第120話 一から作る
中央放送局の重い扉が、背後で閉まった。
厚い扉を隔てた途端、局内の話し声も、忙しく行き交う足音も聞こえなくなった。
正面玄関へ続く石段。
磨き上げられた柱。
頭上には、放送局の名を刻んだ大きな看板が掲げられている。
リリアーナは石段を下り、仲間たちの前で足を止めた。
ミレーヌ、バルド、レイナ。
モビーズ。
そして、ロイヤルフラグメントの七人。
エリオット。
レオン。
エミール。
ノエル。
セシル。
ルシアン。
アレクシス。
二百人のモビーズまで集まれば、玄関前の広場は人で埋まる。
それでも、騒ぐ者はいなかった。
誰も何があったのか聞かず、急かすこともなく、ただリリアーナが口を開くのを待っていた。
ミレーヌのペンも止まっている。
バルドは鈴を鳴らさなかった。
リリアーナの傍らでは、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、仲間たちを一人ずつ見ていた。
リリアーナは中央放送局を振り返った。
「生きるか死ぬか分からん毎日を送ってきた奴らを、本人らに許可も取らんと、勝手に趣味で撮って見世物にした」
声を張ったわけではなかった。
それでも、近くにいた者の顔が上がり、その後ろへも静けさが広がった。
本人たちは、明日を生き延びるために戦っていた。
帰れる場所があるのかも分からず、腹を空かせ、刀を握っていた。
その姿を、撮る側だけが安全な場所から眺めていた。
「それで儲けた。本人らには金も払ってへん。礼もない。まったく筋が通ってへん」
エリオットの顔から笑みが消えた。
レオンも静かに中央放送局を見上げる。
この建物へ運ばれた映像が、どんな場所で撮られたものだったのか。
その向こうにいた人間を、誰が見ていたのか。
清司の空いた手が、ゆっくり握られた。
リリアーナは看板から目を離した。
「せやけど、お前らは違う」
仲間たちへ向き直る。
モビーズが顔を上げた。
「任せた仕事から逃げへんかった。人も、金も、現場も雑に扱わんかった。間違えた時は後始末した。分からん時は聞いた。できん時は、できん言うた」
その言葉を聞いて、何人かが自分の手元へ目を落とした。
帳簿を持つ手。
資料を挟んだ指。
工場や王宮で働くうち、少しずつ扱いに慣れてきた道具。
褒められるためにしてきたことではなかった。
任されたから、確かめた。
自分だけでは分からないから、隣の者へ聞いた。
失敗すれば、残って直した。
リリアーナは、その一つ一つを覚えていた。
清司の視線もまた、列の奥までゆっくり動いていた。
一度、息を吐く。
「俺は、お前らを信じとる」
誰も、すぐには返事をしなかった。
冗談にも、掛け声にもできなかった。
ここにいる全員へ、仕事を任せるという言葉だった。
それを受け取った顔が、少しずつ変わっていく。
最初に前へ出たのは、エリオットだった。
「リリアーナのおかげで、僕は人を集めるだけじゃなく、皆をまとめられるようになった」
隣に並ぶ六人を見る。
呼べば集まってくれる。
けれど、集まったあとに何をするのか。
誰が困っているのか。
誰の話が、まだ終わっていないのか。
今では、そこまで気にするようになっていた。
エリオットは穏やかに笑った。
「今度は僕が、新しく集まる人たちを一つの場所へ繋げるよ」
「頼む」
短い返事に、エリオットが頷く。
次にレオンが前へ出た。
「リリアーナのおかげで、僕は忠誠を見せるだけじゃなく、人を守る方法を覚えた。新しい事務所もテレビ局も、警備は僕に任せて」
その目は、すでに広場の出入口を確かめていた。
人が入ってくる場所。
立ち止まる場所。
何かあった時、逃がすために空けておく道。
守ると言った者が、先に見ておくべきものがある。
「任せる」
レオンは、まっすぐ頷いた。
エミールは手にしていた資料を見下ろす。
「リリアーナのおかげで、僕は好感度と爆弾だけじゃなく、人と現場を見るようになった。今度は誰かを攻略するためじゃない。皆が働くための資料を作るよ」
紙の角には、何度も開き直した跡があった。
書いたことが、実際の現場で役に立つのか。
誰かに渡して終わりではなく、そのあとを確かめるようになっていた。
「爆弾表、もう使うなよ」
「必要がなければ使わない」
「まだ持っとるんかい」
エミールは静かに資料を抱え直した。
「記録として必要だからね」
「捨てろ」
張り詰めていた肩が、いくつか下がった。
ノエルが小さく笑う。
それから、自分の番を確かめるように一歩進んだ。
「リリアーナのおかげで、僕は見てほしいと願うだけじゃなく、人を見ることを覚えた」
ノエルは、まっすぐリリアーナを見る。
声を上げる者だけが、困っているわけではない。
聞かれて初めて、話せる者もいる。
黙っている人間の傍で、返事を急かさず待つことを、ノエルは覚えていた。
「今度は、まだ誰にも見てもらえていない人を僕が見つけるよ」
「頼むわ」
セシルが静かに前へ出た。
いつものように勢いよく手を上げることはしなかった。
自分の言葉を、最後まで聞いてもらおうとしていた。
「リリアーナのおかげで、僕は皆と仲良くできたら、それでいいとは思わなくなった。仲良くするだけじゃなく、その人の役に立ちたいって思えるようになった」
笑ってくれた。
だから、大丈夫だと思っていたこともあった。
今なら、そのあとでもう一度、顔を見る。
何か言い残していないか。
断りたくても、断れずにいないか。
セシルは柔らかく笑った。
「出演する人も、裏で支える人も、安心して話せる場所は僕が作るよ」
「頼もしいやん」
「任せて」
ルシアンは腕を組んだまま、リリアーナを見た。
「リリアーナのおかげで、僕は何をしても無駄だと思わず、自分がすべきことを選べるようになった。設備、火災対策、機材の熱は僕が見る」
建物ができたあとも、仕事は続く。
毎日使う設備を確かめ、異常があれば止める。
何も起きなかった一日を、そのまま次の日へ繋げる。
目立たなくても、誰かが見ていなければならない持ち場だった。
「頼む」
「今さらだよ」
答えたルシアンの口元が、僅かに緩む。
アレクシスがゆっくり前へ出た。
「リリアーナのおかげで、僕は一人で目立つことより、人との繋がりを大切にできるようになった。新しい局と世界中の人々を、僕が繋ぐよ」
美しく見せることには、慣れていた。
これからは、その場所で誰が働いているのかも伝えていく。
遠く離れた国の人々が、ここを知り、訪ね、仕事を頼めるように。
アレクシスは優雅に微笑んだ。
「外観も僕に任せて」
「ローズはいらんぞ」
「まだ何も言っていないよ」
「顔が言うとる」
「美しさは必要だろう?」
「ほどほどにな」
アレクシスが、心得たように頷く。
その顔を見て、リリアーナは少しだけ眉を寄せた。
最後にレイナが、リリアーナの前へ進んだ。
扇は閉じたままだった。
胸の前で両手を重ね、清司の姿へ一度目を向ける。
「清司さんのおかげで、わたくしは悪役令嬢ではなく、一人の人間として生きられるようになりました」
決められた呼び名があった。
何を言っても、何をしても、そこへ戻されることがあった。
それでも、この人は話を聞いた。
何ができるのか。
何をしたいのか。
返事をする自分を、見てくれた。
レイナは一度息を吸い、まっすぐリリアーナを見た。
「清司さんは、決められた役ではなく、わたくし自身を見てくださいました。ですから今度は、まだ誰にも一人の人間として見てもらえていない方を、わたくしが見つけますわ」
言い終えたあとも、その目は逸れなかった。
清司が少しだけ目を伏せる。
リリアーナも、静かに頷いた。
「……頼む」
その時、ミレーヌが黒革手帖を閉じた。
「私も」
リリアーナがミレーヌを見る。
「ただ『おいたわしい』と言っていただけの、モブ侍女でした」
「お前、自分で言うんや」
「事実ですので」
いつもの即答だった。
けれど、手帖を胸へ抱える指には、少しだけ力が入っていた。
「ですが、清司さんが私を見つけて、相棒にしてくれました」
記録すること。
先に準備すること。
必要な者へ、必要な話を通すこと。
初めから、すべてできたわけではない。
任されるたびに確かめ、次は間に合うように整えた。
黒革の手帖には、その積み重ねが残っている。
清司は静かにミレーヌを見ていた。
「今では清司さんの隣で、人と現場を見て、必要な仕事を一緒に作ることができます。ですから今度は私も、まだ誰にも見つけてもらえていない方を見つけます」
ミレーヌは一度、中央放送局の扉へ目を向けた。
あの中で、確かめられなかったもの。
本人の意思。
働いた分の報酬。
断る権利。
これから自分たちが作る場所では、一つずつ書き残していく。
「その方が自分の仕事で立てるようになるまで、記録して、整えて、支えます」
リリアーナは少しだけ目を細めた。
「頼むで」
「はい」
ミレーヌは小さく笑った。
「相棒ですので」
その時、モビーズが一斉に前へ出た。
二百人。
靴底が石畳を踏む音が、広場へ重なった。
葉巻と煙草の産業を立ち上げた、あの頃から。
ずっと現場にいた者たちだった。
王宮と工場を往復した。
原料を確かめ、作業を覚え、帳簿をつけた。
人が増えれば持ち場を分け、分からない者が来れば、今度は自分たちが教えた。
その列の先頭で、メガネ聖女が顔を上げた。
「リリアーナ様」
「なんや」
「私たちも、リリアーナ様に見つけていただきました」
後ろに並ぶ者たちも、顔を上げていた。
「私たちは、ずっと王宮におりました。ですが、誰にも名前を呼ばれず、何を任されることもなく、ただそこにいるだけの者でした。王宮の中にいても、物語の中ではモブでした」
王族が通れば、道を空ける。
話が始まれば、壁際へ下がる。
その場にいても、誰かの決定を聞くばかりだった。
自分にもできることがあるのか、試される機会さえなかった。
リリアーナは黙って聞いている。
「そんな私たちに持ち場を与え、仕事を任せ、必要だと言ってくださったのがリリアーナ様です」
葉巻。
煙草。
工場。
産業。
最初は分からなかった仕事にも、今では、自分より詳しい者を呼ぶべき時が分かる。
次の現場へ移る時、何を持っていけばいいのかも。
誰かに尋ねられれば、自分の仕事として答えられる。
「今では、やりがいのある仕事をさせていただいております」
モビーズが深く頭を下げた。
列の奥まで、同じように頭が下がっていく。
「今度は私たちが、まだ誰にも見つけてもらえていない方々を見つけ、支える番です。一緒にやりましょう」
リリアーナは、すぐには返事をしなかった。
二百人の顔を見る。
こちらが声をかけるまで、指示を待っていた者たちだった。
今は、自分たちから次の仕事を申し出ている。
自分が任された持ち場へ、今度は誰かを迎えようとしている。
清司の握っていた拳が、ゆっくり開いた。
「……そうか」
リリアーナは小さく笑った。
「頼むわ」
「はい」
モビーズが顔を上げる。
返事のあとには、もう次の確認が続いた。
「リリアーナ様、どこから始めますか」
「まず土地や。事務所とテレビ局と、スタジオ作れる場所を探す」
「分かりました。一緒にやりましょう」
何人かが資料を取り出した。
隣へ顔を寄せ、必要な広さや道路の位置を確かめ始める。
エリオットが皆を見渡した。
「僕たちもやろう! 最初から最後まで、一緒に作ろう」
「もちろんだ」
レオンが答えると、セシルも笑った。
「やろう。新しく来る人たちが、ここでよかったって思える場所にしよう」
「資料は今から作る」
エミールは、すでに紙を広げていた。
「仕事早いな」
「必要だからね」
「爆弾表ちゃうやろな」
「違うよ」
「ほんまか?」
「今回は」
「今回は言うな」
周囲に、小さな笑いが広がった。
ミレーヌも黒革手帖を開く。
「芸能事務所、テレビ局、出演契約、給与、利益配分、放送権、商品化。すべて一から整えます」
ペン先が、紙へ触れた。
これから働く人間が、何に同意し、何を受け取るのか。
曖昧なまま始めないための項目が、一つずつ並んでいく。
「頼む」
「承知しました」
リリアーナは全員を見渡した。
まだ、土地もない。
建物も、機材も、番組もない。
中央放送局の看板は、背後に大きく掲げられたままだった。
そこを出てきた自分たちが持っているのは、ここに集まった人間と、それぞれが引き受けた仕事だった。
「事務所もテレビ局も、一から作る。向こうの役者も芸能人も使わん。役者、歌手、芸人、司会、裏方、全部自分らで見つける」
仲間たちは黙って聞いていた。
「オーディションもやる。ドラマも、映画も、ニュースもやる。今、街で何が起きとるか、誰が困っとるか、何が熱いか、自分らの目で見て、本物を流す」
書き留めていた手が止まる。
顔が上がる。
清司も、同じ仲間たちを見ていた。
リリアーナは、一人ずつ確かめるように視線を動かした。
「一緒に、やってくれるか」
「やろう!」
ロイヤルフラグメントの声が重なった。
「一緒にやりましょう!」
二百人のモビーズも答える。
石造りの玄関に、その声が返った。
レイナもミレーヌも、まっすぐリリアーナを見ていた。
その時。
チリン。
澄んだ鈴の音が、広場へ響いた。
「それでは、新しい芸能事務所とテレビ局の――」
バルドの言葉が止まった。
いつもなら、次の予定が続くはずだった。
誰がどこへ向かうのか。
何を先に済ませるのか。
迷いなく告げられる声を待ち、皆がバルドを見る。
「……バルド?」
バルドは少しだけ顔を伏せていた。
一筋の涙が、頬を伝う。
「泣いとるやん」
「失礼いたしました」
バルドは静かに目元を拭った。
「進行に支障はございません」
「あるやろ」
「ございません」
鈴を握り直す。
けれど、すぐには持ち上げなかった。
バルドの目が、七人の王子を順に辿った。
ミレーヌへ。
レイナへ。
その後ろに並ぶ、二百人へ。
かつては、一人ずつ呼びに行かなければならなかった。
集まっても、何をすればよいのか分からず、顔を見合わせていた。
今は、誰も次の指示だけを待っていない。
自分の仕事を申し出て、その先で働く、まだ知らない誰かのことまで話している。
「ただ、皆様がここまで来られたことを、嬉しく思います」
その声が、少しだけ震えていた。
誰も笑わなかった。
エリオットが唇を結ぶ。
レイナは静かに目を伏せ、ミレーヌも黒革手帖を閉じた。
いつも、傍にいた。
騒ぎのあとに部屋を整え、必要な物を揃え、人が集まれば鈴を鳴らしていた。
そのバルドが、今は進行を止めて、皆を見ている。
清司も、静かにバルドを見ていた。
リリアーナは少しだけ笑った。
「バルド」
「はい」
「次も、進行頼むわ」
バルドは背筋を伸ばした。
目元には、まだ涙の跡が残っていた。
それでも、返事はいつものようにはっきりしていた。
「承知しました」
静かに頭を下げる。
それから、鈴を持ち上げた。
チリン。
「それでは、皆様」
バルドは仲間たちを見渡した。
「新しい現場へ参りましょう」




