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ふわ姫若頭  作者: 夜嶋朔
第一章 王宮現場復帰編

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第14話 パンあげる

 翌朝。


 リリアーナは椅子に座り、歩行訓練で疲れた足を休めていた。


 歩ける距離は、まだ室内で三歩。昨日よりは安定しており、倒れる前に止まり、自分で椅子へ座り直すこともできるようになった。


 だが、外へ出るには程遠い。


 その横では、黒スーツ姿の清司が刀を肩に担ぎ、だるそうに立っている。


 ミレーヌは黒革の手帖を開いていた。


「本日、ノエル殿下が孤児院へ向かわれます」


「ほんまに行くんやな」


「はい。パン、果物、布、石鹸を用意いたしました」


「ええやん」


「護衛兼監督は、バルド・ハルディン殿です」


 黒スーツ姿の清司が、わずかに頷いた。


「それがええ」


「甘やかしませんので」


「そこを信用して頼むんや」


 ミレーヌは黒革の手帖へさらさらと書き込んだ。


『チワワ王子、初現場。


護衛兼監督――バルド・ハルディン。


目的――僕を見て、から、僕が見る、へ』


「綺麗にまとめるな」


「業務ですので」


 その時、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。


「リリアーナ!」


 扉が勢いよく開く。


 柔らかな金髪に、大きな瞳。小柄な体を王子らしい衣装で包んだノエルが、部屋へ飛び込んできた。


「僕、孤児院へ行ってくる!」


「急やな」


「早く行った方が、早く報告できるでしょ?」


「用意はできとんか」


「これから!」


「何も持たずに行く気か!」


「現場を見てくる!」


「パン持って行け言うたやろ!」


 ノエルは扉へ振り返った。


「パンはあとから来るよ!」


「なんでやねん!」


 黒スーツ姿の清司が、無言でノエルを斬った。


 もちろん、ノエルは気づかない。


「行ってきます!」


「待て! 護衛連れて行け!」


「先に馬車へ行ってる!」


「人の話聞けーーー!」


 ノエルはそのまま廊下へ飛び出し、軽い足音があっという間に遠ざかっていく。


 リリアーナは、呆れた顔で扉を見つめた。


「ほんまに行きよった」


「初現場への意欲は十分かと」


「段取りがゼロや」


 ミレーヌの筆が動いた。


『チワワ王子。


物資、護衛を置いて出発』


「ただの迷子やないか」


 その時、遠くから小さな鈴の音が聞こえてきた。


 チリン。


 チリン。


 チリンチリンチリンチリン。


 音は、ものすごい速さで近づいてくる。


「ノエル殿下!」


 バルドの声が廊下へ響いた。


「お待ちください!」


 チリンチリンチリンチリン。


「パンをお持ちしました!」


 リリアーナは目を瞬いた。


「何の鈴や」


「物資到着を知らせる鈴でしょうか」


「聞かれても知らん」


 開いたままの扉の前を、バルドが駆け抜けていった。


 片手には鈴。


 もう片方には、大きなパン籠。


 いつもの落ち着いた顔のまま、全力でノエルを追いかけている。


「ノエル殿下!」


 チリンチリンチリンチリン。


「馬車は反対でございます!」


「そっち!?」


「こちらです!」


「先に言ってよ!」


「申し上げる前に走られました!」


 ノエルの足音が、慌てて引き返してくる。


 その後ろを、バルドの鈴が追いかけた。


「パンをお持ちしました!」


「分かったから早く行こう!」


「果物、布、石鹸もございます!」


「全部持ってきて!」


「すでに馬車へ積んでおります!」


「じゃあ、そのパンは!?」


「殿下がお持ちになる分です!」


「僕が!?」


「王子殿下ですので!」


「関係ある!?」


「ございます!」


 二人の声と鈴の音が、王宮の外へ遠ざかっていく。


 黒スーツ姿の清司が刀を肩へ戻した。


「バルド、よう追いついたな」


「日頃の歩行訓練の成果でしょうか」


「走っとるんはバルドや」


 ミレーヌは黒革の手帖へ追記した。


『護衛兼監督。


鈴を鳴らしながら対象を回収。


物資と共に馬車へ収容』


「家出した犬みたいに書くな」


「分類上、問題ございません」


「王子やぞ」



 王宮の前には、荷物を積んだ馬車が待っていた。


 先に到着したノエルは、馬車の扉へ手をかけている。


 その背後から、バルドが鈴を鳴らしながら追いついた。


「ノエル殿下」


「早く乗ろう!」


「その前に」


 バルドは抱えていたパン籠を差し出した。


「こちらをお持ちください」


 ノエルは、大きな籠とバルドを交互に見た。


「馬車に積むんじゃないの?」


「殿下がお持ちになります」


「僕は王子だよ?」


「存じております」


「重そうなんだけど」


「重うございます」


「持ってくれないの?」


「姫様より、甘やかさず現場へお連れするよう承っております」


 ノエルは王宮の窓を振り返った。


 遠くの部屋にいるリリアーナは見えない。


「……見てないのに?」


「帰還後、仕事をご報告されます」


 ノエルは少しだけ黙り、それから両手を伸ばしてパン籠を受け取った。


「重い!」


「はい」


「これ全部パン!?」


「はい」


「パンって、こんなに重いの?」


「数があれば重くなります」


 バルドは馬車の扉を開けた。


「本日は、それを知るための日でもございます」


 ノエルは重い籠を抱えたまま馬車へ乗り込み、バルドもその後に続いた。


「出してください」


 馬車が動き出す。


 ノエルは膝の上に置いたパン籠を見つめた。


「バルド」


「はい」


「その鈴、孤児院でも鳴らすの?」


「必要であれば」


「何のために?」


「殿下が勝手に走られた際、居場所をお知らせするためです」


「僕の鈴なの!?」


「本日からは」


「犬じゃないよ!」


「存じております」


 バルドは鈴を膝の上へ置いた。


 チリン。


 馬車は、そのまま王都の端にある孤児院へ向かった。



 孤児院は、王都の華やかな通りから離れた場所にあった。


 壁は古く、扉は少し歪んでいる。小さな庭では洗濯物が風に揺れ、その下を子どもたちが走り回っていた。


 馬車を降りたノエルは、入り口の前で立ち止まった。


 見られている。


 だが、いつもの視線とは違う。


 社交界の令嬢たちが向ける甘い視線でも、侍女たちが向ける微笑ましげな視線でもない。


 子どもたちは一度だけノエルを見て、すぐに馬車の荷物へ目を移した。


「……僕より、荷物?」


 ノエルが小さく呟くと、バルドが静かに答えた。


「腹が減っていれば、そうなります」


「本当に?」


「本当です」


 バルドはパン籠を指した。


「王子殿下。まず荷を下ろしてください」


 ノエルは目を丸くした。


「僕が?」


「はい」


「僕は王子だよ?」


「存じております。ですので、荷を下ろしてください」


「王子なのに?」


「王子だからです」


 ノエルは、しばらくバルドを見上げた。


 バルドはまったく揺れない。


 怖い。


 いや、違う。


 甘やかさないだけだ。


 ノエルは不満そうに唇を尖らせながら、両手でパン籠を持ち上げた。


「……やっぱり重い」


「はい」


「手が痛い」


「落とさぬよう、お持ちください」


「手伝ってくれないの?」


「限界が来る前には申し出てください」


「今が限界かもしれない」


「まだ三歩です」


「リリアーナと同じこと言ってる!」


「姫様は現在、三歩を懸命に歩いておられます」


 ノエルは黙った。


 それから籠を抱え直し、孤児院の入り口まで運んだ。


 その時、小さな子どもが近づいてきた。


 髪は少し跳ね、着ている服には何度も繕った跡がある。大きな目で、ノエルを見上げていた。


「王子?」


 ノエルは、ぱっと表情を明るくした。


「そうだよ! 僕はノエル・グランヴェール。第二王子だよ」


 子どもは少し考え、ノエルが抱えている籠を見た。


「パンくれるの?」


 ノエルは固まった。


「……僕は王子だよ」


「知ってる」


 子どもは、もう一度パン籠を見た。


「だから、パンくれるの?」


 ノエルは、ぱちぱちと瞬きをした。


 王子。


 第二王子。


 小さな天使。


 そう呼ばれてきた言葉が、ここではあまり役に立たない。


 子どもは王子を見ている。


 だが、それよりパンを見ている。


 昨日、リリアーナが言った通りだった。


 腹が減っていれば、王子よりパン。


 ひどい。


 でも、たぶん本当だ。


 ノエルは少しだけ唇を尖らせ、籠からパンを一つ取り出した。


「……あげる」


 子どもの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとう!」


 その声は、ノエルの名前を呼ぶ声ではなかった。


 王子を褒める言葉でもなかった。


 だが、まっすぐだった。


 ノエルは、自分の手を見つめた。


「……バルド」


「はい」


「次は?」


「配ります」


「僕が?」


「はい」


「全部?」


「できるところまで」


「できなかったら?」


「できるところを増やします」


 ノエルは少しだけむっとしたが、もう一つパンを取った。


「パンが欲しい子、並んで!」


 声を上げると、子どもたちが一斉に集まってくる。


 ノエルは一瞬だけ後ずさり、すぐにバルドを振り返った。


「多い!」


「はい」


「どうしたらいいの?」


「一人ずつ、顔を見てお渡しください」


「顔を見るの?」


「そのために来られたのでしょう」


 ノエルは、目の前に立った子どもを見る。


 鼻の頭に土がついている。


 服の袖が短い。


 靴の先が擦り切れていた。


「はい」


「ありがとう、王子!」


 次の子には靴がなかった。


 その次の子は、咳をしていた。


 小さな手が伸びるたび、ノエルはパンを一つずつ手渡した。


「ありがとう」


「王子、可愛いね」


 ノエルの顔が明るくなる。


「そうでしょ?」


「パンも好き!」


「僕は?」


「パンの次!」


「半分!」


 ノエルが頬を膨らませる。


 バルドは静かに鈴を鳴らした。


 チリン。


「止まらずお配りください」


「今、僕の大事な話してたんだけど!」


「後ろに十二名並んでおります」


「十二人!?」


 ノエルは慌てて次のパンを取った。


 一つ。


 また一つ。


 小さな手が伸び、ありがとうという声が返ってくる。


 最後のパンを渡し終えた時には、ノエルの腕はすっかり疲れていた。


「もう持てない」


「すべて配り終えました」


「終わった?」


「はい」


「僕が全部配ったの?」


「はい」


 ノエルは、空になった籠を見た。


 あれほど重かった籠が、今は片手でも持てる。


「軽い」


「届きましたので」


「届いたら、軽くなるんだ」


「籠は」


「仕事も?」


「それは、持ち帰るものによります」


 ノエルは首を傾げたが、バルドはそれ以上答えなかった。


 パンの次は果物を渡し、布と石鹸は孤児院の責任者へ届ける。


 ノエルは荷物を置こうとしたが、バルドに静かに止められた。


「王子殿下」


「なに?」


「用途を伝えてお渡しください」


「用途?」


「何のために持ってきたのか。どう使ってほしいのか。それを伝えるまでが、届けるということです」


 ノエルは少しだけ目を丸くし、布を持ち直した。


「これは布。服や寝具の足りないところに使って」


 孤児院の責任者が、深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「こっちは石鹸。手を洗うのに使って」


「大変助かります」


「足りる?」


 責任者は、積まれた石鹸へ目を向けた。


「しばらくは持つと思います」


「しばらくって、どれくらい?」


「この人数ですので、一月ほどでしょうか」


「一月でなくなるの?」


「はい」


 ノエルは黙り、石鹸と子どもたちを交互に見た。


「じゃあ、また持ってくる」


 責任者の顔に、驚きが浮かぶ。


「よろしいのですか?」


「だって、なくなるんでしょ?」


「はい」


「なら、いるよ」


 ノエルは当然のように言い、それから孤児院の中を見渡した。


 窓の隙間から風が入っている。


 奥には咳をしている子どもがいる。


 庭の柵は、一部が大きく傾いていた。


「バルド」


「はい」


「あの柵、壊れてる」


「はい」


「危なくない?」


「確認してみましょう」


 二人が庭へ出ると、子どもが傾いた柵の近くを走っていた。


「そこ、危ないよ!」


 ノエルが声を上げる。


 子どもは振り返り、別の場所へ走っていった。


 ノエルは柵の前にしゃがみ込んだ。


「木が割れてる」


「よく見ておられます」


「水桶も重そう」


 少し離れた場所では、二人の子どもが大きな水桶を運んでいた。


 桶の縁から水がこぼれ、土の上に濡れた跡が続いている。


「僕が持ったパンより重いんじゃない?」


「重いでしょう」


「毎日?」


「必要な水は、毎日運びます」


「子どもが?」


「こちらでは」


 ノエルは、ふらつきながら桶を運ぶ子どもたちを見つめた。


「……知らなかった」


「はい」


「僕、何も知らなかった」


「本日は、それを知るための日です」


 ノエルはしばらく黙り、それから立ち上がった。


「あの子たちに聞いてくる」


「何をでしょう」


「何が重いか。何が足りないか」


 ノエルは子どもたちのもとへ走りかけた。


 チリン。


 バルドが鈴を鳴らす。


「ゆっくりお進みください」


「なんで!」


「足元に水がこぼれております」


 ノエルは足元を見た。


 危うく濡れた土で滑るところだった。


「……鈴、役に立つね」


「ありがとうございます」


「僕の鈴じゃないからね」


「本日中にお返しいただければ」


「いらないよ!」



 それからノエルは、子どもたちと同じ高さまでしゃがみ、何が足りないのかを一つずつ聞いた。


 服。


 靴。


 石鹸。


 薬。


 雨の日でも水が入らない窓。


 重くない水桶。


 壊れていない柵。


 最初は何を聞けばいいのか分からなかったノエルも、子どもたちの話を聞くうちに、次々と質問するようになっていった。


「夜、寒い?」


「寒いよ」


「毛布は?」


「みんなで使ってる」


「一人一枚ないの?」


「ないよ」


 ノエルは責任者を振り返った。


「毛布もいる」


「はい」


「薬は?」


「熱を出した際のものが不足しております」


「何の薬か分からない」


「医師に確認いたしましょう」


 バルドが答える。


「じゃあ、確認して」


「承知いたしました」


「僕も聞く」


「はい」


 ノエルは再び子どもたちへ顔を向けた。


 もう、誰が自分を見ているかは気にしていなかった。


 自分の前にいる子どもが、何を見ているのか。


 何を待っているのか。


 それを知ろうとしていた。



 帰りの馬車へ乗る前、一人の子どもがノエルの袖を引いた。


「王子、明日も来る?」


 ノエルは手を止めた。


「明日も?」


「パンある?」


「またパン?」


「うん」


 ノエルは少しだけ頬を膨らませたが、今度は怒らなかった。


「パンは持ってくる」


「じゃあ来て」


 子どもはそれだけ言い、友達のもとへ走っていった。


 ノエルは、その小さな背中を見つめた。


 見てほしい。


 ずっと、そう思っていた。


 だが今、自分は初めて、誰かの背中を見ている。


「王子殿下」


「なに?」


「今、何を見ましたか」


 ノエルは少し考えた。


「パンを待ってる子ども」


「はい」


「明日も来るか聞いた子」


「はい」


「僕を見たんじゃなくて、パンを見てた」


「最初は」


「最初は?」


「何度も来れば、変わります」


 ノエルは黙り、それから小さく頷いた。


「……じゃあ、何度も来る」


「その際は、段取りを整えてから出発いたしましょう」


「今日も来られたよ」


「馬車と物資を置いて、反対方向へ走られました」


「でも、来られた」


「私が鈴を鳴らしながら追いかけましたので」


「パンを持って」


「パンをお持ちしました」


 バルドが静かに鈴を鳴らす。


 チリン。


 ノエルは吹き出した。


「明日も鳴らすの?」


「殿下次第でございます」


「鳴らさせないから!」


「期待しております」



 夕方。


 ノエルは王宮へ戻ってきた。


 朝より少しだけ髪が乱れ、服の袖には白い粉がついている。だが、その顔は不思議とすっきりしていた。


 リリアーナは椅子に座り、ノエルを迎えた。


 その横には、刀を肩へ担いだ黒スーツ姿の清司。後ろには、黒革の手帖を持つミレーヌが立っている。


「ただいま!」


「おかえり」


「僕、ちゃんと行ってきたよ!」


「聞こえとったわ」


「何が?」


「鈴」


 ノエルはバルドを振り返った。


「王宮の中まで聞こえてたの!?」


「十分な音量でございました」


「明日は鳴らさないでね!」


「殿下が馬車と反対方向へ走られなければ」


「もう走らないよ!」


「記録しておきます」


 ミレーヌの筆が動いた。


『明日、チワワ王子は走らない』


「チワワって書いた!?」


「分類です」


「僕、王子だよ!」


「知っとる」


「リリアーナまで!」


 黒スーツ姿の清司が、無言で刀を振り下ろした。


 もちろん、ノエルは気づかない。


 ミレーヌが手帖へ小さく書き足す。


『一太刀』


「今のいるか?」


「帰還時の記録です」


 ノエルは、リリアーナの前まで来た。


「報告する!」


「あぁ」


「子どもたちは、最初、僕よりパンを見てた」


「そらそうやろ」


「そうだけど!」


「続けろ」


「僕がパンを配ったら、ありがとうって言われた。明日も来るのかって聞かれた」


「それは、お前を見とるやん」


 ノエルの目が、少しだけ大きくなる。


「そうなの?」


「あぁ」


「パンじゃなくて?」


「パンもや」


「そこは否定してよ」


「嘘ついてどないすんねん」


 ノエルはむっとしたが、すぐに小さく笑った。


「じゃあ、明日も行く」


「あぁ」


「パン持って」


「あぁ」


「今日持って行った石鹸、一月くらいでなくなるって」


 ミレーヌの筆が動いた。


「服と靴も足りない。夜は寒いのに、毛布も一人一枚ない」


 また、筆が動く。


「庭の柵が壊れてて、子どもが近くを走ってた。窓から風も入ってた」


 さらに、筆が動く。


「水桶が重くて、子どもが二人で運んでた。薬も足りないけど、僕には何の薬か分からなかった」


「分からんかったら?」


「聞く」


「誰に?」


「孤児院の人と、お医者さん。子ども本人にも聞く」


 ノエルは迷わず答えた。


 リリアーナは、わずかに目を細める。


「ちゃんと見てきたやん」


「ほんと?」


「あぁ」


「僕の仕事、見てくれた?」


「見た」


 ノエルの顔が、ぱっと明るくなった。


「じゃあ僕、もう一回行ってくる!」


「今日はもう行くな!」


「明日の分を見てこないと!」


「日が暮れるわ!」


「馬車はどっち!?」


「まず段取り覚えろ!」


 ノエルが扉へ向かおうとする。


 チリン。


 バルドが鈴を鳴らした。


 ノエルの足が止まる。


「……走ってないよ」


「確認でございます」


「もう犬みたいになってる!」


 黒スーツ姿の清司が、もう一度ノエルを斬った。


 もちろん、ノエルは気づかない。


 ミレーヌは淡々と黒革の手帖へ書き込んだ。


『追加物資――石鹸。


追加物資――子ども用衣類、靴、毛布。


修繕依頼――庭の柵、窓。


確認事項――井戸周り、水桶の重さ。


医師へ確認――常備薬』


 ノエルは、その文字を覗き込んだ。


「全部、用意できる?」


「確認して手配いたします」


「明日持って行ける?」


「すべては難しいでしょう」


「なんで?」


「物資の数、必要な大きさ、修繕できる職人の予定を確認しなければなりません」


「今日持って行ったみたいに、すぐできないの?」


「パン、果物、布、石鹸は、昨日から準備しております」


「昨日から?」


「姫様の指示です」


 ノエルは、リリアーナを見た。


「僕が行くって言う前から?」


「行かせるって決めた時からや」


「僕、昨日はパン持って行けって言われただけだよ」


「お前に準備任せたら、何も持たずに走るやろ」


「今日、走った」


「せやから言うとる」


 ノエルは少しだけ考え、真剣な顔で頷いた。


「明日の分は、今日から準備する」


「せや」


「何を持って行くか、先に決める」


「せや」


「馬車の場所も確認する」


「絶対しろ」


「バルドの鈴は?」


「お守りに持って行け」


「いらないよ!」


 チリン。


「鳴らさないで!」


 バルドは何事もなかったように鈴を下ろした。


「明日の準備を始めましょう、ノエル殿下」


「うん」


 ノエルは扉へ向かい、途中で振り返った。


「リリアーナ」


「なんや」


「明日も、報告を聞いてくれる?」


「あぁ」


「約束だよ」


「分かった」


「絶対だからね!」


「はよ行け」


「行ってきます!」


「今日は準備や!」


「分かってる!」


 ノエルはバルドと共に部屋を出ていった。


 廊下から、すぐに声が聞こえてくる。


「最初に何をすればいい?」


「必要な物資を一覧にいたします」


「僕が書く!」


「文字は丁寧にお願いいたします」


「僕、字も可愛いよ!」


「読みやすさを優先してください」


「可愛い方が喜ぶよ!」


「物資担当者が読めなければ届きません」


「じゃあ、読める可愛い字にする!」


「お願いいたします」


 二人の声が遠ざかり、そのあとを小さな鈴の音が追いかけた。


 チリン。


 部屋に静けさが戻る。


 ミレーヌは黒革の手帖へ、今日の記録をまとめた。


『ノエル・グランヴェール殿下。


年齢――十八歳。


分類――チワワ王子。


本日、吠えるより先に見ることを覚え始める』


 黒スーツ姿の清司は、その一行を覗き込んだ。


 そして、固まった。


「……十八?」


「はい」


「あれで?」


「はい」


「成人してんかーい!」


 清司が思わず刀を取り落としかける。


「十八で『僕よりパン?』言うとったんか」


「はい」


「十八で鈴鳴らされながら追いかけられとったんか」


「はい」


 ミレーヌは、さらさらと追記した。


『精神年齢――確認中』


「書くな」


「記録は武器ですので」


 リリアーナは椅子に背を預け、閉じられた扉を見つめた。


 自分は、まだ三歩しか歩けない。


 だが、人を動かすことはできる。


 見てほしい王子を、見に行く王子へ。


 何も知らなかった王子を、知らないことを聞ける王子へ。


 それもまた、現場復帰である。


 この世界は今日も順調に、乙女ゲームから遠ざかっていた。


 廊下の向こうから、再び鈴の音が響く。


 チリンチリンチリンチリン。


「ノエル殿下!」


「今度は何!?」


「パンの注文先は反対でございます!」


「また反対!?」


「パンをお持ちするため、まず注文へ参ります!」


「先に言ってよ!」


「申し上げる前に走られました!」


 リリアーナは、静かに天井を見上げた。


「明日も鳴るな」


「はい」


 黒スーツ姿の清司が、無言で刀を抜いた。


 ミレーヌは新しい頁を開く。


『チワワ王子。


明日も回収予定』


「犬扱いすな」


「分類です」

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