第35話 斬らないで新選組
畳の部屋に、ぼんやりとした灯りが揺れていた。
障子の向こうでは、夜風が木々を鳴らしている。部屋の中には若い男たちが集まり、声を潜めていた。
学園でもない。
王宮でもない。
工場でもない。
そこには、別の物語の匂いがある。
「もう限界でぃ。おらぁ、あの野郎にはついていけねぇ」
「俺もだ。もう堪忍ならねぇし、黙っちゃいられねぇ」
「店で暴れる。金は払わねぇ。酒は飲む。女には絡む。挙げ句の果てに隊の名を出しやがる」
「何が隊のためだ。全部あいつのためじゃねぇか」
「あんにゃろ……殺っちまうか」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
男たちは互いの顔を見る。
若い。
荒い。
目つきが悪い。
腰には刀を差し、背中には隊の名を背負っている。
彼らは、この世界における攻略対象たちだった。
ただし、かなり治安が悪い。
「それきた!」
「待ってました!」
「それっきゃねぇ!」
「行くぞ、野郎ども!」
「オォー!!」
止まった空気は、一瞬で勢いに押し流された。
作戦会議というより、祭りの始まりである。
「静かに行くんじゃなかったのか!」
「静かに行ってるでぃ!」
「声がでけぇよ!」
「おめぇもでけぇ!」
「そいつぁ失礼!」
「謝る声もでけぇ!」
男たちは立ち上がると、畳を踏み鳴らしながら廊下へ飛び出した。
静かに歩くつもりはあった。
つもりだけはあった。
けれど、一人が柱へ肩をぶつけ、もう一人が廊下に置かれていた桶を蹴り飛ばし、最後の一人は障子を開けようとして壁を叩いた。
「こっち、壁でぃ」
「知ってらぁ!」
「何で開けようとしたんだよ!」
「念のためでぃ!」
「何の念だ!」
織田信長の前では、少しでも賢そうに見えれば何を命じられるか分からない。
だから彼らは、今日も全力で馬鹿を演じていた。
演じ続けた結果。
どこまでが演技なのかは、もう誰にも分からなかった。
どうにか別の部屋の前までたどり着くと、中から大きないびきが聞こえてきた。
「呑気に寝てやがる」
「腹立つな」
「顔見てねぇのに、もっと腹立ってきたぜ」
「水だ。水持ってこい」
「任せろ!」
一人が走り出し、すぐに空の桶を持って戻ってきた。
「水は?」
「忘れた!」
「何しに行ったんでぃ!」
「桶を取りに!」
「半分しか仕事してねぇ!」
「なら半分褒めろ!」
「えらい!」
「褒めんな!」
もう一度走り、水をなみなみと入れた桶を抱えて戻ってくる。
「今度こそ入ってるぜ!」
「見りゃ分かる!」
「重かったからな!」
「感想はいらねぇ!」
男たちは障子へ手をかけた。
「せーの」
「待て」
「何でぃ」
「ここ、さっき開かなかった壁じゃねぇか?」
「障子でぃ」
「本当か?」
「開けりゃ分かる」
「頭いいな!」
「だろ?」
障子を開けると、今度は本当に部屋だった。
布団の上では、大きな男が豪快ないびきをかいている。
乱れた髪。
はだけた寝間着。
周囲に転がる酒瓶。
その男こそ、カモである。
隊の上に立ちながら暴れ、飲み、好き勝手をし、周囲へ迷惑をかけ続けてきた男。
この世界における、どう考えても厄介なリーダー枠だった。
「寝てるな」
「寝てるぜ」
「どうする?」
「起こす」
「どうやって?」
全員の目が、桶へ向いた。
「なるほど」
「頭いいな」
「だろ?」
「おめぇが考えたんじゃねぇだろ」
「俺たちで考えたんでぃ!」
「まだ何もしてねぇぞ!」
男たちは桶を持ち上げた。
そのまま、勢いよく傾ける。
ばしゃあっ。
「ぶはぁっ!」
冷たい水を浴びたカモは、布団の上で跳ね起きた。
「何呑気に寝てやがんでぃ!」
「な、なんだ貴様ら!」
「なんだじゃねぇ! おめぇの言うことなんざ、俺らもう聞けねぇんだよ!」
「店で暴れるのも限界だ! 酒癖も悪すぎるし、女に絡むし、隊の名まで汚しやがって!」
「それから寝相も悪い!」
「今それ関係ねぇだろ!」
「布団から足出てたでぃ!」
「寒そうだったぜ!」
「心配してんじゃねぇ!」
カモは濡れた髪を振り乱し、男たちを睨みつけた。
「わしに逆らうつもりか!」
「逆らうんじゃねぇ。見限るんでぃ!」
「見切り品でぃ!」
「そいつは売れ残りだ!」
「半額でぃ!」
「安くすんな!」
「何が忠臣蔵だ! 格好いいと思ってんのか!」
「忠臣蔵は関係ねぇ!」
「そうなのか?」
「多分な!」
「じゃあ何で言ったんでぃ!」
「勢いだ!」
「勢いなら仕方ねぇ!」
「仕方なくねぇ!」
カモの顔が、みるみる赤くなっていく。
「黙れ!」
「黙っちゃいられねぇって言ってんだろうが! おめぇのわがままにも限界なんでぃ!」
「隊を何だと思ってやがる!」
「俺らを何だと思ってやがる!」
「あと俺の団子食っただろ!」
「それは知らん!」
「一本減ってた!」
「数え間違いじゃねぇのか!」
「三本しかなかったんでぃ!」
「数え間違えようがねぇ!」
「じゃあ大事件だ!」
「団子はあとにしろ!」
男たちの手が刀へ伸びた。
ふざけていた空気が消え、揺れる灯りが刀の鞘を照らす。
水に濡れた畳が薄く光り、カモの顔から酔いが消えた。
その時だった。
「麗! 下がってろ!」
廊下の奥から、ばたばたと足音が近づいてくる。
「やぁめぇてぇよぉー!」
障子が勢いよく開き、少女が部屋へ飛び込んできた。
麗である。
大きな目を見開き、息を切らしているが、泣いてはいない。
麗は男たちとカモの間へ入ると、両手を大きく広げた。
「人、殺めちゃだめ!」
それだけだった。
命の尊さを長々と説くわけでもない。
正義を振りかざすわけでもない。
幼い子供でも分かることを、大声で言った。
人を殺めてはいけない。
それだけである。
「麗、どけ!」
「やぁめぇてぇよぉー! 人、殺めちゃだめ!」
「こいつは殺されても文句言えねぇだろ!」
「人、殺めちゃだめ!」
「だからってよぉ!」
「人、殺めちゃだめ!」
「同じことしか言わねぇ!」
「大事なことだからだよぉー!」
「理由はちゃんとしてやがる!」
男たちは、刀を抜きかけたまま固まった。
麗が邪魔なのではない。
邪魔ではある。
ものすごく邪魔ではある。
だが、彼女の言っていることが、あまりにも正しすぎた。
「……斬るのは、まずいか」
「まずいな」
「人、殺めちゃだめだからな」
「麗もうるせぇしな」
「うるせぇって言うな。聞こえるぞ」
「聞こえてるよぉー!」
「すまねぇ!」
「謝るの早いな!」
カモは濡れた布団の上で、鼻を鳴らして笑った。
「ふん。どうした。結局、わしを斬れんのか」
その一言が、よくなかった。
非常によくなかった。
男たちの顔から、笑いが消える。
「……斬れねぇな」
「あぁ。人、殺めちゃだめだからな」
「そうだな」
「だがよぉ」
一人が刀の柄から手を離し、代わりに拳を握った。
「殴るのは別だ」
ごすっ。
拳が、カモの頬へ入った。
「ぐえっ!」
「ちょっとぉー!」
麗が叫ぶと、男たちは一斉に振り返った。
「殺してねぇ!」
「斬ってねぇ!」
「拳で話してるだけでぃ!」
「話してないよぉー!」
「拳語でぃ!」
「そんな言葉ないよぉー!」
「今作った!」
「作らなくていいよぉー!」
カモは濡れた畳の上へ転がった。
「き、貴様ら! わしを誰だと思って――」
「カモだろうが!」
「カモじゃねぇか!」
「鳥でぃ!」
「鳥じゃねぇ!」
「水かけたから水鳥だ!」
「うまい!」
「うまくねぇ!」
「カモ鍋にするか!」
「煮るな!」
「人、殺めちゃだめぇー!」
「煮てもだめか!」
「当たり前だよぉー!」
「勉強になるな!」
「今さら何を学んでるのぉー!」
げしっ。
「店で暴れやがって!」
げしっ。
「酒瓶を割るな!」
げしっ。
「女に絡むな!」
げしっ。
「隊の名を出すな!」
げしっ。
「俺の団子も食うな!」
「それはわしではない!」
「じゃあ誰でぃ!」
「知らん!」
「未解決事件だ!」
「後で探偵呼べ!」
「今はいねぇ!」
「なら蹴る!」
「何でそうなる!」
げしっ。
「てやんでぃーー!!」
げしっ。
「べらぼうめぇー!!」
げしっ。
「江戸っ子なめんなぁー!!」
「おめぇら全員、江戸の生まれじゃないだろうが!」
「心が江戸でぃ!」
「便利だな!」
「心意気でぃ!」
「黙れ!」
カモは畳の上で頭を抱え、丸くなった。
刀は使われていない。
血も出ていない。
だが、尊厳はかなり削れていた。
「やぁめぇてぇよぉー! 人、殺めちゃだめ!」
「殺してねぇ!」
「斬ってねぇ!」
「蹴ってるだけでぃ!」
「それもだめぇー!」
「先に言ってくれ!」
「分かるでしょぉー!」
「分からなかった!」
「堂々と言わないでよぉー!」
説明しよう。
『幕末恋刃録 〜斬らないで新選組〜』とは、人斬り集団の攻略対象たちへ、麗が人を斬らないよう訴え続ける幕末乙女ゲームである。
斬らない。
だが、殴る。
蹴る。
水もかける。
これが、この世界の現状だった。
「おめぇの暴君ぶりには、もうついていけねぇんだよ!」
「隊を私物化すんじゃねぇ!」
「格好いいと思ってんのか!」
「だせぇんだよ!」
「てやんでぃーー!!」
「べらぼうめぇー!!」
男たちが大暴れする中、麗は両手を握りしめ、何度も同じ言葉を叫び続ける。
「やぁめぇてぇよぉー! 人、殺めちゃだめ!」
殺してはいない。
けれど、かなり痛い。
その時、廊下の向こうで床板が小さく鳴った。
男たちは一斉に動きを止める。
「……信長か?」
「やべぇ」
「馬鹿になれ!」
次の瞬間、全員がカモから離れた。
「わーい! 水遊びでぃ!」
「カモが泳いでらぁ!」
「畳の海でぃ!」
「船を出せぇ!」
「船なんざねぇ!」
「じゃあ桶でぃ!」
「おめぇら……!」
濡れた畳の上でカモが震える中、男たちは何事もなかったように笑い、踊り、桶を頭へかぶった。
廊下の足音が遠ざかるまで。
誰一人として、賢そうな顔はしなかった。
そして誰も、この状況を恋愛イベントだとは思っていなかった。




