第14話 パンくれるの?
翌朝。
リリアーナは、椅子に座っていた。
歩ける距離は、まだ室内で三歩。
昨日よりは安定している。
倒れる前に止まれる。
座り直すこともできる。
だが、外へ出るには程遠い。
その横で、黒スーツ清司がだるそうに腕を組んでいた。
ミレーヌは黒革手帖を開いている。
「本日、ノエル殿下が孤児院へ向かわれます」
「ほんまに行くんやな」
「はい。パン、果物、布、石鹸を用意しました」
「ええやん」
「護衛は、バルド・ハルディン殿にお願いしております」
清司は、少しだけ頷いた。
「それがええ」
「甘やかしませんので」
「そこを信用して頼むんや」
ミレーヌは、手帖へさらさらと書いた。
『チワワ王子、初現場。
護衛兼監督:バルド・ハルディン。
目的:僕を見て、から、僕が見る、へ』
「綺麗にまとめるな」
「業務ですので」
そこへ、ノエルがやって来た。
柔らかな金髪。
大きな瞳。
小さな王子らしい、可愛らしい顔。
だが今日は、少しだけ落ち着かない様子だった。
「リリアーナ姫」
「おはようございます、ノエル殿下」
「本当に、行くんだよね?」
「はい」
「リリアーナ姫は?」
「私はまだ行けませんので」
ノエルは、ぱちりと瞬きをした。
「まだ?」
「はい。今は、室内で三歩です」
「三歩」
「はい」
ノエルは、少しだけ困った顔をした。
「……じゃあ、僕だけで?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「見てくれないの?」
黒スーツ清司の眉間に皺が寄った。
また出た。
見てほしいやつや。
リリアーナは、姫らしく微笑んだ。
「報告を聞きます」
「報告」
「はい。何を見たか、何を聞いたか、何を感じたか。帰ってきたら、教えてください」
ノエルは、少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「……見てくれるんじゃなくて?」
「仕事を見ます」
「仕事」
「はい」
ノエルは黙った。
そこへ、バルド・ハルディンが現れた。
背筋の伸びた、渋い男である。
甘やかす気配は、ない。
「ノエル殿下。本日は私が同行いたします」
ノエルは、少し後ずさった。
「……あの、怖い人?」
「甘やかさない人です」
リリアーナは、静かに言った。
「だから、信用しています」
バルドは、わずかに頭を下げた。
「お預かりいたします」
ノエルは、リリアーナを見た。
見てほしい。
褒めてほしい。
そういう顔をしている。
だが、リリアーナはただ微笑んだ。
「行ってらっしゃいませ、ノエル殿下」
ノエルは、小さく息を吸った。
「……行ってくる」
そして、バルドと共に部屋を出て行った。
孤児院は、王都の端にあった。
華やかな王宮とは違う。
壁は古く、扉は少し歪んでいる。
庭には洗濯物が揺れ、子どもたちの声が重なっていた。
ノエルは、馬車を降りた瞬間、少しだけ固まった。
見られている。
だが、いつもの視線とは違う。
社交界の令嬢たちの、甘い視線ではない。
侍女たちの、微笑ましげな視線でもない。
子どもたちは、ノエルを見ていた。
そして、すぐに荷車を見た。
「……僕より、荷物?」
ノエルが小さく呟くと、バルドが静かに言った。
「腹が減っていれば、そうなります」
「本当に?」
「本当です」
バルドは荷車を指した。
「王子殿下。まず荷を下ろしてください」
ノエルは目を丸くした。
「僕は王子だよ?」
「存じております。ですので、荷を下ろしてください」
「王子なのに?」
「王子だからです」
ノエルは、しばらくバルドを見上げた。
バルドは、まったく揺れなかった。
怖い。
いや、違う。
甘やかさないだけだ。
ノエルは、不満そうにしながらも、パンの入った籠へ手を伸ばした。
重い。
「……重い」
「はい」
「パンって重いんだ」
「数があれば、重くなります」
「知らなかった」
「本日は、それを知るための日です」
ノエルは、むっとした。
だが、籠を持った。
その時、小さな子どもが近づいてきた。
髪は少し跳ねていて、服は古い。
大きな目で、ノエルを見上げている。
「王子?」
ノエルは、ぱっと表情を明るくした。
「そうだよ。僕はノエル・グランヴェール。第二王子だよ」
子どもは、少し考えた。
そして言った。
「パンくれるの?」
ノエルは固まった。
「……僕は王子だよ」
「知ってる」
子どもは、ノエルではなく、籠を見た。
「だから、パンくれるの?」
ノエルは、ぱちぱちと瞬きをした。
王子。
第二王子。
小さな天使。
そう呼ばれてきた言葉が、ここではあまり役に立たなかった。
子どもは、王子を見ている。
でも、それよりパンを見ている。
昨日、リリアーナが言った通りだった。
お腹が空いていれば、王子よりパン。
ひどい。
でも、たぶん本当だ。
ノエルは、少しだけ唇を尖らせた。
そして、籠からパンを一つ取った。
「……あげる」
子どもの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう!」
その声は、ノエルの名前を呼ぶ声ではなかった。
王子を褒める声でもなかった。
でも、まっすぐだった。
ノエルは、少しだけ目を伏せた。
「……バルド」
「はい」
「次は?」
「配ります」
「僕が?」
「はい」
「全部?」
「できるところまで」
「できなかったら?」
「できるところを増やします」
ノエルは、少しだけむっとした。
だが、パンを配り始めた。
一つ。
また一つ。
小さな手が伸びる。
ありがとう、という声が返ってくる。
パンを配り終えると、今度は果物を渡した。
布と石鹸は、孤児院の責任者へ預ける。
ノエルは、そのまま置こうとしたが、バルドに静かに止められた。
「王子殿下」
「なに?」
「用途を伝えて渡してください」
「用途?」
「何のために持ってきたのか。どう使ってほしいのか。それを伝えるまでが、届けるということです」
ノエルは、少しだけ目を丸くした。
そして、布と石鹸を持ち直した。
「これは、布。足りないところに使って」
孤児院の責任者が、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こっちは石鹸。手を洗うのに使って」
「助かります」
ノエルは、その言葉を聞いて、少しだけ黙った。
渡せば終わりではない。
何に使われるかを見る。
足りるかどうかを見る。
相手の顔を見る。
それも、仕事なのだ。
最初、子どもたちはパンを見ていた。
けれど、何度も手渡すうちに、少しずつノエルの顔も見るようになった。
「王子、明日も来る?」
ひとりが言った。
ノエルは、手を止めた。
「……明日も?」
「パンある?」
またパンか。
ノエルは、少しだけ頬をふくらませた。
だが、今度は怒らなかった。
「パンは、持ってくる」
「じゃあ来て」
子どもは、それだけ言って走って行った。
ノエルは、その背中を見ていた。
見てほしい。
ずっと、そう思っていた。
でも。
今、自分は初めて、誰かの背中を見ている。
バルドが静かに言った。
「王子殿下」
「なに」
「今、何を見ましたか」
ノエルは、少し考えた。
「……パンを待ってる子ども」
「はい」
「あと、明日も来るか聞いた子」
「はい」
「僕を見たんじゃなくて、パンを見てた」
「最初は」
「最初は?」
「何度も来れば、変わります」
ノエルは、黙った。
そして、小さく頷いた。
「……じゃあ、何度も来る」
夕方。
ノエルは、王宮へ戻ってきた。
朝より少しだけ髪が乱れている。
服の袖にも、うっすら粉がついている。
だが、顔は不思議とすっきりしていた。
リリアーナは、椅子に座ってノエルを迎えた。
その横には、黒スーツ清司。
後ろには、黒革手帖を持つミレーヌ。
「おかえりなさいませ、ノエル殿下」
「ただいま」
ノエルは、少しだけ照れくさそうに立った。
「報告を聞きます」
「うん」
ノエルは、小さく息を吸った。
「子どもたちは、最初、僕よりパンを見てた」
「でしょうね」
「でしょうねって」
「続けてください」
「でも、配ってたら、ありがとうって言われた」
ノエルは、自分の手を見た。
「明日も来るのかって聞かれた」
リリアーナは、静かに微笑んだ。
「それは、殿下を見ています」
ノエルの目が、少しだけ大きくなった。
「そうなの?」
「はい」
「パンじゃなくて?」
「パンもです」
「そこは否定してよ」
「嘘はよくありません」
ノエルは、むっとした。
でも、すぐに少し笑った。
「じゃあ、明日も行く」
「はい」
「パンを持って」
「はい」
「今日持って行った石鹸、すぐなくなった」
ミレーヌの筆が動いた。
「服も足りなさそうだった」
また、筆が動く。
「庭の柵が壊れてた」
さらに、筆が動く。
「水桶が重そうだった」
ミレーヌは、静かに頷いた。
「承知いたしました。石鹸は追加で用意します。衣類と柵、水桶は確認いたします」
ノエルは、言いながら少しずつ表情を変えていった。
見てほしい王子の顔ではない。
見たものを、伝えようとする顔だった。
清司は、横で静かに頷いた。
ええやん。
足、動いたな。
「リリアーナ姫」
「はい」
「明日も、報告を聞いてくれる?」
リリアーナは、姫らしく微笑んだ。
「もちろんです」
ノエルは、ぱっと笑った。
「約束だよ」
その言葉に、清司の胸の奥が少しだけ反応した。
約束。
軽々しくするものではない。
けれど、これは命を預ける約束ではない。
仕事の報告を聞く。
それなら、守れる。
「はい。お待ちしています」
ノエルは満足そうに笑い、バルドと共に部屋を出て行った。
扉が閉まる。
静けさが戻った。
そこでようやく、ミレーヌが黒革手帖を開いた。
『追加物資:石鹸。
追加物資:子ども用衣類。
修繕依頼:庭の柵。
確認事項:井戸周り、水桶の重さ』
横から黒スーツ清司が、その頁を覗き込んだ。
「ちゃんと見てきたな」
「はい」
「ええやん」
「はい」
ミレーヌは、さらに最後の一行を書いた。
『ノエル・グランヴェール殿下。
年齢:十八歳。
分類:チワワ王子。
本日、吠えるより先に見ることを覚え始める』
黒スーツ清司は、その一行を見た。
そして、固まった。
「……十八?」
「はい」
「あれで?」
「はい」
「成人してんかーい!」
黒スーツ清司が、思わず天を仰いだ。
「十八で『僕よりパン?』言うてたんか」
「はい」
「十八で『半分!』って拗ねてたんか」
「はい」
「おいたわしいの、俺の精神だけちゃうやろ」
ミレーヌは、さらさらと追記した。
『おいたわしいのは、チワワ王子の精神年齢である』
「書くな」
「記録は武器ですので」
リリアーナは、椅子に背を預けた。
自分は、まだ三歩しか歩けない。
けれど、人を動かすことはできる。
見てほしい王子を、見に行く王子へ。
それもまた、現場復帰である。
この世界は、今日も順調に、乙女ゲームから遠ざかっている。
おいたわしいのは、チワワ王子の精神年齢である。




