第36話 新選組!
葉巻と煙草の工場が動き出した。
働く者が集まり、それぞれの持ち場が生まれ、商いを始めるための書類もすべて整った。
リキュウは王宮の机へ、分厚いファイルを置いた。
「権利書、証明書、契約書、販売許可、商人ギルドの承認、税に関する書類。すべて申請は通っております」
リリアーナは車椅子の上から、その分厚さを見た。刀を肩へ担いだ黒スーツ姿の清司も、横からファイルを見下ろしている。
「……心臓やな」
「はい。葉巻と煙草産業の心臓でございます」
国王もファイルを手に取り、表紙を開いた。
表向きには国王陛下。
けれど、書類へ向ける目は完全にオヤジだった。
権利書から契約書まで一枚ずつ確認すると、国王はファイルを閉じて短く言った。
「完璧や」
それで十分だった。
リリアーナは、机の上へ戻されたファイルを見た。
「絶対守れ」
「もちろんでございます。商人仲間にも、すぐ報告いたします」
リキュウが静かに頭を下げる。
「報告はええけど、持ってくなよ」
「承知しております」
リキュウは、にこやかに笑った。
その笑顔が、少しだけ怪しかった。
「……ほんまに持ってくなよ」
「承知しております」
「二回言うた時は、持っていく時やねん」
ミレーヌは黒革手帖を開き、すぐに記録した。
『重要書類ファイル。
評価:完璧。
注意:持ち出し禁止。』
「禁止まで書いたか」
「必要ですので」
チリン。
バルドはファイルとリキュウを交互に見た。
「保管場所の確認が必要です。宴会場への持ち込みは推奨いたしません」
「せやな」
リキュウは、わずかに目をそらした。
刀を肩へ担いだ黒スーツ姿の清司は、その横顔をじっと見ていた。
その夜。
王都の一角にある酒場では、商人たちが盛大な宴を開いていた。
長い木のテーブルには酒や料理が並び、焼かれた肉の匂いと笑い声が店いっぱいに広がっている。
「通ったぞ!」
「権利も取れた!」
「販売許可も下りた!」
「税の取り決めも済んだ!」
「これで王都に流せる!」
「港にも出せるぞ!」
「他国にも売れる!」
「葉巻と煙草の時代が来る!」
「最高だ!」
商人たちは一斉に杯を上げた。
リキュウも、その中心で穏やかに笑っている。
そして、その横には分厚いファイルが置かれていた。
持ってきている。
持ってきていた。
あれほど持っていくなと言われた、葉巻と煙草産業の心臓を。
リキュウはファイルへそっと手を置いた。
「これは、皆様の努力の証でございます」
「リキュウ殿!」
「今日は飲みましょう!」
「いえ、私はまだ仕事中で――」
「仕事は終わった!」
「書類は完璧!」
「国王陛下も完璧やとおっしゃった!」
「もう最高ー!」
商人たちは浮かれていた。
商品を作り、工場を整え、権利を取り、契約を結び、税までまとめた。
ようやく商いが始まる。
その手前まで来たのだから、少しくらい浮かれてもよかった。
少しくらいなら。
シュドケンは酒を飲まず、壁際から店内を見渡していた。
「正面の扉、裏口、階段。すべて確認済みです」
「頼もしい限りです」
ゲンコワも柱のそばに立ち、客たちの顔を一人ずつ確かめている。
「不審な者がいれば、すぐに詰めます」
「宴の空気は壊さない程度にお願いいたします」
「努力します」
「少し不安でございます」
商人の一人が、再び杯を掲げた。
「葉巻と煙草の未来に!」
「未来に!」
「完璧なファイルに!」
「ファイルに!」
「肉に!」
「それは違う!」
テーブルの端では、一人の商人が大皿いっぱいの焼き肉を両腕で抱えていた。
宴が始まってから、ずっと肉だけを見ている。
「肉も大事だ!」
「今はファイルの話だ!」
「肉も未来だ!」
「何の未来だ!」
「食う未来だ!」
「今食え!」
「今食ってる!」
「じゃあ黙れ!」
肉の商人は大きな塊を頬張りながら、さらに皿を抱き締めた。
「この肉は、おれのだ!」
「誰も取らん!」
「取られてからじゃ遅ぇ!」
「何と戦ってるんだ!」
「空腹だ!」
「もう食ってるだろ!」
宴は、かなり浮かれていた。
その瞬間だった。
酒場の扉が、勢いよく開いた。
「御用はファイルである!」
店内の空気が止まった。
商人たちは杯を持ったまま固まり、リキュウも静かに入口へ顔を向けた。
「何か来ましたね」
「何かってなんだ!」
「分かりません。何かでございます」
「見れば分かるだろ!」
開いた扉の向こうには、荒い着流し姿の男たちが並んでいた。
腰には刀。
目つきは悪い。
そして、全員がなぜか得意げだった。
先頭の男が胸を張る。
「俺たちゃぁ……新選組でぃ!」
「新選組!?」
「なぜここに!」
「べらぼうめぇ! 驚いてる暇があんなら、ファイルを出しな!」
「ファイル!?」
「葉巻と煙草の権利書、証明書、契約書、販売許可、商人ギルドの承認、税の書類!」
「全部知ってるぞ!」
「そいつを一つにまとめた分厚いファイルでぃ!」
「葉巻と煙草産業の心臓だろうが!」
一人が隣の男の肩を叩いた。
「覚えられたか?」
「途中から分かんなくなった!」
「俺もでぃ!」
「じゃあ何で全部知ってるみたいに言ったんだ!」
「勢いでぃ!」
「勢いは大事だ!」
「ファイルも大事でぃ!」
「話を戻せ!」
リキュウはファイルを抱え、ゆっくりと立ち上がった。
「そこまでご存じなら、お渡しできない理由もお分かりでしょう」
「分かってっから奪いに来たんでぃ!」
「理屈が荒いですね」
「てやんでぃ! 荒くなきゃ新選組なんざやってられねぇ!」
「それは隊の運営を見直すべきではございませんか」
「見直してる暇はねぇ!」
「暇そうな人数で来ておりますが」
「全員忙しいでぃ!」
「何に」
「今から考える!」
「暇ではございませんか」
「うるせぇ! 細けぇこと言うな!」
「細かくありません。産業の心臓です」
「だから寄越せって言ってんだろうが!」
新選組は勢いよく店内へ踏み込んだ。
先頭の一人が入口の段差につまずき、後ろの男を巻き込んで倒れる。
「痛ぇ!」
「何しやがる!」
「段差が来たんでぃ!」
「段差は来ねぇ!」
「向こうから足にぶつかってきやがった!」
「床に謝れ!」
「床ぁ! 前を見ろ!」
「床は下だ!」
「だから見えねぇんでぃ!」
「立て!」
立ち上がった男たちは、何事もなかったように刀へ手をかけた。
「ファイルを渡しな!」
「お断りいたします」
リキュウはファイルを胸へ抱き寄せる。
「守れ!」
「ファイルを守れ!」
「酒を置け!」
「皿も置け!」
「肉は?」
「肉は後だ!」
「肉ぅ!」
「諦めろ!」
「嫌だ! この肉は、おれのだ!」
肉の商人だけは、誰よりも早く大皿を抱えてテーブルの下へ潜り込んだ。
「お前もファイルを守れ!」
「ファイルは食えねぇ!」
「食う必要はない!」
「肉は食える!」
「知ってる!」
「なら肉の方が大事だ!」
「今は違う!」
店内は一瞬で大混乱になった。
誰かが椅子を倒し、誰かが皿を抱え、誰かが酒瓶を棚へ避難させる。
そして一人だけは、肉を守っていた。
「肉は置け!」
「肉ぅ!」
「諦めろ!」
「おれは肉を置かねぇ!」
「ファイルの方を持て!」
「両手がふさがってる!」
「肉を置けば空くだろ!」
「それは無理だ!」
「何でそこだけ意志が強いんだ!」
シュドケンが新選組の前へ立った。
「ここは通しません」
「どきやがれぃ!」
新選組の男が刀を抜き、勢いよく斬りかかる。
シュドケンは刃を受け流したが、男は勢い余って壁へ突っ込んだ。
どんっ。
「壁が来た!」
「また向こうから来たのか!」
「この店、動くぞ!」
「動いてるのはお前らだ!」
「からくり屋敷でぃ!」
「普通の酒場です!」
壁をかすめた刀を見て、店主が叫んだ。
「店を壊すな!」
「てやんでぃ! 店よりファイルでぃ!」
「店も大事だ!」
「商人の言い分だな!」
「商人の宴です!」
「それもそうでぃ!」
「納得するな!」
その時だった。
「やぁめぇてぇよぉー!」
入口から、よく通る声が響いた。
新選組の男たちの顔色が一斉に変わる。
「麗!?」
「なんで来た!」
「下がってな!」
そこには、少女が立っていた。
麗である。
大きな目には涙が浮かび、頬にも流れている。声はすでに限界だが、逃げる気はなかった。
麗は新選組と商人たちの間へ入り、両手を広げた。
「人の物を取ったらだめだよぉー!」
「麗、こいつぁ任務でぃ!」
「人の物を取ったらだめぇー!」
「信長様の命令でぃ!」
「信長様の命令でも、泥棒したらだめだよぉー!」
「殿の命令にゃ逆らえねぇんでぃ!」
「でも泥棒したら、殿も怒られちゃうよぉー!」
「誰にでぃ!」
「知らないけどぉー!」
「知らねぇのか!」
「でも悪いことしたら怒られるよぉー!」
「それはそうでぃ!」
「納得すんな!」
「じゃあ帰るか?」
「帰れねぇ!」
「何でだ!」
「命令されたからでぃ!」
「じゃあどうすりゃいい!」
「分かんねぇ!」
「話が進まねぇ!」
麗の言っていることは正しい。
新選組の言っていることは、ほとんど分からない。
「とにかく、ファイルを寄越しな!」
「お渡しできません」
リキュウはファイルを抱えたまま後ろへ下がり、商人たちがその前に並んだ。
「リキュウ殿を守れ!」
「ファイルを逃がせ!」
「こっちです!」
「そちらは厨房です!」
「厨房から裏口へ出られる!」
「肉もある!」
「肉はもういい!」
「肉ぅ!」
「おれが守る!」
「お前は最初からそれしか守ってない!」
テーブルの下から飛び出した肉の商人は、大皿を頭の上へ掲げたまま厨房へ向かって走った。
その途中、新選組の男に肩を掴まれる。
「てやんでぃ! 邪魔でぃ!」
「肉は渡さない!」
「ファイルじゃねぇなら、どうでもいいんでぃ!」
「肉も大事だ!」
「知るか!」
「これは、おれの肉だぁー!」
「だから要らねぇ!」
「絶対に渡さねぇ!」
「誰も欲しがってねぇ!」
新選組の男は面倒になり、肉の商人を横へ放り投げた。
ごろごろと床を転がった商人は、柱へぶつかって止まる。
それでも、大皿だけは両腕で抱えていた。
「肉を守ったぞ!」
「今それどころじゃない!」
「一切落としてない!」
「強いな!」
「肉だけはな!」
商人は床へ倒れたまま、満足そうに肉を一枚食べた。
「うまい!」
「食ってる場合か!」
「守ったご褒美だ!」
「自分で食ってるだけだろ!」
その間に、別の商人が書類の写しを抱え、階段を駆け上がっていた。
「上に逃げろ!」
「写しも守れ!」
「待ちやがれぃ!」
新選組の男が追いかける。
「逃げ足だけは一丁前じゃねぇか!」
「捕まるものか!」
「待てと言われたら待て!」
「待つわけないだろ!」
「礼儀がなってねぇ!」
「襲撃してる奴が言うな!」
男は階段を二段飛ばしで駆け上がろうとしたが、三段目で足を踏み外した。
「あっ」
商人と新選組は、そろって階段を転げ落ちた。
「うわああああ!」
「てやんでぃーー!!」
どんっ。
麗は両手を頬へ当て、さらに大きな声で泣いた。
「落ちたぁー!」
床へ転がった新選組の男が、すぐに顔を上げる。
「斬っちゃいねぇ!」
「だからいいって話じゃないよぉー!」
「階段から一緒に落ちただけでぃ!」
「一緒ならいいわけでもないよぉー!」
「仲良く落ちたんでぃ!」
「仲良くない!」
「商人が喋った!」
「最初から喋ってる!」
「無事でぃ!」
「無事じゃない!」
「ならどっちでぃ!」
「痛い!」
「じゃあ生きてる!」
「判断が雑だよぉー!」
混乱の中、店の奥から誰かが叫んだ。
「聖子! 危ねぇ、下がってな!」
「麗でぃ!」
「誰だ、聖子って!」
「知らねぇ!」
「誰も知らねぇのに呼んだのか!」
「勢いでぃ!」
「また勢いか!」
すぐに、その名前は騒ぎの中へ消えた。
「リキュウ殿!」
シュドケンが新選組の刀を押し返しながら叫んだ。
「今です!」
「承知しました」
リキュウはファイルを抱え直した。
その顔から、宴を楽しんでいた商人の笑みは消えている。
命よりも書類を守る顔だった。
「リリアーナ様のもとへ運びます」
その瞬間、ゲンコワが新選組の一人の腕を掴んだ。
「侵入、器物損壊、強盗未遂。証拠は十分ですね」
「今詰めるな!」
リキュウが叫ぶ。
「承知しました!」
「返事しながら締め上げるな!」
「努力します!」
「努力する場所が違う!」
シュドケンが椅子を蹴って道を開いた。
「行ってください!」
「お任せあれ!」
リキュウは走り出した。
倒れた椅子を飛び越え、割れた皿を避け、床を転がる酒瓶を踏まないように進みながら、ファイルだけは絶対に離さない。
「待ちやがれぃ!」
「ファイルだ!」
「ファイルを追え!」
「どいつがリキュウだ!」
「ファイル持ってる奴でぃ!」
「分かりやすいな!」
「追えー!」
「リキュウ殿を逃がせ!」
「裏口を開けろ!」
「麗、どいてな!」
「やぁめぇてぇよぉー! 人の物を取ったらだめだよぉー!」
「今それどころじゃねぇ!」
「それどころだよぉー!」
「べらぼうめぇ、うるせぇ!」
「うるさくないよぉー!」
「声がでけぇ!」
「みんなもでけぇよぉー!」
「それはそうでぃ!」
「納得してる場合か!」
リキュウは酒場の扉へ手を伸ばした。
しかし、その前へ新選組の一人が飛び込んでくる。
「逃がさねぇ!」
リキュウは急停止した。
「どいてください」
「どかねぇ!」
「急いでおります」
「俺たちも急いでる!」
「何を」
「分かんねぇ!」
「では、どいてください」
「それとこれとは別でぃ!」
次の瞬間、肉の商人が大皿を抱えたまま横から突っ込んできた。
「肉が通るぞぉー!」
「何で来た!」
「道が空いたからだ!」
「空いてねぇ!」
どんっ。
新選組の男は肉の商人に弾き飛ばされ、テーブルの上へ転がった。
「てやんでぃ!」
「肉は無事だ!」
「俺を心配しろ!」
「お前は食えねぇ!」
「食う気だったのか!」
「食わねぇ!」
「じゃあ何の話だ!」
「肉の話だ!」
「ずっと肉の話しかしてねぇ!」
肉の商人は大皿を高く掲げ、勝ち誇った。
「肉は、おれが守る!」
「分かったから、そこをどけ!」
「あぁ!」
素直に横へずれた。
「そこは聞くんか!」
リキュウは開いた道を走り抜け、酒場の扉を開いた。
冷たい夜風が一気に吹き込む。
「逃げたぞ!」
「追え!」
「靴がねぇ!」
「履いてきただろ!」
「さっき階段で脱げた!」
「片方だけでぃ!」
「もう片方は?」
「履いてる!」
「なら走れ!」
「左右の高さが違う!」
「我慢しろ!」
新選組が店内で騒いでいる間に、リキュウは夜の王都へ飛び出した。
酒場には叫び声が響き、皿は割れ、酒はこぼれ、椅子は倒れている。
商人たちは必死だった。
新選組はアホだった。
麗は泣いていた。
そして、肉だけは一枚も失われていなかった。
葉巻と煙草産業の心臓は、リキュウの腕に抱えられたまま夜の街を走っていく。
何かが来た宴は、何が起きたのか分からないまま終わろうとしていた。




