第123話 音ちゃん
リリアーナたちがテルリッチ公園を離れようとした時、レイナが目を潤ませた。
「素敵でしたわ」
リリアーナは優しく笑った。
その横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も少しだけ目を細めている。
ミレーヌは黒革手帖を開いた。
『詠女様。
現状:反省なし。
備考:懲りてない。』
「それ書くん?」
「記録ですので」
チリン。
バルドが静かに鈴を鳴らした。
「参りましょう」
全員で大通りを抜け、人通りの少ない路地へ入る。
「アニキ」
歩きながら、沖田が口を開いた。
「なんでパードさんたちを帰らせたんですか?」
「あいつらは、悪気なく詠女にこっちの情報を流す可能性がある」
「裏切るってことですか?」
「ちゃう。悪気がないから危ないねん。聞かれたら普通に話してまうかもしれん。せやから今は、信用しとる奴だけで動きたい」
沖田は、はっとしたように口を閉じた。
「……なるほど」
誰も何も言わなかった。
その場にいる全員が、清司の言った意味を理解していた。
しばらく歩いたところで、リリアーナが足を止めた。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、路地の奥を見る。
「いい音だね!」
レオンが嬉しそうに顔を上げた。
古びた建物の地下から、音楽が聞こえている。
ギター。
ベース。
ドラム。
そして、力強い歌声。
音はいい。
だが、客の声がほとんど聞こえない。
「行くぞ」
リリアーナは、小さな看板が立つ入口へ向かった。
細い階段を下りるほど、音が大きくなっていく。
重たい扉を開けると、その先には小さなライブハウスがあった。
低い舞台。
狭いフロア。
客は、ほんの数人。
客同士の間には大きな隙間が空いていた。
それでも、舞台の上にいる者たちは手を抜いていない。
ギターが鳴り、ドラムが床を震わせ、ベースが腹の底へ響く。
歌声が、空いたフロアをまっすぐ突き抜けた。
「すごい!」
レオンが楽しそうに身体を揺らす。
リリアーナは舞台ではなく、店全体を見た。
スピーカー。
アンプ。
ミキサー。
照明卓。
マイク。
モニタースピーカー。
ドラム。
配線。
養生テープ。
補修跡。
吸音材。
どれも古い。
だが、雑には扱われていなかった。
直せるところは直し、使えるものは使い続けている。
舞台袖では、四十代ほどの男が一人で動き回っていた。
音を確認し、照明を調整し、次の演者へ水を渡す。
舞台から視線が飛べば、すぐに音量を変える。
次に出る者が緊張していれば、肩を軽く叩く。
誰が何を必要としているのか。
全部、分かっていた。
一曲が終わる。
数人しかいない客が、大きな拍手を送った。
男は演者へ満足そうに頷くと、すぐに次の準備へ戻る。
「おっさん」
リリアーナが声をかけた。
男が振り返る。
「ここの責任者か?」
「はい。そうです」
「名前は?」
「音助です」
「音ちゃんか。毎日やってんの?」
「はい」
音ちゃんは古い舞台を見た。
「みんな、音楽が生き甲斐なんです。俺も、音楽が生き甲斐で」
「客は、いつもこれくらい?」
「多い日はもう少し入ります」
音ちゃんは困ったように笑う。
「少ない日は、演者の方が多いですね」
「金は?」
「かなり厳しいです。借金もあります」
「辞める気は?」
「ありません」
即答だった。
「ここがなくなったら、立つ場所がなくなる奴がいますから」
リリアーナの目が少しだけ変わった。
「ジャンルは?」
「オールジャンルです。ロックも、ジャズも、クラシックも、弾き語りも、合唱も、アイドルも、民謡も」
「まとまりないやろ」
「ありますよ」
音ちゃんは少しだけ笑った。
「みんな、腕がいいんです」
「どうやって見つけた?」
「路上ライブしてる奴を見つけたら、ここに立たせてやってました」
「誰でもええん?」
「いいえ」
音ちゃんは静かに首を横へ振った。
「俺は、いい音の奴だけここに立たせます」
「ジャンルやないんやな」
「はい。流行ってるかどうかも、売れてるかどうかも関係ありません」
音ちゃんは舞台を見た。
「路上で誰にも足を止めてもらえない奴もいます。酒場の隅で、ずっと歌ってる奴もいます。でも、誰も知らないからって、悪い音になるわけじゃない」
リリアーナは何も言わず、音ちゃんを見ていた。
肩書きでもない。
人気でもない。
数字でもない。
自分で現場へ行き、自分の耳で聴いて、本物だけを拾ってきた。
「機材も、音ちゃんが見とるん?」
「はい」
「音響は?」
「俺です」
「照明は?」
「俺です」
「受付は?」
「俺です」
「掃除は?」
「俺です」
「全部、音ちゃんやないか」
音ちゃんは照れくさそうに頭をかいた。
「金がないので、できることは自分でやってます」
「壊れた機材は?」
「直します」
「直らんかったら?」
「使える部品を組み合わせます」
「それでも無理なら?」
「演者に合わせて、音の作り方を変えます」
音ちゃんは、当たり前のように言った。
「回さないと、音が止まりますから」
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、静かに目を細めた。
次の演者が舞台へ上がった。
若い女だった。
使い込まれたギターを抱え、誰もいないようなフロアを一度だけ見渡す。
音ちゃんが舞台袖から、小さく頷いた。
女が弦を鳴らす。
一音目で、空気が変わった。
静かな曲だった。
派手ではない。
大きな声でもない。
それでも。
誰も目を離さなかった。
音ちゃんは舞台袖でじっと聴いている。
客が数人しかいなくても。
満員の舞台を見るように。
誇らしそうに。
曲が終わった。
「もったいない!」
リリアーナの声が、地下のフロアへ響いた。
音ちゃんが驚いて振り返る。
「こんだけええ音が揃っとんのに、ここだけで終わらせるんか!」
「俺も、ずっとそう思ってました」
音ちゃんは拳を握った。
「どうやったら、この音を外へ届けられるのか。ここへ来られない人にも聴かせられるのか。ずっと考えてました」
舞台へ視線を戻す。
「でも、俺にはこの場所を守るだけで精一杯で」
少しだけ、声が震えた。
「こんないい音なのに、誰にも知られないまま終わる奴がいる。それが、ずっと悔しかったんです」
リリアーナは音ちゃんの前へ立った。
「音ちゃん」
「はい」
「俺と一緒に、テレビで本物見せてやりたくないか?」
音ちゃんの目が大きく開いた。
「テレビで……?」
「人気あるからやない。売れとるからでもない」
リリアーナは舞台にいる女を見る。
「本物やから流すんや」
音ちゃんは動かなかった。
「ここにおるアーティストも、全部連れてくぞ」
「全員ですか?」
「演者も裏方も、この箱を支えとる奴は全員や」
音ちゃんの目に、涙が浮かんだ。
「この店は……」
「この箱も立て直す」
リリアーナは古い壁と天井を見回した。
「音鳴らすたびに機材壊れんか心配せんでええようにする。舞台も、照明も、音響も全部直す。初めて舞台に立つ奴が、安心して音鳴らせる場所にしたる」
音ちゃんは何も言えなかった。
「ほんで、もっとデカい箱も作ったる」
「……デカい箱?」
「何百人入っても、音が負けへん箱や。舞台も、照明も、機材も、全部一から揃える」
「そんなことが……できるんですか?」
「できるかやない」
リリアーナは音ちゃんへ手を差し出した。
「やるんや」
音ちゃんは、差し出された小さな手を見る。
「音ちゃんは今まで通り、いい音の奴を見つけろ。この箱で育てて、デカい箱へ立たせる。その音をテレビで世界へ流す」
何年も守ってきた舞台。
何人も拾ってきた音。
客がいなくても。
金がなくても。
止めなかった。
誰にも知られなかったその音が。
初めて。
地下の外へ出ようとしていた。
音ちゃんは、リリアーナの手を強く握った。
「やります」
涙を拭わず、舞台を見た。
「やらせてください!」
「俺が、いい音を見つけ続けます!」
「決まりや」
ミレーヌは黒革手帖を開いた。
『音ちゃん。
分類:ライブハウス責任者。
特性:いい音を見抜く。
現場復帰先:新テレビ局・音楽部門。
担当:アーティスト発掘、舞台管理、音響監修。
追加計画:既存ライブハウス改修、大型ライブハウス建設。
対象:所属アーティスト及び全スタッフ。』
「全部書いたん?」
「必要ですので」
「早いな」
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司は、舞台袖に立つ音ちゃんを静かに見ていた。
鉄ちゃんが、人の暮らす場所を作る人間なら。
音ちゃんは。
音の居場所を作る人間だった。
舞台では、次のアーティストが歌い始める。
いい音だった。
音ちゃんに見つけてもらい、この小さな舞台には立てた。
それでも。
地下の外には届かなかった。
今までは。
リリアーナは舞台を見上げた。
「音ちゃん」
「はい」
「忙しなるぞ」
音ちゃんは、涙の残る顔で笑った。
「望むところです」
地下の小さなライブハウスに。
また、大きな音が鳴った。




