第26話 鉄ちゃん組
翌朝。
リリアーナは、再び学園へ向かった。
目的は、大階段前の工事進捗確認である。
昨日の夜、清司はふわ姫女神に散々言われた。
恋愛イベントに欠かせない階段を、スロープにするとは何事でしょうか。
階段をすべてスロープにするのは、本当におやめなさい。
そう言われた。
なので清司としても、現場だけは確認しておくつもりだった。
全部壊す気は、なかった。
なかったのだが。
「……全部壊しとるやないか」
大階段は、消えていた。
昨日まで、学園の中央に美しく存在していた大階段。
攻略対象とのすれ違い。
転びかけた姫を抱き留める瞬間。
見下ろす視線。
見上げる表情。
差し伸べられる手。
乙女ゲームにおいて、ありとあらゆる恋愛イベントを発生させるために存在していた、あの階段が。
跡形もなく、撤去されていた。
代わりにあったのは。
幅の広い、ゆるやかな坂だった。
しかも、一本ではない。
上り用と。
下り用。
二本の坂が横に並び、同じ場所を反対方向へ動いている。
「オートスロープやんけ!」
「おーとすろーぷ?」
隣で、レイナが首を傾げた。
「忘れろ」
「ショッピングモールにあるやつですね」
ミレーヌが、横から静かに言った。
「分かるんかい」
「前世で見ましたので」
「相棒の理解が早すぎる」
リリアーナは車椅子に座ったまま、その光景を見上げている。
横には黒スーツ清司が立ち、まったく同じ顔で眉を寄せていた。
見ているのは、装飾ではない。
床。
幅。
人の流れ。
上る者と、下りる者がぶつからない間隔。
車椅子の通れる角度。
恋愛イベントの死亡確認ではなく、完全に現場確認の顔である。
「魔石式の移動補助通路だそうですわ」
レイナが言った。
「魔石で動かしとるんか」
「そのようですわ」
「上りと下りで、動く向きも分けとるんか」
「はい。右側が上り用。左側が下り用だそうですわ」
「台湾の空港にあったやつやん」
「たいわん?」
レイナがまた首を傾げた。
「忘れろ」
横で、エミールは工程表を握りしめている。
「予定より二日早く進んでいます」
「早すぎるやろ」
「私も工程表を修正しました。ですが、修正しても追いつきません」
「工程表が負けとるやないか」
「初めての経験です」
バルドは、上り用の動くスロープの入口に立ち、安全確認をしていた。
鈴は腰に下げられている。
鳴らしてはいない。
だが、ある。
「安全面は」
「保たれています」
バルドは静かに言った。
「上りと下りの通行導線、足元、周囲確認、いずれも問題ありません」
「なんでこんな早いのにちゃんとしとんねん」
「職人の腕です」
「誰が組んだ」
その時。
下り用のスロープの横から、太い声がした。
「姫さん、見てくだせぇ」
声の方を見ると、ひとりの男が立っていた。
日に焼けた首。
太い腕。
傷だらけの手。
少し汚れた作業着。
貴族の礼儀作法としては、たぶん正しくない。
だが、背筋は曲がっていなかった。
男は、二本の動くスロープの前に立ち、軽く頭を下げた。
「こいつは、ただの坂じゃねぇんで」
「見たら分かる。両方動いとる」
「へい。床下に魔石を仕込んでありやす」
男は、足元を軽く叩いた。
「上り用は上へ。下り用は下へ。魔石の力の流れを一方向に揃えて、床板をゆっくり動かしてやるんでさ」
「本格的やな」
「ただ動かすだけなら、そこまで難しくありやせん」
「ほう」
「止まれる速さ。足を取られねぇ角度。荷物が流れねぇ床。雨水の逃げ道」
男は、二本の床を見比べた。
「それに、上る者と下りる者が、入口と出口でぶつからねぇ配置」
「そこまでやって、ようやく道でさ」
「職人の圧が強い」
「道ですんで」
黒スーツ清司は、動く坂を見た。
前世で見た、台湾の空港のあれは便利だった。
便利ではあった。
だが、スーツケースが滑る。
上りでは、後ろへ流れそうになる。
下りでは、前へ走り出しそうになる。
支えなければ落ちそうになる。
気を抜くと、前後の人間に迷惑がかかる。
便利なはずなのに、妙に気を張る通路だった。
「けど、あれはスーツケース滑りそうで大変やったんよな」
「すーつけーす?」
「荷物箱や」
「へい。なら、そこは潰してありやす」
「潰した?」
「へい」
男は、上り用と下り用、両方の床を指した。
「床一面に、細けぇ溝を切ってありやす」
黒スーツ清司は、床を見た。
二本の床面全体に、細かな溝が均一に刻まれている。
靴底が滑らないように。
車椅子の車輪が流されないように。
荷車の車輪が横に振れないように。
上りでも。
下りでも。
進む方向へ、荷物だけが勝手に走り出さないように。
地味だ。
だが、丁寧だった。
「両方全部にか」
「へい」
「端だけでええやろ、ってならんかったんか」
「端だけじゃ足りねぇ。真ん中で滑ったら終ぇでさ」
「台湾空港の弱点、異世界で改善すな」
「そこもショッピングモールですね」
ミレーヌが、また静かに言った。
「冷静に分類するな」
「前世知識の照合ですので」
「相棒の補足が細かい」
男は、さらに上り用の床の中央を指した。
そこには、まっすぐ黄色い線が引かれていた。
隣にある下り用のスロープにも。
同じように、黄色い線が続いている。
「それと、上りも下りも、真ん中に黄色い線を引いてありやす」
「黄色」
「右側は、止まって乗る者。左側は、そのまま歩いて進む者用でさ」
「関西のエスカレーターマナーやんけ」
「かんさい?」
「忘れろ」
「えすかれーたー?」
「それも忘れろ」
「上りも下りも右側に止まる方を寄せれば、入口で人が迷いにくいんでさ」
「統一したんか」
「へい。場所ごとに変わったら、分からねぇ者が止まりやす」
「ちゃんと理由あるんかい」
「それに、上りの入口と下りの出口を少し離してありやす」
鉄蔵は、二本のスロープの端を指した。
上り用へ入る者。
下り用から出てくる者。
それぞれの進む先が、自然に左右へ分かれるように石が敷かれている。
「人が正面からぶつからねぇようにしてありやす」
「導線まで完成しとるやん」
「混ざると詰まりやす」
「関西式に職人の理屈足すな」
「道ですんで」
二本の動くスロープの入口には、すでに案内板まで立っていた。
『右側:止まって乗る方』
『左側:歩いて進む方』
『上り用・下り用をお間違えなく』
『車椅子・荷車優先』
『ローズの受け渡し禁止』
「最後の何や」
「バルド様より追加でさ」
「ローズ、完全に危険物扱いやんけ」
「現場の安全のためです」
バルドが静かに言った。
「上りと下りを間違えた状態で、ローズの受け渡しが発生すれば危険です」
「そんな限定的な事故ある?」
「ローズは悪くありません。しかし、場所とタイミングを誤れば危険です」
「ローズにここまで真面目な注意入ることある?」
「あります」
「あるんかい」
レイナは、二本のスロープに引かれた黄色い線をじっと見ていた。
「分かりやすいですわね」
「貴族の学園に黄色ラインってええんか」
「上る方と下りる方も、一目で分かりますわ」
「導線としては美しいですもの」
「美の基準変わっとるやん」
「人が詰まらず流れることも、美ですもの」
「レイナ、現場に染まりすぎや」
男は、傷だらけの手で床を軽く叩いた。
「分からねぇ道は、詰まりやす」
低い声だった。
「上りと下りが混ざれば、もっと詰まりやす」
「詰まる道は危ねぇ。危ねぇ道は、道じゃねぇでさ」
リリアーナは、少し黙った。
幅。
傾斜。
魔石。
滑り止め。
黄色い線。
右側と左側。
上り用と下り用。
入口と出口。
車椅子。
荷車。
雨の日の水の逃げ道。
全部、通る人間のためだった。
派手ではない。
だが、本気だった。
「……ええ腕や」
リリアーナが言った。
男の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「へへ」
男は、照れたように鼻の下をこすった。
「そいつを言われたくて、生きてきやした」
黒スーツ清司の眉間から、少しだけ皺が消えた。
笑ってはいない。
怒ってもいない。
ただ、覚えた顔だった。
「名前は」
「鉄蔵でさ」
「鉄蔵」
「へい。けど、皆には鉄ちゃんって呼ばれてやす」
「鉄ちゃん」
「へい」
ミレーヌが、横で黒革手帖を開いた。
『国王陛下直属建設班。
正式記録名:建匠衆。
頭:鉄蔵。』
「違ぇや」
鉄蔵が、ぼそりと言った。
ミレーヌの手が止まる。
「俺らは、鉄ちゃん組でさ」
「鉄ちゃん組」
「へい」
「急に現場感すごいな」
清司は、思わず言った。
ミレーヌは少しだけ考えたあと、書き直した。
『国王陛下直属建設班。
正式記録名:建匠衆。
現場通称:鉄ちゃん組。
頭:鉄蔵。
備考:本人希望により通称優先。』
「備考いらんやろ」
「重要ですので」
「職人のプライドみたいになっとる」
「実際、そうかと」
「せやな」
リリアーナは、もう一度現場を見た。
石を運ぶ者。
木を合わせる者。
上り用の魔石を床下へ組み込む者。
下り用の魔石の流れを確認する者。
二本の間にある水の逃げ道を整える者。
足場を外す者。
案内板の角度を直す者。
見た目だけなら、貴族の茶会には絶対に呼ばれない。
声は低い。
腕は太い。
手は傷だらけ。
服も泥で汚れている。
だが、仕事は静かだった。
石を置く。
角度を見る。
合図を出す。
下がる。
次の者が入る。
無駄がない。
雑ではない。
荒くれではなく、職人だった。
「……誰がこいつら組んだ」
リリアーナが言うと、ミレーヌが手帖をめくった。
「国王陛下です」
「オヤジかい」
「一年ほど前、国の民を見ると仰って、王宮を出られたそうです」
「一年前?」
「向かわれたのは、貧民街だったと」
リリアーナは、黙った。
つまり、今回のために急に集めたのではない。
オヤジは、もっと前から見ていたのだ。
貧民街。
王が、民を見ると言って向かった先が、そこだった。
商業区でもない。
貴族街でもない。
華やかな広場でもない。
国の端。
誰にも見られず、安く使われ、名も残らないまま働いている者たちの場所だった。
鉄蔵は、二本の黄色い線の向こうを見ながら言った。
「俺らは、ずっと下で働いてやした」
その声は、さっきより少しだけ低かった。
「名前も残らねぇ。金もまともにもらえねぇ。ただ使われるだけでさ」
「……」
「けど、腕だけは捨てませんでした」
鉄蔵は、自分の手を見た。
傷だらけの手だった。
「石の角は合わせる。木は鳴らさねぇ。水は逃がす。足場は揺らさねぇ」
鉄蔵は、少し笑った。
「そこまで雑にしたら、俺らが俺らじゃなくなりやすから」
リリアーナは、何も言わなかった。
「そんな時でさ」
鉄蔵は、少し遠くを見るような目をした。
「オヤジさんが来なすった」
オヤジさん。
鉄蔵は、王をそう呼んだ。
礼儀としては、たぶん正しくない。
だが、その呼び方には、妙な重みがあった。
国王ではなく。
陛下ではなく。
自分たちの腕を見て、拾い上げた男への呼び方だった。
「オヤジさんは、俺らを哀れみには来なかった」
鉄蔵は言った。
「腕を見に来たんでさ」
国王陛下は、貧民街の小さな作業場に現れたという。
欠けた道具で石を削る鉄蔵を見て、しばらく黙っていた。
そして、ただ聞いた。
「お前、腕に自信はあるか」
鉄蔵は、顔を上げた。
「……ありやす」
「金はもろてるか」
「まともには」
「ほな、来い」
「どこへで?」
「腕を見せられる現場や」
それだけだったという。
長い説得もない。
同情の言葉もない。
かわいそうだとも言わない。
ただ、腕を見た。
そして、現場を渡した。
「オヤジさんに拾われて、一年ほど経ちやす」
鉄蔵は、床を見た。
「飯も食える。屋根もある。道具もまともになりやした」
「……」
「俺らからしたら、贅沢でさ」
そこで、鉄蔵は少し声を落とした。
「けど、姫さん。まだまだ、貧困の差はありやす」
リリアーナは黙った。
「腕があっても、見つからねぇ奴がいる。働く気があっても、場所がねぇ奴がいる」
鉄蔵は、二本の黄色い線を見た。
「だから、道はちゃんと作らねぇといけねぇんでさ」
「上る道も」
「下りる道も」
「どっちも必要なんでさ」
白い学園の中に、しばらく沈黙が落ちた。
二本の動くスロープだけが、ゆっくりと流れている。
一方は、上へ。
もう一方は、下へ。
黄色い線は、それぞれの行き先へまっすぐ続いていた。
「……覚えとく」
清司は、低く言った。
「へい」
「この道だけやないな」
「へい」
「国にも、いるな」
鉄蔵は、短く頷いた。
「へい」
黒スーツ清司は、二本の黄色い線を見ていた。
上る者。
下りる者。
右に止まる者。
左を歩く者。
車椅子。
荷車。
滑り止め。
水の逃げ道。
ただの道ではない。
通れなかった者を、通すための道だった。
ミレーヌは、黒革手帖に書き足した。
『国王陛下直属建設班。
正式記録名:建匠衆。
現場通称:鉄ちゃん組。
頭:鉄蔵。
出身:貧民街、下働き、元無名職人。
特徴:荒い口調。仕事は丁寧。
強み:石工、木工、左官、測量、足場、水路、魔石機構。
備考:国王陛下が一年前に直接スカウト。
追加備考:鉄ちゃん組内での国王陛下呼称は、オヤジさん。
追加備考二:貧困差を現場から見ている。』
「最後、重いな」
「重要ですので」
「せやな」
リリアーナは、もう一度二本の動くスロープを見た。
その時、鉄蔵が懐から一枚の紙を取り出した。
「それと、オヤジさんから言葉を預かっておりやす」
「なんや」
鉄蔵は、紙を見ずに言った。
「ええ腕やろ、とのことで」
「ドヤるな」
国王陛下はいない。
いないのに、いる。
現場の隅々に、あのオヤジのドヤ顔だけが残っていた。
「あと、もう一つ」
「まだあるんか」
「ブツも忘れるな、とのことで」
「そこで台無しにすな」
ミレーヌは、淡々と記録した。
『国王陛下より伝言。
一、ええ腕やろ。
二、ブツも忘れるな。
備考:王家書簡としては、引き続き不適切。』
「ほんまに書くな」
「記録は武器ですので」
レイナが、上り用のスロープを見上げた。
その横では、下り用のスロープが静かにこちらへ向かって流れている。
「しかし、素晴らしいですわ。大階段よりも、ずっと多くの方が通れます」
「恋愛イベントは死んだけどな」
「ですが、上る方も下りる方も通れますわ」
「それはそう」
エミールは、工程表を見ながら頷いた。
「この導線が完成すれば、春の交流会の人の流れも変えられます」
「交流会、まだ生きとったんか」
「はい。上りと下りを分けることで、入場する方と退場する方がぶつかりません」
「今度は、事故を前提としない交流会にできます」
「ええことや」
バルドは、案内板の最後の一行を確認した。
『ローズの受け渡し禁止』
「必要です」
「そこまで警戒するか」
「必要です」
「二回言うな」
バルドは、鈴に手を添えた。
「鳴らすな」
「まだ鳴らしておりません」
「鳴らす気やったやろ」
「必要であれば」
「何にや」
「ローズに」
「ローズに鈴鳴らすな」
その時、遠くで作業員が声を上げた。
「鉄ちゃん! 水の逃げ道、こっちでいいか!」
「二本の間から左へ流せ! 黄色い線の下には通すな!」
「へい!」
「上りの荷車、右に寄せろ! 歩く奴の邪魔すんな!」
「へい!」
「下りの出口を空けろ! 出てくる奴とぶつかるぞ!」
「へい!」
鉄ちゃん組の声が、学園に響く。
恋愛イベントのための大階段は、もうなかった。
そこにあるのは、二本の道だった。
誰かが上に行くための道。
誰かが下へ戻るための道。
誰かが止まらず進むための道。
誰かが、初めて通れるようになるための道。
「……ええ現場や」
リリアーナが、低く言った。
バルドが静かに頷いた。
「はい。上りも下りも、安全は保たれています」
レイナも頷いた。
「見た目は少々強いですが、仕事は美しいですわ」
「見た目は少々どころちゃうけどな」
鉄蔵が、照れたように笑った。
「へへ。姫さん、仕上げまで見ててくだせぇ」
「見る」
リリアーナは、静かに微笑んだ。
姫スマではない。
仕事を見る者の顔だった。
「最後まで、頼むで」
「任せてくだせぇ」
こうして、恋愛イベントの名所だった大階段は。
国王陛下が一年前、貧民街で見つけた職人たちの手により、
上り用と下り用に分かれ、
大人数が通れ、
車椅子も通れ、
荷車も運べ、
雨の日も滑りにくく、
右側で止まり、
左側で歩け、
真ん中には黄色い線が引かれ、
床下には魔石が埋め込まれ、
ついでに自動的に反対方向へ動く、
やたら高性能な二本の移動補助通路へと生まれ変わっていた。
国王陛下からの伝言は、短かった。
「ええ腕やろ」
おいたわしいのは、
昨夜「階段をすべてスロープにするのは、本当におやめなさい」と言ったばかりの、ふわ姫女神である。




