第102話 ここが家や
ラーメンを食べ終える頃には、大広間の空気も少しずつ変わっていた。
子どもの笑い声が聞こえ、湯呑みを置く音や、誰かが鼻をすする音が重なる。腹いっぱい食べた者たちは、まだ戸惑った顔をしながらも、ようやく目の前の食事が自分たちのために用意されたものだと分かり始めていた。
その時、大広間の扉が開いた。
侍女や王宮の使用人、王宮モビーズの者たちが、清潔な服、布、タオル、石鹸、櫛、履き物を抱えて入ってくる。衣類は子どもから大人まで、大きさごとに分けられていた。
先頭の侍女が静かに頭を下げる。
「皆様、順番にシャワーへご案内いたします」
日本勢が一斉に顔を上げた。
「しゃわあ?」
近藤が聞き返す。
「身体を洗う場所です」
「本日中に、全員が?」
「はい。女性とお子様からご案内し、その後に男性の方々も順番にお願いいたします。石鹸とタオルはこちらでご用意しております。お召し物も洗濯いたします」
大広間が、また静かになった。
リリアーナが眉を寄せる。
「今度はなんや」
一人の女が、恐る恐る手を挙げた。
「……服も、洗っていただけるのでしょうか」
「汚れたまま着るんか?」
「ですが……着替えを持っておりません」
女が自分の着物へ目を落とす。
何度も継ぎ当てられた布はほつれ、長く着続けた汚れも残っていた。
侍女は抱えていた服から一着を取り出し、女へ差し出した。
「こちらをお使いください。仮のお召し物ではございますが、大きさは皆様に合わせております」
「……いただいても?」
「はい」
「返すのは、いつでしょうか」
「皆様のお召し物です」
女の手が止まった。
「私どもの?」
「はい」
「子どもの分も?」
「ございます」
「年寄りの分も?」
「ございます」
「働く者だけではなく?」
「皆様の分です」
リリアーナは、その顔を見た瞬間に察した。
「待て待て。今度は泣くなよ」
間に合わなかった。
女の目から涙が落ちる。
「また泣くんかい」
「申し訳ございません」
「謝んな言うたやろ」
侍女たちは騒がず、泣く者を急かすこともなく、それぞれに服を手渡していった。
子どもには小さな服。
老人には締めつけの少ない服。
身体の弱い者には、柔らかな布で作られたもの。
レイナも一人ずつ顔色を確認していく。
「熱のある方はいらっしゃいませんか。傷が痛む方や、立っているのがおつらい方は先に仰ってくださいませ」
一人の老人が首を横へ振った。
「若い者を先に」
「おつらい方が先ですわ」
「ですが、私はもう働けませぬ」
「身体を洗うことも、休むことも、働けるかどうかとは関係ありません。清潔にすることも休息を取ることも、身体を守るために必要ですもの」
老人は何も言えなくなった。
リリアーナが、その背中を軽く押す。
「ほら、行ってこい。倒れられた方が困んねん」
「姫君……」
「遠慮すんな」
「……はい」
老人は深く頭を下げ、侍女に案内されていった。
女性と子どもたちは、先に王宮の洗い場へ案内された。
いくつもの洗い場には、上から温かい湯が流れる設備があり、壁際には身体や髪を洗うための石鹸が用意されている。
日本から来た者たちは、桶で運ぶ必要もなく温かい湯が流れ続ける光景に目を丸くした。
「湯が、なくならない」
「桶で運んでおらぬのに……」
「上から降ってくる」
侍女が使い方を見せる。
「熱すぎましたら、こちらで温度を変えられます」
「温度まで?」
「はい」
一人の子どもが、恐る恐る手を伸ばした。
温かな湯が小さな指へ当たる。
「雨みたい」
「温かい雨ですね」
侍女が笑うと、子どももようやく安心したように笑った。
一方、大広間では男たちが順番を待っていた。
近藤、土方、山南、沖田。
龍馬、桂、高杉、西郷、大久保。
明智と、その部下たち。
なぜか全員、背筋を伸ばして座っている。
「風呂でも戦行くみたいな顔すんな」
リリアーナが呆れると、土方が口を開いた。
「アニキ。我々は最後で構わねぇ」
「順番に行け言うてるやろ」
「女子どもが済んでからで十分だ」
「今そうなっとる」
「なら、その後は負傷者を」
「レイナがもう見とる」
「老人を」
「先に行った」
「では、部下を――」
「お前も入れ」
土方が黙った。
「なんで自分だけ最後に残ろうとすんねん」
「責任者ですから」
「今は責任者ちゃう」
「……」
「今日は客や」
「……分かっています」
「ほんまか?」
今度は近藤が頭を下げた。
「アニキ。それなら、全員が洗い終わるまで私が残ります」
「増えんな!」
沖田が楽しそうに笑う。
「では、僕が最後に」
「お前も入れ!」
「アニキも一緒にどうですか?」
「俺は今リリアーナや!」
「そうでした」
「忘れんな!」
山南が小さく笑った。
「では、素直に順番どおり参りましょう」
「話早いん、お前だけやな」
「皆、少し意地を張りすぎなのです」
「お前がおってほんま助かるわ」
近藤と土方が微妙な顔をしたが、結局全員、順番に洗い場へ向かうことになった。
身体を洗い終えた者たちは、清潔な服へ着替えて大広間へ戻ってきた。
濡れた髪には乾いた布が渡され、使用人たちが子どもや老人の髪を丁寧に拭いていく。
その後、大広間へ王宮の理髪師たちが入ってきた。
椅子。
鋏。
櫛。
髭を整えるための刃。
鏡。
日本勢が、また一斉に固まった。
「次はなんやねん」
リリアーナが言うと、バルドが鈴を鳴らした。
チリン。
「髪とお髭を整えます。ご希望の方からお願いいたします」
高杉が自分の髪へ触れた。
「切られるのか」
「首は切られへん」
「分かっている」
「顔が分かってへんねん」
龍馬が笑った。
「姫さん。ここでは髪を切るにも、命懸けの顔をせんでええがか」
「鋏見て構えんな」
「癖じゃ」
「抜け」
最初に椅子へ座ったのは子どもだった。
目まで隠れていた前髪を理髪師が少しずつ整えていくと、隠れていた顔が見える。
「かわいらしいお顔ですね」
侍女が声を掛ける。
子どもは鏡を見ながら、照れたように笑った。
その母親の目から、また涙が落ちる。
「もう泣くん慣れてきたわ」
リリアーナは小さく息を吐いた。
男たちも順番に椅子へ座った。
伸びた髭を整えられ、乱れた毛先を切られ、長い髪を結い直されていく。
汚れが落ち、髪が整い、清潔な服へ着替えると、鏡の中には今までとは違う顔が映っていた。
知らない顔ではない。
忘れていただけだった。
戦う前。
逃げ続ける前。
命令される前。
刀を握ることだけが、自分の役目になる前の顔だった。
近藤が鏡をじっと見る。
「……こんな顔をしていたのか」
土方が隣からのぞいた。
「老けたな」
「お前に言われたくねぇ」
沖田が笑う。
「二人とも疲れた顔ですね」
「お前だけ元気そうなん腹立つな」
「若いので」
「斬るぞ」
「すぐ斬るな!」
リリアーナの声が飛び、土方は反射的に口を閉じた。
大広間に笑い声が広がった。
全員の身支度が終わる頃には、外も暗くなり始めていた。
大広間と舞踏会場には、厚手の敷布、毛布、枕が並べられ、家族ごとに衝立も置かれている。
飲み水。
夜間用の灯り。
子ども用の小さな寝床。
老人には厚めの敷布。
身体の弱い者は、レイナの判断で別の客室へ案内されていた。
ミレーヌが黒革手帖を見ながら説明する。
「本日は、こちらを仮の寝床としてお使いください。明日以降、家族ごとに住居を割り振ります。必要な家具や生活用品についても、順次確認いたします」
日本勢は、並べられた寝床を見つめた。
屋根がある。
壁がある。
雨も風も入らない。
温かい灯りがあり、家族が同じ場所で眠れる。
そのはずだった。
だが、近藤はすぐに入口へ立った。
「新選組は入口を固める」
土方が窓を確認する。
「二人ずつ交代で夜番だ」
桂も反対側へ向かった。
「では、こちらは私たちが」
西郷は敷布を動かし始める。
「女子どもは中央へ」
高杉は若い者たちへ指示を飛ばした。
「外側を男で囲め」
明智の部下たちまで壁際へ並び始める。
リリアーナは、しばらくその光景を黙って見ていた。
「……何してんねん」
全員が振り返る。
近藤が当然のように答えた。
「アニキ。就寝の備えです」
「寝床で布陣すんな!」
「ですが――」
「王宮の警備は王宮モビーズがおる」
「万が一が」
「花田丸もある」
「侵入者が」
「見張りも警報もある」
「それでも――」
「お前らが一晩寝たくらいで、この国は落ちへん!」
大広間が静かになった。
それでも土方だけは、まだ窓際から動かない。
「アニキ」
「なんや」
「我々には、何をすれば」
「寝ろ」
「……」
「寝ろ」
「明日の役目は」
「ない」
今度こそ、日本勢全員が固まった。
「ない?」
近藤が聞き返す。
「数日は休暇や」
「休暇……?」
心絆が勢いよく立ち上がった。
「休暇とは何をすればいいのですか!!!」
「声デカ! 何もせんでええ!」
聖子まで立ち上がる。
「お兄ちゃん! 何もしないって、どうするの!?」
「うるさっ! 俺に聞くな!」
沖田も不思議そうに首を傾げた。
「アニキ。手合わせも駄目ですか?」
「休暇の意味調べてこい!」
龍馬が少し笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「姫さん」
「なんや」
龍馬は新しい服を着た子どもや、髪を整えられた女、毛布へ触れる老人たちを見た。
「わしらは、日本を捨ててしもうたんじゃろうか」
誰も、龍馬を責めなかった。
それは、ここにいる者たちの多くが心のどこかで考えていたことだった。
日本を変える。
日本を守る。
日本へ帰る。
ずっと、それだけを考えて生きてきた。
その国から、自分たちは離れた。
リリアーナはすぐには答えなかった。
大広間を見渡す。
家族がいる。
仲間がいる。
部下がいる。
守りたかった者たちが、全員ここにいる。
腹いっぱい食べた。
身体を洗った。
清潔な服を着た。
髪も整えた。
今夜は同じ屋根の下で眠れる。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、リリアーナの横で同じ光景を見つめていた。
「家族や仲間がおって、守るもんがおって、一緒に安心して暮らせる」
リリアーナは龍馬を見る。
「場所がどこでも、それが家ってもんちゃうんか」
龍馬の目から涙が落ちた。
桂は家族たちを見た。
高杉は笑っている若者たちを見た。
西郷は毛布に包まれた老人を見た。
大久保は子どもたちの寝床を見た。
近藤は新選組の仲間と、その家族を見る。
土方もようやく窓から離れた。
明智は、自分の部下とその家族を見つめていた。
本能寺で、自分と共にすべてを終わらせるはずだった者たちが、今は明日の朝を迎えるために眠ろうとしている。
「……我らは」
桂が静かに口を開いた。
「日本そのものへ、執着していたのかもしれません」
大久保も目を伏せる。
「そこ以外に、守りたい者と生きられる場所はない。そう思い込んでいたのでしょう」
龍馬は涙を拭わないまま笑った。
「日本を捨てたがやない。守りたかった者と、家を移したんじゃな」
「そういうことや」
リリアーナは短く答えた。
その瞬間、日本勢が一斉に頭を下げた。
「姫さん!」
「アニキ!」
「姫君!」
「この御恩、一生忘れません!」
「働かせてください!」
リリアーナの眉が動いた。
近藤が勢いよく立ち上がる。
「明日より、王宮警備を」
土方も続く。
「作業手順と警備体制を確認する」
西郷も立ち上がった。
「力仕事なら任せてくだされ」
「若い者は俺がまとめる」
高杉も乗る。
「情報網の確認を」
桂まで始める。
「制度を確認します」
大久保はもう何かを考えている。
「港と船を見せてくれんか!」
龍馬の目まで輝き出す。
明智も頭を下げた。
「国王殿の相談役として、明日より――」
「待て待て待て!」
止める間もなく、周囲からさらに声が上がった。
「夜番も!」
「荷運びも!」
「井戸掘りも!」
「田畑の開拓も!」
「今夜からでも働けます!!!」
リリアーナはとうとう両手を上げた。
「いいから休め!!!」
大広間が静まり返る。
「数日休め! 腹いっぱい食え! 寝ろ! 家族と過ごせ! 仕事は逃げへん!」
日本勢は顔を見合わせた。
「……家族と過ごす」
近藤が呟く。
「何をすればいいんだ」
「そこからなん!?」
土方も真剣だった。
「一日中か?」
「休暇やからな!」
沖田が手を挙げる。
「散歩は仕事に入りますか?」
「入らん!」
「では散歩します」
「それでええ!」
龍馬も手を挙げた。
「船を見るのは?」
「趣味ならええ!」
「ほな港行くぜよ!」
「もう予定立てとる!」
心絆が拳を上げた。
「全力で!!! 休みます!!!」
「休暇まで気合い入れんな!」
大広間に笑い声が広がった。
リリアーナは大きく息を吐きながら、ようやく寝床へ向かい始めた日本勢を見た。
戦うこと。
逃げること。
働くこと。
誰かを守ること。
それなら、みんな知っていた。
けれど。
安心して眠ることだけは、まだ誰も上手くなかった。
それもこれから覚えたらええ。
リリアーナはそう思いながら、家族ごとに並んだ寝床を見渡した。




