第132話 レイナを迎えに
翌日。
Vスタジオでは、SNGとBIGWAVEが初ステージへ向けた最終確認をしていた。
土方、沖田、斎藤、原田が『爆弾』の立ち位置を確かめ、その隣では龍馬、高杉、桂が『シュンシュン』の振りを揃えている。
そこへ、スタッフが勢いよく飛び込んできた。
「大変です!!」
全員が振り返る。
「SNGとBIGWAVEの音源が、世界各国で完売しました!!」
「えーーーーー!!!!」
「まだあります! サニーテレビ所属のほかの歌手たちも、ほとんど完売状態です!」
「ええーーーーー!!!!」
「やばやばやばーーーい!!!」
セシルが両手を広げ、その場でぐるぐる回り始めた。
「ええーーーーー!!!!」
「セシル! 目ぇ回るで!」
「もう回ってるよー!」
回り続けるセシルをエミールが受け止める中、スタッフはさらに声を張った。
「家庭用の魔石スピーカーも、すべての販売店で完売しました! 予約注文も止まりません!」
「テレビより普及してるやん!!」
「ええーーー!!!!」
チリン。
騒ぎの中に、涼やかな鈴の音が響いた。
「そろそろ向かわれた方がよろしいかと思います」
バルドの言葉に、リリアーナは時計を見る。
レイナとタケリオ公爵の婚約パーティーが始まる時間が迫っていた。
婚約を命じたのは、リュミエール王宮ではない。
レイナの祖国の王宮だった。
タケリオも、その国に爵位と領地を持つ公爵である。
リリアーナの視線が、いつもの立ち位置へ動く。
何かあれば、すぐに顔を上げていた女。
無茶をすれば怒り、疲れていれば見抜き、言い返しながらも傍にいた。
このところ、そこが空いていた。
戻ってこられなかった理由を、今は知っている。
「ここは大丈夫です」
ミレーヌが穏やかに笑った。
「迎えに行ってあげてください」
「せやな」
リリアーナは頷き、バルドとともに控室へ向かった。
*
控室には、バルドが用意した正装が掛けられていた。
黒いタキシード。
光沢を抑えた上質な生地に、滑らかなサテンのショールカラー。
金の刺繍も、宝石の飾りもない。
肩から胸へ流れる線と、わずかに絞られた腰。余分なものを削いだ仕立てが、静かな存在感を作っていた。
その隣には、白いドレスシャツと黒い蝶ネクタイ。
磨かれた靴まで、揃えてある。
リリアーナが薬を一気に飲み干すと、淡い光が全身を包んだ。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、リリアーナの中へ溶けていく。
光が消えた時、そこには本物の清司が立っていた。
中央で分かれた黒髪が、切れ長の目元へ落ちている。
長い睫毛の下には、静かな瞳。
すっと通った鼻筋と、形の整った薄い唇。
いつも見えていた姿に、今は確かな身体の厚みと、息遣いがあった。
薬の効果は、午前零時まで。
清司は腰に現れた刀を外し、控室へ置いた。
シャツへ腕を通す。
バルドは襟元を確かめ、蝶ネクタイを整えた。
その上へ、黒い上着が収まる。
柔らかな生地が肩へ沿い、前を留めると、細身の輪郭がすっきりと現れた。
サテンの襟だけが、動くたびに僅かな光を返す。
清司は鏡へ目を向けた。
バルドが袖口を整え、半歩下がる。
最後に差し出されたのは、煙草の箱と火だった。
清司の目が、そちらへ動いた。
受け取る手だけが、少し早かった。
*
控室を出ると、舞台へ向かう土方と顔を合わせた。
「アニキ……どうしたんだ?」
土方は足を止めた。
黒いタキシード。
白いシャツ。
いつもと変わらない顔なのに、今は同じ床へ靴音を落として立っている。
清司の後ろでは、バルドが静かに扉を閉めた。
「アニキ! 俺もついて――」
「お前はやらなあかん事があるやろ、いってこい」
清司の声に、土方は息を呑んだ。
廊下の向こうから、舞台へ向かう者たちの声が聞こえていた。
自分の名前を呼ぶ声もする。
土方は、踏み出しかけた足を止めた。
行くべき場所があるのは、アニキも同じだった。
「……わかったよ」
清司は頷き、バルドとともに廊下を進んだ。
その背中を見送りながら、土方は小さく笑う。
「やっぱ……アニキだな……」
*
馬車へ乗り込んだ清司は、すぐに煙草へ火をつけていた。
久しぶりの煙を肺いっぱいに吸い込み、窓の外へ白い煙をゆっくり吐き出す。
「あーーーーー……うんまっ」
もう一度吸う。
さらに吸う。
向かいに座ったバルドが、灰皿を差し出した。
清司は灰を落とし、蝶ネクタイの結び目へ指を添える。
「ドレスコードめんどくさっ」
そう言いながらも、襟元を崩すことはなかった。
バルドは到着までの時間を確かめ、静かに窓の外へ目を向けた。
*
婚約パーティーの会場には、重い沈黙が残っていた。
祝福を述べるはずだった司会役の貴族は、手元の進行表を持ったまま立っている。
レイナは、タケリオ公爵の隣にいた。
背筋を伸ばし、顔を上げている。
自分は同意していない。
この婚約を望んでいない。
その言葉を、ここにいる全員の前で口にした。
家族とも話した。
相手とも話した。
代替案を作り、提出し、それでも進められた話を、自分の声で止めた。
タケリオも、その意思を認めてくれた。
それなのに、まだ終わらない。
祖国の王宮が決めた婚約であること。
両家だけで撤回できる話ではないこと。
何度も、その重さを示された。
若いから分からない。
選べないこともある。
そう言われても、選ぶことを諦めたくないと答えた。
怖かった。
それでも、口にした言葉を取り消すつもりはなかった。
「では」
この国の王宮から来た男が、沈黙を破った。
「一度、場を改め――」
その時だった。
会場の大きな扉が開いた。
ギィ――。
全員が振り返る。
レイナも、ゆっくりそちらを見た。
扉の向こうに、一人の男が立っていた。
黒いタキシード。
灯りを細く返す、滑らかな襟。
長い脚。
落ち着いた立ち姿。
片手には、火のついた煙草がある。
白い煙が、顔の横へ細く上っていた。
「……え」
知っている。
あの顔を。
あの目を。
いつも姫様の傍らに見えていた姿とは違う。
池田屋で、たった一晩だけ見た、生身の清司だった。
「……清司様?」
声が震えた。
清司が会場へ足を踏み入れる。
同行してきたバルドは、その場に留まった。
会場の端へ静かに退き、二人を見渡せる位置で待機する。
清司は、一人でレイナのもとへ向かった。
誰かが、その名を確かめるように囁いた。
レイナには、もう聞き取れなかった。
なぜ。
どうして。
今、ここに。
心の中で呼んだだけだった。
自分でやってみたかった。
この人が示してくれたように、自分の人生で別の道を選びたかった。
それでも、会いたかった。
顔を見たいと願った、その人がいる。
「……なぜ」
一度、息を呑む。
「清司様が、ここに……?」
清司は煙草を指に挟んだまま、まっすぐレイナを見ていた。
その背後で、会場の大きなスクリーンから『爆弾』のイントロが流れ始める。
Vステーションの公開生放送。
SNGの初ステージだった。
土方、沖田、斎藤、原田の四人が、揃った動きで舞台を駆ける。
突然の音に、何人かがスクリーンを振り返った。
けれど、レイナの視線は動かなかった。
清司が近づいてくる。
人の間を抜け、一度も足を止めず、自分の前まで来た。
「清司さん……?」
呼び慣れた名前が、ようやく口から出た。
清司は何も言わず、レイナの手を取った。
冷えていた指へ、温かさが触れる。
ドレスを掴んでいたことに、その時初めて気づいた。
力を抜こうとしても、すぐにはほどけなかった。
清司は引っ張らなかった。
握り込んだ指が緩むまで待ち、それから、その手を包み直した。
レイナは繋がれた手を見る。
触れられる。
見えているだけではない。
目の前に立って、自分の手を握っている。
その温かさを確かめた途端、喉の奥が熱くなった。
顔を上げると、清司は庭へ続く扉を見た。
レイナは頷いた。
誰かに押し出されるのでも、追い立てられるのでもなかった。
自分の足で、一歩を踏み出した。
隣のタケリオは、二人の手を見たあと、静かに身体を退いた。
レイナはその顔へ目を向け、小さく頭を下げる。
彼も、僅かに頷いた。
清司はそのまま、レイナを庭へ連れ出した。
*
庭へ出た時、『爆弾』が終わった。
続いて流れ始めたのは、BIGWAVEの『シュンシュン』だった。
扉の外では、夜風が木々を揺らしていた。
会場の灯りが石畳へ落ち、その先には暗い芝生が広がっている。
バルドはついてこなかった。
扉の内側で足を止め、会場へ残っていた。
清司はレイナの手を離すと、煙がかからないよう静かに背を向けた。
最後の煙を夜空へ吐き、庭に置かれていた灰皿へ煙草を押しつける。
レイナは、離れた手を見下ろしていた。
指先に、まだ温かさが残っている。
清司が向き直った。
「したくない結婚はせんでええ」
レイナは、その顔を見た。
さっきまで、自分の言葉がどこまで届くのか分からなかった。
嫌だと言っても、その先の責任を問われた。
答えれば、さらに答えを求められた。
この人は、嫌だったという気持ちを、そのまま受け取ってくれた。
唇が、僅かに震える。
「清司さん……そのお姿……」
続きを言おうとして、息が詰まった。
会いたかった。
来てくれた。
その二つが胸の中で重なった途端、涙がこぼれた。
瞬きをしても止まらなかった。
戻るために、家族やタケリオを傷つけたくはなかった。
自分で話して、別の道を作りたかった。
それでも、ずっと会いたかった。
いつもの場所で名前を呼ばれ、無茶をする姫様へ文句を言いながら、また隣を歩きたかった。
今、その人が自分の前にいる。
呼べば返事をしてくれる距離に、触れれば届く姿で立っている。
嬉しくて、どうしようもなかった。
目元を拭おうとした手が、頬の途中で止まる。
清司は、その顔を見ていた。
「セレスティア、レイナって雑に呼んでもうとったな。悪かった」
レイナの指が止まった。
セレスティア。
自分の名前を、この声で呼ばれた。
涙に滲んだ視界の向こうで、清司は変わらずこちらを見ている。
「いえ……清司さんなら何て呼んでくださっても嬉しかったですの……」
レイナと呼ばれるたび、振り返った。
用事を頼まれるのも、呆れた声で呼び止められるのも、嬉しかった。
自分に向けられた声だと分かるだけで、傍へ行きたくなった。
その呼び方を、嫌だと思ったことなどなかった。
「でも、大事な名前やろ」
喉の奥で、息が震えた。
嬉しかった。
何と呼ばれても嬉しかったのに。
大事な名前だと、この人が言ってくれる。
何度も耳にしてきた自分の名前が、今は胸の奥まで届いて、涙を増やした。
悪役令嬢。
公爵家の娘。
誰かの婚約者。
そうした呼び名の中で、自分の望みは後へ回されてきた。
清司は、こちらの名前を呼んだ。
仕事を見てくれた時も、話を聞いてくれた時も、そうだった。
自分がここにいることを、当たり前のように受け取ってくれる。
そのたびに好きになった。
もう充分に好きなはずなのに、また、この人を求めてしまう。
「はい……私……どうしようもなく」
声が途切れた。
好きなのだと、伝えたかった。
傍にいたい。
もっと名前を呼んでほしい。
今、差し出しかけたこの手を、もう一度取ってほしかった。
何から話せばいいのか分からないまま、涙だけが次々に落ちてくる。
清司が、少し身を屈めた。
目の高さが近づく。
レイナが息を止めた時、頬へ指先が触れた。
目の下に溜まった涙を、親指がそっと拭う。
片側を拭ってから、もう片方も。
急かさず、痛くないように。
レイナは瞬きも忘れ、その顔を見つめた。
近くで見る睫毛の影。
自分の涙を確かめる、静かな目。
触れてくる手があまりに優しくて、拭ってもらったばかりなのに、また目の奥が熱くなる。
夜風が吹いた。
頬へかかった髪を、清司が指で掬う。
耳のそばを指先が通り、乱れた一房がそっと掛け直された。
レイナの肩が、僅かに震えた。
清司は、その震えに気づいたように手を止める。
顔を覗き込まれ、レイナは小さく頷いた。
嫌ではなかった。
嬉しくて、どうすればいいのか分からないだけだった。
その手へ触れたくて、レイナの指が少し上がる。
清司は目元へもう一度親指を滑らせてから、肩へ手を添えた。
引き寄せる腕は、ゆっくりだった。
レイナが近づくのを待つように、少しずつ距離が縮まる。
黒い上着へ、頬が触れた。
その途端、堪えていた息がほどけた。
レイナは自分から、清司の背中へ腕を回した。
清司も、もう片方の腕を添える。
肩と背中を包まれ、ようやく全身から力が抜けていった。
「今無理に話さんでええ、辛かったな」
レイナは頷いた。
一度では足りず、もう一度、小さく頷く。
逃げずに話した。
できることは、全部した。
それでも、辛かった。
自分で決めたのだからと、その気持ちまで押し込めていた。
今は、隠せなかった。
清司の上着を握る。
布越しに、息をする身体の動きが伝わってきた。
本当にいる。
自分を抱きしめている。
そう思うと、安心しただけでは済まなかった。
好きな人の腕の中にいる。
願っていたことが、今、起きている。
涙で顔を上げられないのが惜しいほど、嬉しかった。
それなのに、離れるのはもっと嫌だった。
背中へ回した腕へ、少し力がこもる。
清司はその手を外さなかった。
何をしてきたのか、詳しく説明するよう求めもしない。
背中へ添えた手をゆっくり動かし、強張った肩が下りるのを待っていた。
いつもなら、言い返してくる。
こちらが無茶をすれば、黙ってはいない。
その彼女が、今は声も整えられずに泣いている。
顔を見た時から、早く人目のないところへ連れてきたかった。
ようやく抱きしめた身体は、思っていたより強く張り詰めていた。
清司は、腕の中の重さを受け止め直した。
庭には、遠くから歌声が流れていた。
木々の葉が揺れ、会場の灯りが二人の足元へ淡く落ちる。
レイナは清司の胸元へ顔を寄せたまま、少しずつ呼吸を整えた。
目を閉じると、背中を撫でる手の動きがよく分かった。
また涙がこぼれても、今度は無理に止めようとしなかった。
ここでは、泣いていてもいい。
話せるまで待ってもらえる。
そのことが、胸のいちばん苦しかったところを、ゆっくり緩めていった。
どれくらい、そうしていたのだろう。
肩の震えが収まってからも、すぐには腕をほどけなかった。
もう少しだけ。
願いながら、握っていた上着の皺へ気づく。
レイナは指を緩め、そっと布を撫でた。
清司は、その手がほどけるのを待ってから少し身体を離した。
肩を支える手は、残っていた。
濡れた目が、すぐ近くから見上げてくる。
清司はその目元を見て、残っていた涙を指で拭った。
レイナの唇が、何か言おうと動く。
まだ言葉にはならなかったが、清司を見つめる目は逸れなかった。
「ちょっと話すか」
レイナが瞬きをした。
「よろしいのですか……」
会いに来てくれた。
泣く間も、待ってくれた。
それなのに、まだ一緒にいてくれるのか。
聞いてほしいことは、あった。
伝えたいこともある。
けれど今は、その前に、この時間が終わらないことが嬉しかった。
「ここでは話にくいやろうし」
清司は、会場へ続く扉を一度見た。
灯りの中を人影が動いている。
また誰かが来れば、レイナは顔を拭い、背筋を伸ばして応じようとするだろう。
今は、その必要のない場所へ連れていけばいい。
「……ありがとうございます」
レイナは、涙の残る顔で微笑んだ。
ようやく見せた笑顔を、清司は少しの間見ていた。
それから、肩へ添えていた手を下ろし、彼女の手を取り直す。
今度は、指がすぐにほどけた。
レイナ自身が、その手へ自分の手を預けた。
足元を確かめるように待ってから、清司がそっと引く。
レイナも、その隣へ一歩を踏み出した。
待機していたバルドが二人に気づき、静かに身を起こす。
清司が目で合図をすると、一礼して馬車の用意へ向かった。
レイナの歩調に合わせ、清司はゆっくり庭を進んだ。
繋がれた手を、レイナは見下ろす。
先ほどは、この温かさに触れた途端、泣きそうになった。
今は、自分から握り返せた。
清司がこちらを見る。
その目が近くにあることへ、また胸がいっぱいになる。
けれど、今度は少し笑えた。
「ゆっくり話きくわ」




