる」
「分かっている人は、そこまで即答しません」
「うるさいな」
「相棒ですので」
「便利な言葉にすな」
その時、廊下の向こうから王宮の使いが駆けてきた。
「姫様。国王陛下がお呼びです」
リリアーナが顔を上げる。黒スーツ姿の清司も、廊下の向こうへ視線を向けた。
「オヤジが?」
「はい。至急とのことです」
「至急……」
ミレーヌが黒革手帖を閉じた。
「嫌な予感がします」
「俺もや」
バルドはすぐに車椅子を用意した。
「移動は車椅子で」
「歩けるようになった余韻、もう終わりか」
「必要です」
「せやな」
リリアーナは車椅子に座った。
歩けるようにはなったが、急ぎの呼び出しに徒歩で向かえるほど、まだ体力は戻っていない。
王宮の廊下を車椅子が進むと、王宮の者たちは自然に道を開けた。
以前とは違う。
ただ、体の弱い姫を見る目ではない。
葉巻と煙草の産業を動かし、工場を作り、重要書類を守り、レセプションパーティーを成功させた姫を見る目だった。
そして、その中身が元若頭であることを知っている者たちは、静かに頭を下げていく。
やがて大きな扉の前へ着くと、バルドが静かに扉を開けた。
部屋の中には、国王と王妃がいた。
国王は葉巻をふかし、王妃は煙草を細くふかしている。
王宮の空気は、もうすっかり新しい嗜好品に馴染んでいた。
「来たか」
国王が言った。
「来たで。急ぎってなんや。ファイルか、新選組か、工場か」
「パン、不味い」
沈黙。
リリアーナは国王を見た。
黒スーツ姿の清司も、国王を見ている。
ミレーヌの手が黒革手帖の上で止まり、バルドも鈴を鳴らさなかった。
「……急になんや」
「パン、不味い」
「二回言うな」
「言うやろ」
国王は、テーブルの上に置かれたパンを指した。
硬そうだった。
見るからに硬い。
食べ物というより、何かの建材のようである。
「なんや、この世界のパンはよ。スープにつけんと食べられへんって、どういうことや。そのまま噛んだら顎やられるぞ」
「それは俺も思っとった」
「ダンボール食うてるんか思う」
「めっちゃ言うやん」
王妃も煙草をふかしながら頷いた。
「でも分かるわ。硬いし、重いし、味もない。朝から出されたら気分下がる」
「姐さんもか」
「そこまでや」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「たしかに不味いですよね。私も、なんだこれはと思っていました」
「お前も思っとったんかい」
「はい。記録するべきか迷っておりました」
「パンの味をか」
「生活の質に関わりますので」
「正論やな」
バルドはテーブルのパンを静かに見つめ、鈴を鳴らした。
チリン。
「改善が必要です」
「お前まで言うんか」
「必要です」
「パンに対しても必要言うんか」
「はい」
国王は葉巻をふかしながら、テーブルのパンを睨んだ。
「葉巻は吸えた。煙草もできた。工場もできた。貧民街も少し潤った。レセプションも大成功やった。ほな、次や」
「切り替え早すぎるやろ」
「パン、不味い」
「三回目やぞ」
「三回言うくらい不味い」
リリアーナもテーブルのパンを見た。
ずっと思っていた。
この世界のパンは、不味い。
硬い。
パサつく。
香りも弱い。
スープに沈めて、ようやく食べ物になる。
最初は姫の体が弱いから、そう感じるのかと思っていた。
けれど、違う。
普通に不味い。
「……まあ、確かにな。パンがこれやと、庶民もきついな」
「せやろ」
「貴族のパンでこれなら、下はもっときつい。保存食の問題もあるし、小麦の挽き方、焼き方、発酵、窯。全部見直しやな」
ミレーヌは、すでに黒革手帖へ書き始めていた。
「麦製品改善案。対象はパン、焼き菓子、保存食、麺類候補」
「待て。麺類候補ってなんや」
「麦製品すべてを見直すと、おっしゃいましたので」
国王が葉巻をふかした。
「麦製品、全部叩き直せ」
「範囲広がったな」
「パンだけ直して終わりやと思うなよ。小麦粉使うもん全部や」
「思ってへんけど……言うたな?」
「言うた」
「オヤジ、葉巻吸えたからって欲求解放されすぎやろ」
「今まで我慢しとったんや」
「一番は葉巻やったんやな」
「当たり前や」
「当たり前なんや」
王妃が笑った。
「ずっと言うてたもんな。葉巻吸いたいって」
「米より先やったな」
「米も食いたい」
「まだ言うな」
国王は、テーブルのパンを指で叩いた。
こん。
食べ物が出していい音ではなかった。
「なんとかせい」
「今、こんって鳴ったぞ」
「鳴るパンや」
「嫌やな」
「麦製品全部、現場見てこい」
「また現場か」
「現場復帰、得意やろ」
「得意の使い方間違っとる」
「リリアーナ」
国王の声が、少しだけ変わった。
国王ではなく、オヤジの声だった。
「国の飯は、国の力や。パンが不味いっちゅうことは、毎日の飯が弱いっちゅうことや」
王妃も煙草を灰皿へ置いた。
「毎日の飯が弱いと、人も弱る。働く力も、考える力も、楽しむ力も減っていく」
ミレーヌが静かに手を止め、バルドも姿勢を正した。
「嗜好品は、心に余裕を作る」
国王は葉巻をふかした。
「でも、まず飯や」
リリアーナは、もう一度テーブルのパンを見た。
硬くて、不味くて、スープにつけなければ食べにくいパン。
けれど、それを毎日食べている者がいる。
貧民街の工場で働き始めた者たち。
王宮で働く者たち。
学園に通う者たち。
国中の人間が、これを普通の食事として口にしている。
「……せやな。飯は大事や」
「やろ」
「パン、不味いは腹立つけど、言うてることは合ってる」
「腹立つ言うな」
「急に呼び出して、第一声がパン不味いやぞ」
「不味いからな」
「また言うた」
ミレーヌが黒革手帖へ記録した。
『第2章終盤。
葉巻・煙草産業、成功。
王宮内歩行訓練、進展。
次期課題、パン不味い。
対象、麦製品全般。
備考、ダンボール食うてるんか思う』
「最後の備考いらんやろ」
「国王陛下の重要発言です」
「重要なんか」
「印象には残ります」
「残るけど」
バルドが鈴を鳴らした。
チリン。
「次の現場が決まりました」
「お前、締めに入ったな」
「必要です」
「パンで締めるんか」
「はい」
国王は葉巻を灰皿へ置いた。
「なんとかせい」
王妃も煙草を置く。
「朝から美味しいパン、食べたいわ」
「姐さんの方が目的かわいいな」
「大事やろ」
「大事や」
リリアーナは車椅子の上で、小さく息を吐いた。
王宮内を歩けるようになった。
葉巻と煙草は売れた。
工場は動いた。
貧民街は少し潤った。
現場へ戻った者たちは、それぞれの持ち場で輝き始めた。
これで少し休める。
ほんの少しだけ、そう思っていた。
だが、異世界は甘くなかった。
パンが不味かった。
「……麦か」
「麦です」
ミレーヌが答えた。
「パンやな」
「パンです」
「保存食もやな」
「保存食です」
「焼き菓子も絡むな」
「絡みます」
「小麦粉の流通もやな」
「流通です」
「窯もやな」
「窯です」
「職人もやな」
「職人です」
「また産業やんけ」
「はい」
リリアーナは額へ手を当てた。
黒スーツ姿の清司も刀を肩に担いだまま、もう片方の手で額を押さえている。
国王はそれを見て、満足そうに葉巻をふかした。
「頼んだで」
「軽いな」
「期待しとる」
「重いな」
「どっちや」
「どっちもや」
ミレーヌが黒革手帖を閉じた。
「清司さん。第3章の現場が決まりました」
「言い方」
「麦製品改善編です」
「タイトルみたいに言うな」
「仮です」
「仮でも嫌や」
王妃が楽しそうに笑った。
「美味しいパン、楽しみにしてるわ」
国王も頷く。
「ダンボールから卒業や」
「ほんま、めっちゃ言うやん」
リリアーナは、王宮の窓の外を見た。
遠くには、工場のある方角が見える。
煙草の工場。
そこで働く人々。
動き始めた商い。
そして、その先に待っている次の現場。
葉巻と煙草が終われば、次はパン。
嗜好品の次は、主食。
恋愛フラグを現場復帰させていたはずが、今度は麦まで現場復帰させることになった。
リリアーナが、ゆっくりと息を吐く。
「休ませる気ないやろ、この世界」
黒スーツ姿の清司は、刀を肩に担いだまま窓の外を見ていた。




