第101話 腹いっぱい食え
報告会議が終わると、各乙女ゲームの者たちは、それぞれの持ち場へ戻っていった。
貧民街、パン工場、ラーメン工場、中央放送局、物流センター、花田丸、街道、店、テルリッチ公園。
国は今日も、いつも通り動いている。
王宮モビーズ本部に残ったのは、リリアーナ、ミレーヌ、バルド、レイナ。そして、日本から来た者たちだった。
「大広間、見に行こか」
「はい、清司さん」
ミレーヌが黒革手帖を閉じる。
バルドも静かに鈴を鳴らした。
チリン。
「皆様、お待ちでございます」
「待たんでええ言うたのにな」
リリアーナの横では、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司が、気だるそうに立っていた。
大広間の扉が開く。
長い机と椅子が並び、その上には大皿に積まれたサンドイッチ、湯気の立つ紅茶、果物、焼き菓子が人数分きれいに用意されていた。
子ども用には小さく切られたパン。
老人でも食べやすい、柔らかな菓子。
身体の弱い者にも負担が少ないものが、それぞれ分けて置かれている。
だが。
誰も食べていなかった。
龍馬、桂、高杉、西郷、大久保、心絆。
明智と、その兵士たち。
近藤、土方、山南、沖田、聖子。
その後ろには、斎藤、原田、永倉、藤堂、井上、山崎たち新選組の隊士もいる。
さらに、兵士、農民、職人、商人、老人、女、子ども。
日本から来た家族たちが、全員きれいに席へ座っていた。
背筋を伸ばし、食事を目の前にしたまま、誰一人として手を伸ばしていない。
「……何してんねん」
リリアーナは思わず眉を寄せた。
近藤がすぐに立ち上がる。
「アニキ」
「座れ」
「はい」
早い。
近藤は即座に座った。
「なんで食うてへんねん」
誰も答えない。
目の前には食べ物がある。
明らかに腹を空かせた顔をしている者もいる。
それでも、誰一人として手を伸ばさない。
やがて山南が、静かに口を開いた。
「アニキや国王殿より先に、我々が口をつけるわけにはまいりません」
「オヤジ、さっき姐さんとラーメン食うとったぞ」
「……」
「俺も食うた」
「……」
「お前らだけ律儀に待ってたんかい」
リリアーナが呆れていると、一人の農民が深く頭を下げた。
「まだ、何もしておりませんので」
「何もしてへんから何や」
「働いておりません。役目も、いただいておりません。そのような者が、これほどの物をいただくわけには……」
「腹減ってへんのか」
農民は黙った。
その隣で、小さな子どもが母親の袖を握る。
「……減ってる」
リリアーナは、その子へ目を向けた。
「ほな食え」
子どもは動かなかった。
机の上を見る。
母親を見る。
それから、リリアーナを見る。
「……これ」
「うん」
母親が震える声で尋ねた。
「この子が食べても、よろしいのでしょうか」
「子ども用に切ってあるやろ」
「一つを、家族で分けるのではなく……?」
「全員分ある」
大広間が静まり返った。
誰かが、小さく息をのむ。
「老人にもある。働けん奴にもある。病気の奴も、レイナが食えるもん見とる」
レイナが静かに頷いた。
「身体の弱い方には、別のお食事もご用意しておりますわ」
「……身分に関係なく?」
「はい」
その答えを聞き、何人かが俯いた。
バルドが子どもの前まで歩き、小さな皿へサンドイッチを一つ置いた。紅茶の代わりに、温めた乳も添える。
「どうぞ」
子どもは震える手でサンドイッチを持った。
柔らかなパン。
肉。
野菜。
卵。
すべてが一つに挟まっている。
「……これ、どうやって食べるの」
「そのままや」
「全部、一緒に?」
「分解すんな」
子どもは恐る恐る口を開け、一口かじった。
目が、大きくなる。
「……おいしい」
母親の目から涙が落ちた。
「なんで泣くねん」
「申し訳、ございません」
「謝るな」
母親は口元を押さえた。
「この子が……腹いっぱい食べてもよい日が来るとは、思っておりませんでした」
その隣では、年老いた男が両手で紅茶を持ち、一口飲んだ。
「……温かい」
それだけだった。
だが、その声は震えていた。
一人、また一人とサンドイッチへ手が伸びていく。
「パンの間に肉が……」
「挟まっとるな」
「野菜まで」
「見たら分かる」
「一度に食べるのでしょうか」
「せやから分解すんな!」
ようやく大広間に、小さな笑いが起きた。
だが、食べ始めても皆の動きはゆっくりだった。
一口ずつ、確かめるように食べる。
食べ物が突然なくならないか。
誰かに止められないか。
そんなことを確かめるように、周囲を見ながら口へ運んでいる。
リリアーナは、その様子を黙って見つめた。
食べ物がある。
人数分ある。
子どもにも。
老人にも。
病人にも。
まだ働いていない者にも。
役目が決まっていない者にもある。
何も差し出していなくても。
ただ腹が減っているから、食べていい。
それだけのことで、皆が泣いていた。
刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司も、リリアーナの横から静かにその光景を見渡している。
明智は、後ろに座る部下たちを見た。
本能寺で自分と共に、すべてを終わらせるはずだった者たち。
その妻も。
子どもも。
老人も。
今は誰かの残り物ではなく、一人分の食事を手にしている。
明智の目から、静かに涙が落ちた。
「姫殿」
「なんや」
「この御恩……」
「命いらんぞ」
「まだ何も申しておりませぬ」
「顔が言うとる」
明智は、少しだけ笑った。
その横では、近藤がサンドイッチを両手で持ったまま、深く頭を下げる。
「アニキ」
「食いながら頭下げんな」
「我々だけでなく……」
近藤は新選組の仲間たちを見て、その家族へ目を向けた。
「家族まで、大切にしてくださるとは」
「お前らだけ連れてきて、家族置いてきたら意味ないやろ」
「……」
「なんや」
「いえ」
近藤の目から、さらに涙が落ちた。
「なんで増えんねん」
沖田もサンドイッチを持ったまま笑う。
「アニキは、やはりすごい方ですね」
「飯出しただけや」
「家族全員にですよ」
「人数分作っただけや」
「それがすごいのです」
「基準低すぎるやろ」
聖子が両手を組んだ。
「お兄ちゃん、やっぱり神様みたい!」
「うるさっ! 神ちゃう!」
心絆も勢いよく立ち上がった。
「我々は!!! この御恩を一生忘れません!!!」
「声デカ!」
龍馬はサンドイッチを片手に、周囲を見ていた。
子どもが食べている。
老人が温かい紅茶を飲んでいる。
農民が笑っている。
兵士が家族と同じ机を囲んでいる。
誰も食べ物を奪い合っていない。
誰も身分で皿を分けられていない。
まだ働いていないことを責められている者もいない。
「姫さん」
「なんや」
「ついてきて、間違いやなかった」
リリアーナは少しだけ目を細めた。
「そら良かったな」
「もっと何かないがか」
「飯冷めるぞ」
「姫さんらしいのう」
龍馬は笑った。
だが、その目には涙が浮かんでいた。
桂も、高杉も、西郷も、大久保も、それぞれ自分の仲間や家族を見ている。
守りたかった者たちが食べている。
腹いっぱい食べられる。
まだ彼らは、日本という場所に自分たちのすべてを縛りつけていたことへ、はっきり気づいてはいなかった。
ただ。
ここへ来てよかった。
それだけは、心の底から分かっていた。
その時、大広間の扉が開いた。
温かな湯気と、食欲を誘う香りが一気に流れ込んでくる。
大きな器を抱えた『壱乱』の者たちが、次々と入ってきた。
「温かいものも、お持ちしました」
日本勢が一斉に器を見る。
「……まだ、あるのですか」
「今サンドイッチ食うたとこやろ!」
「これはラーメンです!!!」
心絆が立ち上がった。
「声デカ!」
「熱い汁に麺が入っていて!!! その上にお肉とネギが乗って――」
「説明長なる。食うた方が早い」
器が一人ずつの前へ並べられていく。
温かなスープ。
麺。
焼豚。
ネギ。
日本勢にとっては初めて見る料理だった。
だが、どこか馴染みのある食材が使われている。
近藤たちは箸を持った。
龍馬も。
桂も。
高杉も。
明智も。
家族たちも、恐る恐る麺を持ち上げる。
一口。
ズズズズズッ。
誰かが泣いた。
鼻をすすりながら、もう一口。
ズズズズズッ。
「……温かい」
また誰かが泣いた。
「泣くか食うか、どっちかにせぇ!」
それでも誰も箸を止めなかった。
泣きながら、すすった。
家族と一緒に。
仲間と一緒に。
腹いっぱいになるまで。
何もしていなくても。
まだ役目がなくても。
命を差し出さなくても。
食べていい。
日本から来た者たちは、その当たり前を。
温かな一杯のラーメンと共に、初めて知った。




