第37話 イケたやん事件
王宮の食堂には、静かな時間が流れていた。
国王は葉巻をゆっくりとふかし、王妃は細い煙草を指に挟んでいる。リリアーナの前には体に優しい食事が並び、ミレーヌは黒革手帖を横へ置き、バルドは少し離れた場所で静かに控えていた。
完成した工場。
通った申請。
そして、絶対に守らなければならない分厚いファイル。
葉巻と煙草産業は、ようやく動き出したところだった。
「リキュウは」
リリアーナが尋ねると、ミレーヌは黒革手帖を開いた。
「商人仲間への報告に向かいました」
「ファイルは」
「持ち出し禁止と記録しました」
「記録しただけやろ」
「はい」
「不安やな」
チリン。
バルドが鈴を鳴らした。
「非常に不安です」
「お前が言うと余計怖いわ」
刀を肩へ担いだ黒スーツ姿の清司も、食堂の扉へ目を向けている。
その時だった。
廊下の向こうから、乱れた足音が聞こえた。
一人ではない。
複数の足音が、ばたばたと食堂へ近づいてくる。
「何か来たな」
リリアーナが言った直後、食堂の扉が勢いよく開いた。
バンッ。
全員が入口を見た。
王宮の兵士が、一人の男を抱えるようにして立っている。
リキュウだった。
服は乱れ、髪も崩れ、息は切れ、顔色は青い。それでも、両腕には分厚いファイルがしっかりと抱えられていた。
リリアーナは、一瞬で理解した。
「やっぱ持って行ってたんかい!」
「申し訳ございません……!」
兵士に支えられたリキュウは、震える腕でファイルを差し出した。
「ですが、ファイルは完全に守り切りました!」
食堂の空気が止まった。
リリアーナは、差し出されたファイルを見る。
ある。
葉巻と煙草産業の心臓が、確かにそこにある。
「……イケたやん」
リキュウは安堵したように息を吐いた。
「斬られそうで、死にそうでした……」
「そらそうやろな。何があった」
「新選組が来ました」
国王が、葉巻をふかす手を止めた。
「新選組」
「はい」
「何しに来た」
「ファイルを奪いに」
「目的がはっきりしとるな」
「非常にはっきりしておりました」
王妃は煙草を細くふかした。
「宴は」
「台無しでございます」
「やろな」
「皿も割れました」
「やろな」
「酒もこぼれました」
「やろな」
「肉は守りました」
「何の話や」
その時、廊下がさらに騒がしくなった。
「担架を持ってこい!」
「医務室へ運べ!」
「水を!」
「ファイル関連、確認!」
「姫様案件です!」
「肉も来ます!」
「肉はいらん!」
王宮の兵士たちが、次々と食堂の前を走り抜けていく。
普通の王宮なら、突然現れたボロボロの商人たちは門で止められていただろう。
だが、ここは違った。
オヤジに鍛えられた王宮である。
判断だけは、異様に早い。
倒れかけた者を支え、怪我人を担架へ乗せ、意識のある者から事情を聞き、ついでに持ち物まで確認していく。
一人。
また一人。
商人たちが食堂へ運ばれてきた。
服は破れ、髪は乱れ、顔には打撲の跡がある。階段から落ちた者は足を引きずり、椅子で殴られかけた者は頭を押さえ、酒瓶を避け損ねた者は全身から酒の匂いを漂わせていた。
皿を抱えたまま逃げた者もいる。
そして最後に、焼かれた肉の大皿を両腕で抱えた商人が現れた。
「……肉も、守りました」
顔を腫らしながら、誇らしげに肉を掲げている。
「お前は海賊の船長か!」
ミレーヌが黒革手帖を開いた。
「婦人服の名前の漫画の海賊ですね」
「やめろ。怒られるやつや」
「記録します」
「するな」
「肉は一枚も失われておりません」
「そこだけ報告すな!」
「骨付きも無事です!」
「細かく報告すな!」
肉を抱えた商人は、大皿をさらに高く掲げた。
「守り抜きました!」
「ファイルを守れ!」
「ファイルはリキュウ殿が守っておりました!」
「なら手伝え!」
「両手が肉でふさがっておりました!」
「肉を置け!」
「嫌です!」
「何でや!」
「取られるかもしれません!」
「誰も狙ってへん!」
「新選組が来たんですよ!」
「新選組もいらん言うてたやろ!」
「油断させる作戦かもしれません!」
「どんな作戦や!」
「肉を奪う作戦です!」
「ファイル奪いに来た言うてるやろ!」
「その裏に肉があるかもしれません!」
「ない!」
「まだ分かりません!」
「分かれ!」
肉の商人は誰にも渡すまいと、大皿を胸へ抱き締めた。
「この肉は、おれのだ!」
「誰も取らへん!」
「取られてからでは遅い!」
「何と戦ってんねん!」
「食欲です!」
「もう負けとるやんけ!」
リリアーナは、食堂へ集まった商人たちを見渡した。
全員、ボロボロだった。
けれど、誰も死んでいない。
誰も斬られていない。
ファイルもある。
肉もある。
「……イケたやん」
二回目だった。
ミレーヌも静かに頷く。
「はい。イケています」
「そういう言い方やめろ」
「全員、生還しております」
「そこはほんまにイケた」
「肉も生還しております」
「肉は生きてへん」
「焼かれておりますので」
「余計死んどるわ」
「ですが、まだ温かいです」
「そいつが抱いてたからや!」
肉の商人が、大皿へ頬を寄せた。
「おれが温めました!」
「気持ち悪い温め方すな!」
「肉も安心しております!」
「肉の気持ちを代弁すな!」
国王は葉巻をふかしながら、リキュウを見た。
「誰も殺されてへんのか」
「はい。斬られかけはしましたが、誰も斬られておりません」
「なんでや」
「うるせぇ子が助けてくれました」
リリアーナの目が動いた。
「うるせぇ子?」
「はい。ずっと泣きながら止めておりました」
「泣きながら」
「はい」
「どんな感じや」
商人の一人が、震える声で言った。
「やぁめぇてぇよぉー! と」
別の商人も頷く。
「人の物を取ったらだめだよぉー! と」
階段から落ちた商人は、足をさすりながら続けた。
「階段から落としたらだめだよぉー! とも言っておりました」
「正論やな」
「ものすごく正論でした」
「でも、うるさかったんか」
「ものすごくうるさかったです」
「どのくらいや」
「新選組が全員黙るくらいです」
「強いな」
「一人で全員へ説教しておりました」
「泣きながら?」
「泣きながらです」
「声は」
「ずっと大きかったです」
「息継ぎは」
「していたか分かりません」
「化け物やん」
「あと、殿も怒られちゃうよぉー! と言っておりました」
「誰に怒られるんや」
「本人も知らないそうです」
「知らんのかい」
「ですが、新選組は一度納得しておりました」
「アホやん」
「帰るか相談しておりました」
「帰ろうとしたんか」
「はい」
「帰ったんか」
「命令されたから帰れないと言っておりました」
「ほな戦うんか」
「何をすればいいか分からないと」
「アホやん」
「その後、またファイルを要求されました」
「一周して戻ってきたんやな」
「はい」
リリアーナは、少し黙った。
「名前は」
「麗と呼ばれておりました」
「麗」
「あと、聖子とも」
「聖子」
リリアーナの目が細くなる。
「うる……せいこ?」
刀を肩へ担いだ黒スーツ姿の清司も、同じように麗聖子という名前を考えている。
「うるせぇ子! そのまんまやんけ!」
ミレーヌは黒革手帖へ書き込んだ。
「名前が雑ですね。原作者が手を抜き始めた可能性があります」
「それ、スギナの時から思ってたけどな!」
「かわいすぎな」
「言うな」
「うるせぇ子」
「言うなって!」
「分かりやすいですので」
「分かりやすすぎんねん!」
王妃が煙草をふかしながら笑った。
「覚えやすいやん」
「姐さんまで」
「名前は覚えてもらってなんぼやで」
「商売人の目線で評価すな」
「ええ名前やん。麗聖子」
「並べると普通に綺麗な名前なんが腹立つな」
ミレーヌは書き終えた頁を眺めた。
「麗聖子。特徴、うるさい。能力、正論。攻撃方法、泣く」
「攻撃してへん!」
「新選組を止めています」
「ほな攻撃なんか」
「非常に有効です」
「新選組、泣き声に負けとるやん」
リキュウが静かに頷いた。
「はい。刀ではなく、声量に負けておりました」
「アホやん」
国王は、葉巻をゆっくりとふかした。
「新選組、嫌いやない」
「オヤジ、そこ評価すんのか」
「根性あるやんけ」
「ファイル盗りに来たんやぞ」
「盗れてへん」
「せやけどな」
「誰も斬ってへんのやろ」
「うるせぇ子に止められたからな」
「止まるだけ偉いやんけ」
「偉い基準が低すぎるやろ!」
リキュウは、疲れた顔で小さく頷いた。
「一度は帰ろうとしておりました」
「帰ろうとしたんか」
「麗殿に、人の物を取ってはいけないと説教されまして」
「正論やな」
「はい。新選組の方々も、それはそうでぃ、と」
「納得したんかい」
「その後、帰るかと相談を始めました」
「帰ったんか」
「信長様の命令だから帰れないと」
「ほな、また襲ってきたんか」
「その前に、何をすればいいか分からないと揉めておりました」
「何しに来たんや!」
「ファイルを奪いに来たはずなのですが」
「途中で目的見失っとるやん」
「最後には思い出しました」
「思い出して襲ってくんな!」
王妃が煙草を灰皿へ置いた。
「でも、また来るやろな」
「来るやろな」
リリアーナは、リキュウが守り抜いたファイルへ目を落とした。
「狙いは、これや」
「はい」
ミレーヌが黒革手帖を開き、静かに記録を始めた。
「葉巻・煙草産業重要書類ファイル襲撃未遂。新選組を名乗る集団。ファイル防衛成功。商人多数負傷。死者なし。肉、防衛成功」
「肉いらん」
「重要です」
「何がや」
「持ち帰っておりますので」
「持ち帰ったもん全部成果にすな」
「失わなかった物として記録します」
「ほな靴片方なくした新選組も書いとけ」
「新選組、履物一足のうち半分を損失」
「半分言うな!」
肉を抱えた商人が、大皿を少し持ち上げた。
「肉は損失ゼロです!」
「張り合うな!」
「一枚も落としておりません!」
「そこだけ完璧やな!」
「ありがとうございます!」
「褒めてへん!」
リリアーナは額へ手を当てた。
「これ、池田屋事件か?」
ミレーヌは、静かに首を横へ振った。
「イケたやん事件です」
「雑に変えるな」
「全員、生還しましたので」
「ファイルも守りました!」
リキュウが続ける。
「肉も守りました!」
肉の商人も続いた。
「お前は黙れ!」
チリン。
バルドが鈴を鳴らした。
「本件、イケたやん事件として記録します」
「お前まで乗るな」
「必要です」
「絶対必要ちゃう」
「死者が出ていないことは重要です」
その言葉に、食堂の空気が少しだけ落ち着いた。
確かに。
ファイルは守った。
全員、生きている。
誰も斬られていない。
誰も殺されていない。
麗聖子という、うるさい少女が泣きながら止めた。
新選組という、荒い男たちも、その声を無視して斬り続けることはできなかった。
商人たちは逃げ切った。
王宮は全員を受け入れた。
そして、誰一人欠けていない。
「……まあ、イケたやん」
リリアーナが言うと、商人たちは疲れ切った顔で頷いた。
かなりうるさく。
かなり雑に。
肉まで巻き込みながら。
それでも、死者は出なかった。
リリアーナは、集まった者たちを見渡した。
「シュドケン」
「はっ」
「商人たちを医務室へ運べ。王宮の守りも固めろ」
「承知しました」
「ゲンコワ」
「はい」
「事情を聞け。詰めるのは後や」
「承知しました。まず、誰が階段から落ちたか確認します」
「見たら分かる!」
「では、誰が椅子を倒したか」
「店の話は後や!」
「酒瓶を割った者は」
「お前、酒場の店主か!」
「証拠ですので」
「今はいらん!」
「承知しました」
「顔が承知してへん!」
リリアーナは、ミレーヌへ視線を移した。
「ファイルを王宮の保管場所へ戻せ」
「記録します」
「先に戻せ」
「戻しながら記録します」
「落とすなよ」
「両手で持ちます」
次に、リキュウを見る。
「リキュウ」
「はい……」
「次、持って行ったらしばく」
「深く反省しております」
「顔が反省しとらん」
「商人ですので」
「便利に使うな」
リキュウは、疲れ切った顔でわずかに微笑んだ。
「ですが、姫様」
「なんや」
「商人たちは、誰一人逃げませんでした」
リリアーナは黙った。
「全員、ファイルを守ろうとしてくれました。前へ出る者も、写しを抱えて逃げる者も、酒瓶を避ける者も、道を開ける者もおりました」
「肉を守る者もおりました!」
「お前は黙れ!」
それでも、肉を抱えた商人だけは誇らしげだった。
ボロボロの商人たちは、静かに頭を下げた。
肉を抱えた商人も、大皿ごと頭を下げる。
「肉は置け」
「はい」
ようやく、大皿が机の上へ置かれた。
王妃が煙草をふかしながら、その肉を見た。
「冷めてるな」
「そこ言うんか」
「ずっと抱えて走ってきたんやろ」
「温かそうやけどな」
「腕の温もりや」
「嫌な温まり方すな」
国王は、葉巻をふかした。
「肉、温めたれ」
「オヤジ」
「よう守ったんやろ」
「肉を?」
「肉もや」
「ファイルやろ」
「ファイルもや」
「順番逆や」
「腹減ってきたな」
「食う気か!」
肉の商人は慌てて、大皿を抱え直した。
「これは、おれの肉です!」
「また持つな!」
「取られる!」
「国王やぞ!」
「国王でも肉は別です!」
「そこだけ身分制度を越えるな!」
「肉は皆、平等です!」
「食う時だけや!」
国王が笑った。
「一枚くらいええやろ」
「一枚なら……」
「許すんかい!」
「骨付きは駄目です」
「条件あるんかい!」
「骨付きは、おれのです!」
「知らんわ!」
王妃が、肉の皿を見ながら言った。
「ほな、薄いとこ一枚もろたらええやん」
「姐さんまで食う気やん!」
「冷めた肉は早よ食べな固なるで」
「今、温め直す流れやろ!」
「先に一枚食べたらええ」
「理屈が肉側や!」
肉の商人は、大皿を抱えたまま悩み始めた。
「一枚だけなら……」
「何でお前が配給決めんねん!」
「おれが守った肉です!」
「肉の所有権強すぎるやろ!」
「命懸けでした!」
「ファイルより守ってたもんな!」
「はい!」
「認めるな!」
ミレーヌが黒革手帖へ書き込む。
「肉の所有権を主張。国王陛下へ一枚譲渡予定」
「記録すな!」
「骨付きは譲渡不可」
「細かい条件まで書くな!」
「重要ですので」
「何が重要や!」
チリン。
「温め直しが必要です」
バルドが言った。
「お前まで肉に乗るな!」
「必要です」
「それは必要やけど!」
食堂に、ようやく笑い声が広がった。
ファイルは守った。
全員、生きている。
肉もある。
たしかに。
イケたやん。
その夜、王宮では急ぎ医務室が動き、商人たちは傷の手当てを受けた。
葉巻と煙草産業の心臓である重要書類ファイルは、改めて王宮の厳重な保管場所へ戻された。
新選組は、誰も斬れなかった。
何も奪えなかった。
ファイルにも手が届かなかった。
ただし。
商人の肉にも、最後まで手は届かなかった。




