第10話 武器
翌朝。
リリアーナの足は、重かった。
正確には、ふくらはぎがだるい。
太もももだるい。
腰も、背中も、地味に重い。
昨日、立った。
座った。
また立った。
少し歩いた。
ただそれだけである。
ただそれだけで、身体は見事に悲鳴を上げていた。
これはどうやねん。
清司は、リリアーナの身体の中で、静かに眉間へ皺を寄せた。
恋愛ゲームのヒロインのくせに、立って歩くこともまともにできんって、だいぶやばいやろ。
恋愛してる場合か。
まず二足歩行や。
「おはようございます、姫様」
ミレーヌが、いつものように静かに部屋へ入ってきた。
手には紅茶。
香りは、昨日と同じく甘すぎない。
木の香りが、ほんの少しだけ混じっている。
「おはよう、ミレーヌ」
リリアーナは、姫らしく微笑んだ。
ミレーヌは、静かに紅茶を置いた。
そして、リリアーナの横を見た。
正確には、リリアーナの横に立っている男を見た。
黒いスーツの男だった。
王宮の空気には、明らかに合っていない。
礼服とも違う。
騎士服とも違う。
貴族の装いでもない。
黒い上着。
黒いシャツ。
緩めた襟元。
気だるそうに組まれた腕。
背筋を伸ばして立っている、というより、片足に重心を預けている。
だが、その目だけは眠っていなかった。
部屋の空気。
人の動き。
逃げ道。
嘘の気配。
全部を、黙って見ている。
口元には、だいたい文句を言う前の顔。
清司だった。
「……」
清司は固まった。
今、目が合った。
明らかに、目が合った。
「……おい」
「はい」
「お前、俺見えてんのか」
「見えてますね」
「なんでやねん!」
「こちらが聞きたいです」
ミレーヌは、まじまじと清司を見た。
「歌舞伎映画の主役の人に似てて、かっこいいですね」
「……褒めてんのか」
「はい。顔面偏差値は高いです」
「言い方」
「ただ、タイプではありません」
「こっちもタイプちゃうわ、ボケ」
ミレーヌは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「てへぺろ」
「古いねん」
「わざとです」
「余計腹立つわ」
「場を和ませました」
「和んでへん」
「では、次回は別の方法を試します」
「試すな」
ミレーヌは、さらに清司を見た。
「でも、あれですよ? 綺麗な顔だからといって……」
「待て待て待て。それ以上言うな」
「はい」
「何言うつもりやったんや」
「業務に支障が出ますので、控えます」
「もう出てるわ」
ミレーヌは、今度はほんの少しだけ口を尖らせた。
「美月、すねちゃうぞ」
「誰やねん美月」
「中身です」
「急に中身出すな」
「清司さんも横に出ています」
「俺は出たくて出てるんちゃうわ」
「では、お互い様ですね」
「どこがやねん」
ミレーヌは、少しだけ首を傾げた。
「え? 清司さんは、私が見えていないんですか?」
「何がや」
「私です」
「お前は目の前におるやろ」
「いえ、そちらではなく」
ミレーヌは、自分の横を指さした。
清司は、眉をひそめながらその方向を見る。
そこに、女がいた。
ミレーヌと、まったく同じ顔の女だった。
同じ目。
同じ口元。
同じ表情。
ただし、王宮侍女の制服ではない。
見慣れない異国の服を着て、どこか気だるそうに立っている。
だが、顔は同じだった。
清司は、数秒黙った。
そして、低く言った。
「同じやんけ!」
「そうなんです」
ミレーヌは、真顔で頷いた。
「謎です」
「謎で済ますな!」
「清司さんも横に出ていますので」
「俺の話と並べるな」
「現象としては、同系統かと」
「分析すな」
ミレーヌは、もう一つ、小さなカップを持っていた。
リリアーナ用ではない。
清司の方へ、そっと差し出される。
「……なんや、それ」
「清司さんの分です」
「飲めるか分からんやろ」
「試してみないと分かりません」
「実験すな」
ミレーヌは、にこりと微笑んだ。
「相棒ですので!」
そう言って、彼女はカップを少し掲げた。
紅茶の水面が、かすかに揺れる。
「揺らすな。こぼれるやろ」
「相棒感を出しました」
「紅茶で出すな」
「では、次回はもう少し静かに出します」
「次回も出す気か」
「相棒ですので」
「便利な言葉にすな」
清司は、半信半疑でカップへ手を伸ばした。
指先が、持ち手に触れた。
触れた。
「……持てるんかい」
「持てましたね」
「なんでやねん」
「相棒ですので」
「理由になってへん」
説明しよう!
清司は、リリアーナの横に別表示されている!
普通の人間には見えない!
触れられない!
話も聞こえない!
はずだった!
だが!
ミレーヌが出した紅茶だけは、なぜか持てた!
理由は不明!
原理も不明!
ただひとつ言えることは!
相棒の出す紅茶は、世界の理屈を少しだけ無視するということである!
なお、清司はまったく納得していない!
おいたわしいのは、今日も清司の精神である!
ミレーヌは、ふっと目を細めた。
そして、静かに胸元へ手を入れる。
「……どうやら」
そこで、彼女は小さく笑った。
「私の手帖の出番が来たようですね」
「なんや、その意味ありげな言い方」
ミレーヌが取り出したのは、一冊の小さな手帖だった。
中身は、王宮から支給された普通の業務用手帖である。
ただし、表紙には黒い牛革のカバーがかけられていた。
艶のある黒。
指に馴染む厚み。
丁寧に縫われた縁。
明らかに、ただの支給品ではない。
ミレーヌは、その手帖を胸の前で掲げた。
「黒革手帖です!」
「武器名みたいに言うな」
「武器です」
「言い切ったな」
「記録は、武器ですので」
「急に怖いこと言うな」
「見たことを、なかったことにしないためのものです」
清司は、少しだけ黙った。
「……それは、まあ、分かる」
ミレーヌは、にこりと微笑んだ。
「なので、清司さんが別表示される件も記録します」
「台無しや」
ミレーヌは、何事もなかったように頁を開いた。
そして、さらさらと書き込む。
『清司さん、姫の横に別表示されることあり。
本人曰く、見えているのは不本意。
分類:内心の具現化。
用途:ツッコミ、威圧、現場確認』
「分類すな」
「必要です」
「何に必要やねん」
「今後の現場復帰業務に」
「俺、現場復帰させられる側なんか?」
「場合によっては」
「怖いこと言うな」
ミレーヌは、さらに一行を書き足す。
『清司さん、古いぶりっ子に反応あり』
「書くな」
「有効な牽制手段です」
「俺で遊ぶな」
「相棒なので」
「相棒の使い方間違ってるやろ」
ミレーヌは、手帖を閉じなかった。
そのまま、別の頁へ視線を移す。
「中身が別表示される者同士は、なぜか引かれ合うのかもしれません」
「それ以上、名指しすなよ」
「していません」
「匂いが濃いねん」
「名指しは危険ですので」
「便利な逃げ方すな」
説明しよう!
前世の記憶を持つ者の中には、ごくまれに、中身が外側へ漏れる者がいる!
もちろん、この世界の者には見えない!
だが!
同じように中身が漏れている者には、なぜか見えるのである!
理由は不明!
原理も不明!
ただひとつ言えることは!
ややこしい者同士は、だいたい近くに集まるということだ!
なお、本人たちはまったく納得していない!
おいたわしいのは、今日も清司の精神である!
「姫様」
ミレーヌが、ふと思い出したように顔を上げた。
「本日のふわ管に記録しておきます」
「ふわ管ってまだ続いてるんか」
「はい。ふわ姫体力管理記録です」
「略すな」
ミレーヌは黒革手帖とは別に、薄い紙束を取り出した。
「本日の記録。朝、筋肉痛あり。相棒紅茶成功。黒革手帖始動。別表示現象を確認」
「項目多いな」
「重要回ですので」
「誰目線やねん」
「読者目線です」
「メタいこと言うな」
ミレーヌは、黒革手帖を閉じた。
ぱたん、と小さな音が鳴る。
その音は、妙に重かった。
たかが手帖である。
だが、そこにはすでに、清司の異常事態も、ミレーヌの観察も、この世界の攻略対象たちの分類も、これから先の現場復帰先も書き込まれていく。
手帖は、ただの紙束ではない。
誰かが見たもの。
聞いたこと。
気づいた違和感。
放っておけば消える小さな情報。
それらを書き留めた瞬間、情報は形を持つ。
形を持った情報は、判断になる。
判断は、配置になる。
配置は、現場を動かす。
清司は、黒革手帖を見た。
「……ほんまに武器やな」
「はい」
ミレーヌは、静かに微笑んだ。
「だから、軽く扱いません」
その声は、いつもの冗談とは少し違った。
清司は、カップを手にしたまま、少しだけ黙った。
記録は、武器。
見たことを、なかったことにしないためのもの。
それは、清司にも分かる言葉だった。
現場では、小さな違和感が命を分ける。
誰が何を言ったか。
誰が黙ったか。
誰の顔色が変わったか。
どの道が傷んでいたか。
どの飯がまずくなったか。
気づいていたのに記録しなかった。
そういう小さな穴から、人は落ちる。
「……ええ武器や」
清司がそう言うと、ミレーヌはほんの少しだけ嬉しそうにした。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「俺で遊ぶ記録は消せ」
「それは無理です」
「なんでや」
「相棒なので」
「相棒を理由にすな」
ミレーヌは、黒革手帖を胸に抱えた。
「大丈夫です。悪用はしません」
「信用できるような、できへんような」
「使えるものは使います」
「俺の思想を勝手に吸収するな」
「もうしました」
「早いねん」
その時、扉の外から控えめな声が聞こえた。
「リリアーナ姫様。隣国の第三王子、アレクシス・ローゼン殿下より、本日お見舞いに伺いたいとのご連絡が届いております」
部屋の空気が、少しだけ止まった。
清司は、半目になった。
「また攻略対象か」
ミレーヌは、すぐに黒革手帖を開いた。
「はい」
「分類は?」
「美意識過剰王子です」
「もう嫌な予感するな」
「補足しますと」
ミレーヌは、手帖の頁をめくった。
「ピンクの長い髪、濃い目元、声量大きめ、自己演出過多。本人曰く、美は責務だそうです」
清司は、しばらく黙った。
「面倒くさそうな責務背負ってんな」
「姫様を口説くために来る予定です」
「恋愛してる場合か」
「はい。ですので、現場復帰先を探します」
「何に戻すねん」
「文化外交か広報ですね」
「顔面で働かせるんか」
「顔面も資源です」
「嫌な言い方すな」
ミレーヌは、黒革手帖へ新しい頁を開いた。
『次回対応予定。
対象、アレクシス・ローゼン第三王子。
仮分類、美意識過剰王子。
現場復帰候補、文化外交・広報』
清司は、紅茶を見つめた。
なぜか持てる紅茶。
なぜか見える相棒。
なぜか武器扱いされる黒革手帖。
そして、次に来るのは、美意識過剰王子。
恋愛ゲームのはずなのに、現場の道具ばかり増えていく。
リリアーナは、姫らしく微笑んだ。
その横で、黒スーツの清司が、だるそうに腕を組む。
「……ほな、次の現場やな」
ミレーヌは、黒革手帖を閉じた。
「はい」
そして、にこりと微笑んだ。
「相棒ですので」
おいたわしいのは、今日も清司の精神である。




