第27話 ふわ姫歩く
翌朝。
リリアーナの部屋に、バルド・ハルディンが立っていた。
「本日は、部屋の端まで歩きましょう」
「……端?」
リリアーナの口から、低い声が漏れた。
寝台の横には、黒スーツ清司がいる。
黒い上着。
黒いシャツ。
緩めた襟元。
腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
説明しよう!
リリアーナは、毎朝バルドにしごかれていた。
最初は三歩。
今は、部屋の端まで歩く段階である。
ふわ姫、地味に成長中である!
リリアーナは、寝台の縁に手を置いた。
立つ。
以前なら、それだけで息が上がっていた。
だが、今は違う。
一歩。
二歩。
三歩。
そこで止まらない。
四歩。
五歩。
六歩。
黒スーツ清司の眉間の皺が、少しだけ動いた。
リリアーナは、部屋の中央を越えた。
さらに歩く。
壁際の小さな棚の前まで行き、そこで止まった。
息は上がっていない。
肩も震えていない。
膝も笑っていない。
ただ、立っている。
「……歩けとるやん」
リリアーナの口から、清司の声が漏れた。
チリン。
静かな鈴の音が、部屋に落ちた。
「見事です」
バルドが言った。
「鳴らしたな」
「はい」
「止める時以外にも鳴るんか」
「必要であれば」
「便利な鈴やな」
バルドは、まっすぐリリアーナを見た。
「部屋の中であれば、問題なく歩行できます」
「三歩から、ここまで来たか」
「毎日の積み重ねです」
ミレーヌは、すでにふわ管を開いていた。
「書くな」
「書きます」
「まだ何も言うてへん」
「顔に書いてありましたので」
ミレーヌは、さらさらと記録した。
『ふわ管。
対象:リリアーナ姫。
状態:室内歩行可能。
呼吸:安定。
膝:笑わず。
備考:三歩より大幅前進。』
「膝のこと書くな」
「重要ですので」
「ふわ管って名前、まだ納得してへんからな」
「正式名称です」
「誰が決めた」
「私です」
「勝手に正式化すな」
チリン。
バルドが、もう一度だけ鈴を鳴らした。
「見事です」
「二回言うんやな」
「必要です」
「褒める時もそれなんか」
「はい」
バルドは、静かに続けた。
「ですが、この次は王宮の建物内が目標です」
「急に広がったな」
「部屋の中と、建物内では違います」
「せやろな」
「床の硬さ。距離。人の流れ。段差。音。視線。途中で休む場所」
バルドは淡々と言った。
「すべて確認が必要です」
黒スーツ清司は、リリアーナの横で腕を組んだまま、黙っていた。
だが、その目は少しだけ鋭かった。
ただ歩く距離を伸ばす話ではない。
部屋の中だけではなく、王宮の中を動けるようになるということ。
自分の足で。
自分の意思で。
リリアーナが、少しずつ世界へ出るということだった。
「……ええやん」
リリアーナの口から、低い声が漏れた。
「やるぞ」
「はい」
バルドは頷いた。
「本日は、ここまでです」
「それは言うんや」
「言います」
「安心するわ」
その後。
リリアーナは、車椅子で学園へ向かった。
室内では歩ける。
だが、学園まで歩くのはまだ無理である。
無理はしない。
倒れて終わる訓練は、前進ではない。
これは、バルドの言葉だった。
説明しよう!
ふわ姫は歩いた。
だが、まだ長距離移動は車椅子である。
成長と保護は、両立するのである!
「ほんま、あいつの言葉じわじわ効いてくるな」
「バルド様は、静かな進行役ですので」
「進行役の範囲広ない?」
ミレーヌは答えなかった。
学園に着くと、大階段前には人だかりができていた。
いや。
もう、大階段ではない。
そこにあったのは、完成した魔石式移動補助通路だった。
幅の広い坂。
床下には魔石。
床一面には細かな滑り止め。
中央には、まっすぐな黄色い線。
右側は止まって乗る者。
左側は歩いて進む者。
車椅子も、荷車も、護衛を連れた貴族も通れる。
雨水は脇へ流れる。
案内板も、きっちり立っていた。
『右側:止まって乗る方』
『左側:歩いて進む方』
『車椅子・荷車優先』
『ローズの受け渡し禁止』
すべて、もう仕上がっていた。
「はやっ!」
リリアーナの口から、清司の声が漏れた。
横の黒スーツ清司も、同じ顔で目を見開いている。
「まあ、前回も早かったので驚きませんけどね」
ミレーヌが静かに言った。
「驚け」
「鉄ちゃん組ですので」
「理由になるんか」
「なっています」
「最後だけ異様に強いな」
「必要です」
バルドが、案内板を見ながら静かに言った。
「ほんまに完成しとるやん」
「任せてくだせぇと言いやしたんで」
鉄蔵が、動く通路の横で頭を下げた。
鉄ちゃん組の者たちは、最後の確認を終えていた。
魔石の流れ。
床の動き。
滑り止め。
黄色い線。
案内板。
水の逃げ道。
どれも、手を抜いていない。
黒スーツ清司は、車椅子の横で腕を組んだ。
眉間に皺。
だが、不機嫌ではない。
完全に検収の顔だった。
「試運転は」
「済んでおりやす」
「車椅子は」
「通してありやす」
「荷車は」
「通してありやす」
「雨は」
「水を流して確認済みでさ」
「本気やな」
「道ですんで」
「便利な言葉やな」
鉄蔵は、少しだけ笑った。
「姫さん、乗ってみやすか」
その場が、少し静かになった。
リリアーナは、車椅子に座ったまま、動く通路を見た。
部屋の中なら、歩けるようになった。
でも、外ではまだ車椅子がいる。
それでも。
この道は、通れる。
「乗る」
リリアーナは静かに言った。
ミレーヌが車椅子の後ろに回る。
バルドが横につく。
鉄蔵が、手で合図を出した。
「右側、空けろ!」
「へい!」
「車椅子通るぞ!」
「へい!」
鉄ちゃん組の声が響く。
リリアーナの車椅子は、ゆっくりと動く通路へ乗った。
床が、静かに流れる。
速すぎない。
揺れない。
滑らない。
車輪は、細かな溝の上で安定していた。
黒スーツ清司の目が、床の動きを追う。
それから、鉄蔵を見る。
「……ええやん」
声は、リリアーナの口から落ちた。
鉄蔵の目が、少しだけ細くなる。
「へへ」
上まで着くと、ミレーヌが車椅子を静かに止めた。
バルドが頷く。
「問題ありません」
「合格か」
「はい」
チリン。
バルドが鈴を鳴らした。
「また鳴った」
「完成確認です」
「鈴の用途増えすぎやろ」
「必要です」
鉄蔵が照れたように鼻の下をこすった。
「これで、春の交流会も人が流れやすくなりやす」
「交流会、いけるな」
「へい」
鉄蔵の手は、傷だらけだった。
石を削った手。
木を支えた手。
安く使われても、腕だけは捨てなかった手。
清司は、その手を見た。
貧民街。
腕があっても、見つからなければ沈む場所。
働く気があっても、場所がなければ腐る場所。
どうにかせなあかん。
そう思った。
けれど、口にはしなかった。
難しいことを、簡単に約束する気はなかった。
未来の約束は、できない。
清司が約束するのは、今すぐできることだけだ。
守れることだけだ。
「鉄蔵」
「へい」
「この道は、ええ」
鉄蔵が、少しだけ目を上げた。
「腕が良すぎる」
「……へへ」
「オヤジが見込んだだけある」
鉄蔵は、傷だらけの手を握った。
「ありがてぇことでさ」
清司は、完成したオートスロープを見た。
右側で止まり。
左側で歩き。
車椅子も通れ。
荷車も通れ。
雨の日にも滑らず。
黄色い線が、人の流れを分けている。
もう、ここは階段ではない。
道だった。
春の交流会に、人を流すための道だった。
「完成やな」
「へい」
「春の交流会、いけるぞ」
「へい。見届けやす」
鉄蔵は、深く頭を下げた。
それは、貴族の礼ではなかった。
けれど、仕事を終えた職人の礼だった。
リリアーナは、完成した道を見た。
そして、自分の足元を見た。
まだ長くは歩けない。
けれど、部屋の中なら歩ける。
学園には、車椅子でも通れる道ができた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
できることは増えている。
チリン。
「今のは何や」
「前進確認です」
「鈴、便利すぎるやろ」
こうして、ふわふわの姫は部屋の中を歩けるようになり。
恋愛イベントの名所は、人が通れる道へ変わった。
おいたわしいのは、
イベントをなくした階段である。




