第133話 やっと戻れた
馬車の扉が閉まると、会場のざわめきが遠くなった。
厚い革張りの座席へ、セレスティアは清司と並んで腰を下ろした。
向かいにはバルドが座っている。
馬が歩き出し、車輪が石畳を踏んだ。重い車体がゆっくり揺れ、窓の外を屋敷の灯りが流れていく。
磨かれた木の内壁。
真鍮の留め金。
深い色のカーテンの隙間から、街灯の光が差し込んでは消えた。
清司は蝶ネクタイへ指をかけ、結び目を解いた。
外したそれを上着のポケットへしまい、白いシャツの第一ボタンを外す。
小さく息を吐いて背もたれへ身体を預けると、額へ落ちた黒髪を片手でかき上げた。
露わになった眉と、静かな目元。
指が離れると、柔らかな毛束がこめかみへ落ちた。
セレスティアは、隣の横顔から目を離せなかった。
会場へ現れた時には、襟元まで隙なく整っていた。
今は寛いだ仕草の一つ一つが、すぐ近くで見ていいものなのか戸惑うほど、目を引いた。
清司が煙草を取り出す。
バルドは小窓を開け、灰皿を差し出した。
火が灯る。
一口吸ってから、清司は窓の方へ顔を向けた。
ゆっくり吐かれた煙が、夜風へほどけていく。
黒いタキシードのサテンの襟へ、街灯の光が細く滑った。
緩めた白い襟元から覗く首筋を見て、セレスティアはそっと目を伏せる。
庭で抱きしめられた時の温かさが、まだ頬に残っていた。
長い睫毛の先には、僅かな涙。
すっと通った鼻筋から柔らかな唇へ続く横顔は、泣いたあとも美しかった。
ただ、いつも凛と上げていた顔を今は少し伏せ、膝の上で重ねた指を落ち着かせようとしている。
「こちらをどうぞ」
バルドが、清潔なハンカチを差し出した。
セレスティアは顔を上げ、両手で受け取る。
そっと目元へ当てる横で、清司が灰皿へ灰を落とした。
「なんで婚約が成立した?」
バルドの表情が、静かに引き締まった。
「調べました、なにかおかしいのです」
「どういう事や」
「エミール殿下の祖国のクラウス国でございます、そちらの国務大臣が変な動きをなさったようで婚約になったそうです」
車輪が石の継ぎ目を越えた。
低い音が、足元から伝わってくる。
清司は僅かに眉を寄せた。
「そいつの企みは?」
「タケリオ公爵殿も怪しい動きをなさっていたようです」
ハンカチへ添えていたセレスティアの指が止まった。
清司は窓の外へ一度目を向け、それからバルドへ視線を戻す。
「グルっぽいな」
まだ、確かめなければならないことはある。
婚約を進めた者。
その話を受けた者。
自分が向かわなかった場合、彼女をどこへ連れていくつもりだったのか。
「多分狙いはうちの国やな」
セレスティアが、隣の顔を見た。
「オヤジと話せなあかん」
「かしこまりました」
バルドは深く頷いた。
セレスティアは、ハンカチを膝へ下ろす。
タケリオは、自分の意思を認めてくれた。
会場でも、自分の隣に立ってくれた。
その言葉に救われたのは、確かだった。
けれど、何度断っても話が進んでいくことには、ずっと違和感があった。
自分が望んでいないと承知している。
そう言ってくれるのに、婚約そのものは止まらない。
何かが噛み合わないまま、今日まで来てしまった。
清司とバルドの言葉を聞いて、その違和感が初めて一つの疑いへ繋がった。
もし、あの優しい言葉にも、別の意図があったのなら。
膝の上で、指先が冷えた。
隣の清司は、もう到着後のことを考えている。
その横顔を見て、セレスティアはゆっくり息を吐いた。
今は、ここにいる。
この人と一緒に、王宮へ向かっている。
窓の向こうに、リュミエール王宮の灯りが見えてきた。
清司は短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。
火が消えたのを確かめ、背もたれから身体を起こす。
馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
*
夜の王宮は、静かだった。
高い天井へ、靴音が淡く響く。
廊下を照らす灯りの下を進み、バルドに案内された応接室へ入った。
暖炉には、小さな火が残っていた。
厚い絨毯が足音を吸い込み、窓には重いカーテンが引かれている。
セレスティアは、清司と並んでソファへ座った。
清司のシャツの襟元は、馬車で緩めたままだった。
腰を下ろすと、黒い上着の裾を軽く整える。
バルドがテーブルへ灰皿を置いた。
続いて、二人の前へ紅茶が用意される。
白いカップから、細く湯気が立ち上った。
「ごゆっくりどうぞ」
一礼し、バルドが部屋を出た。
扉が閉まる。
セレスティアは、その音を聞いてから清司へ顔を向けた。
「今日は……本当に嬉しかったです」
清司は彼女を見た。
「行ってなかったら危なかったな」
セレスティアは、小さく頷いた。
婚約を拒んだ。
タケリオも、受け入れてくれたように見えた。
それでも、あの場から出られるとは限らなかった。
清司が来なければ。
話を改めると言われ、そのまま別の部屋へ通されていたら。
誰にも会えない場所へ連れていかれていたかもしれない。
もう、この声を聞けなかったかもしれない。
そう思った途端、胸の奥が冷たくなった。
セレスティアは、膝の上のハンカチを握る。
今なら、目の前にいる。
自分の言葉を聞いてくれる。
次があると、当たり前に思ってはいけなかった。
いつか伝えようと胸へしまったまま、二度と会えなくなることだってある。
セレスティアは、顔を上げた。
「私……清司さんのことどうしようもないくらい愛してしまいました」
清司は、黙ってその言葉を受け止めた。
一緒に仕事をした。
言い合いもした。
困っている者がいれば、彼女は自分から動いた。
その姿を、何度も見てきた。
頼りにしていた。
これからも、共に働き、笑っていてほしいと思っている。
だからこそ、曖昧には返せなかった。
「俺も愛しとる、でもお前とは違う仲間愛や」
セレスティアの睫毛が、僅かに揺れた。
その違いを、すぐに言葉で埋めようとはしなかった。
自分に向けられた気持ちを、静かに胸へ収める。
「それでも幸せですわ……」
声には、寂しさが混じっていた。
それでも、微笑もうとする。
愛していると、言ってくれた。
大切な仲間として、自分を見てくれている。
そのことまで、望んだ答えではなかったという理由で失くしたくなかった。
「ごめんな」
清司の声に、セレスティアはゆっくり首を振った。
謝ってほしくて、伝えたのではない。
この人に会えて、自分は変わった。
別の道を探した。
自分の意思で、嫌だと言えた。
その全部を含めて、大切だった。
セレスティアは、握っていたハンカチをそっと膝へ置いた。
「最後かもしれないので……お願いしても宜しいですか」
清司が、彼女の目を見る。
「できることやったら」
セレスティアは、一度唇を結んだ。
言わなければ、このまま胸の中に残る。
今夜、あの会場で伝えられなくなるところだった言葉と同じように。
「一度でいい……キスしてほしいのです……」
言い終えると、顔を伏せそうになった。
けれど、セレスティアは目を逸らさなかった。
清司は、その顔を見ていた。
いつも強い女だった。
自分の考えを持ち、必要なら遠慮なく言い返してきた。
その彼女が、今は指先を重ね、返事を待っている。
頬を赤くして、それでも取り消さずにこちらを見ていた。
こんな顔もするのかと思った。
そのまま一人で俯かせるのは、少し放っておけなかった。
清司が、手を伸ばす。
頬へかかっていた髪を、指先でそっと払った。
セレスティアの肩が、小さく揺れる。
清司は急がず、その髪を耳へかけた。
長い睫毛が伏せられる。
頬へ添えた手に、彼女の温かさが伝わった。
セレスティアは、清司の袖へ指を添えた。
強く掴まず、ただ、そこに触れている。
身を寄せた清司の胸元で、開いた白い襟が僅かに動いた。
その上を縁取るサテンが、暖炉の灯りを柔らかく返す。
清司が少し顔を傾ける。
セレスティアも、静かに目を閉じた。
唇が触れた。
柔らかく、確かに。
願ったことが、本当になっている。
そう分かった途端、目の奥が熱くなった。
袖へ添えた指が、僅かに曲がる。
清司は頬を支えたまま、短い口づけを終えた。
すぐには遠ざからず、ゆっくり顔を離す。
セレスティアが目を開いた。
すぐ近くに、静かな瞳があった。
何を言えばいいのか分からず、ただ見つめてしまう。
清司の手が頬から離れたあとも、そこには温かさが残っていた。
暖炉の中で、薪が小さく音を立てた。
紅茶の湯気が、二人の間を細く上っていた。
その静けさの中へ、声が降ってきた。
『おめでとうございます、ロイヤル・フラグメントをクリアなさいました』
「マジで言うとんか」
清司が顔を上げた。
聞き覚えのある声だった。
けれど、今告げられた内容には、すぐに頷けなかった。
「なんですの?」
セレスティアも、天井へ目を向ける。
誰もいなかった。
扉も、閉じたままだった。
『悪役令嬢ルートで合格判定でございます』
「そんなんあるんかい」
清司はソファへ座ったまま、声のする方を探した。
隣ではセレスティアが、まだ赤い頬のまま目を瞬かせている。
『僅かですが、僅かですがセレスティア嬢に対しての恋心が判明いたしましたので合格です』
「そうなん?!」
今度は、清司が身を起こした。
思いがけないことを告げられ、自分の胸元へ目を落とす。
その声に、セレスティアが勢いよくこちらを向いた。
「清司さんが恋心……!!」
先ほどまで涙を湛えていた瞳が、ぱっと輝いた。
「自覚ないねんけど」
清司は戸惑ったまま、彼女を見る。
「僅かでもです!!」
セレスティアが、思わず清司の袖を握った。
その勢いに、清司は僅かに身を引く。
「こわっ!」
扉が叩かれた。
「どうかなさいましたか?」
黒革手帖を手にしたミレーヌが、部屋へ入ってくる。
その後ろには、バルドもいた。
「大きな声が聞こえましたもので……」
バルドの視線が、二人の間を動いた。
頬を赤くしたセレスティア。
握られている清司の袖。
戸惑いを隠せない、その顔。
廊下まで聞こえてきた言葉と目の前の様子を合わせ、バルドは静かに頷いた。
ミレーヌも、開きかけた黒革手帖をそっと胸元へ戻す。
チリン。
「ご恋愛おめでとうございます」
「お前もかい」
清司が振り返った。
ミレーヌは唇を結び、笑いを堪えた。
清司自身は、気づいていなかった。
声も、仕草も変わらない。
黒いタキシードも、第一ボタンを外した白いシャツも、そのままだった。
ただ、目元に残っていた疲れの影が薄れていた。
かき上げたあと、自然に額へ戻った黒髪。
その下で、長い睫毛が灯りを受けている。
すっと通った鼻筋。
整った唇。
頬から顎へ続く、すっきりした輪郭。
見慣れた顔立ちに、少しだけ若い柔らかさが戻っていた。
目を動かすと、瞳の中へ小さな光が映る。
静かな眼差しの鋭さも、細身の身体も変わらない。
けれど、ふと振り向いただけの横顔に、もう一度目を留めたくなるような華やかさがあった。
セレスティアは、その顔を見つめていた。
今、口づけを交わしたばかりの人。
頬が熱いのも、目を離せないのも、そのせいだと思っていた。
ミレーヌもバルドも、その僅かな変化には気づかないままだった。
清司の中で、ずっと共にあった二つの存在の隔たりが、いつの間にかなくなっていた。
何かが消えたという感覚はない。
リリアーナとして積み重ねた日々も、清司として生きてきた時間も、同じ自分のものとしてそこにあった。
『これからセイジ・リュミエール王子として生きてください』
「次は王子かい」
清司が、もう一度顔を上げた。
姫として過ごしてきた自分へ告げられた、新しい立場。
呆れたような声に、セレスティアが隣の姿を見直す。
「このままですの?!」
目の前には、変わらず清司が座っている。
セレスティアの視線を受け、清司も自分の身体を見下ろした。
手を握り、開く。
それから、ふと動きを止めた。
薬を飲んだ時間を思い出す。
会場へ向かった。
庭で話し、馬車で戻ってきた。
その間、一度も残り時間を確かめていなかった。
「今何時や?」
セイジの声に、ミレーヌが時計を確かめる。
「あ、午前一時です」
部屋が静かになった。
とっくに、薬の効力が消れる時間を過ぎていた。
セイジは、もう一度自分の手を見る。
隣のセレスティアも、袖へ添えていた手を離さず、その姿を見ていた。
午前一時。
それでも、身体は変わらなかった。
バルドが、穏やかに目を細めた。
チリン。
「おめでとうございます」
セイジは、自分の両手を見下ろした。
握る。
開く。
何度繰り返しても、この手のままだった。
もう、薬の残り時間を気にしなくていい。
朝になっても、この姿でいられる。
手を伸ばせば触れられる。
誰かに呼ばれたら、この声で返事ができる。
袖に添えられたセレスティアの手にも、ちゃんと温かさを感じていた。
ようやく、胸の奥へ実感が広がった。
戻れた。
今度は、時間切れにならない。
セイジは顔を上げた。
「ちょっと待って……清司に戻れたやん」
確かめるように口にして、頬が緩んだ。
もう一度、両手を見る。
笑いを収めようとしても、うまくいかなかった。
握った拳を膝へ置き、隣を見る。
セレスティアも、嬉しそうに笑っていた。
ミレーヌは黒革手帖を胸元へ抱え直し、バルドと目を合わせる。
その前でセイジは、肩の力を抜き、深く息を吐いた。
それでも、口元には笑みが残っていた。




