第15話:ひと口の勇気が取り戻したもの
食堂に入ると配膳はすでに済んでおり、イルゼの前には小さな銀の蓋が二つ並べられていた。
彼女は背筋を伸ばして座っていたが、俺に気づいて向けた笑顔はどこか硬い。
やっぱり緊張しているんだな……とすぐに分かる。
そのすぐ後ろには老執事が控え、いつも通り静かに佇んでいる。
一方、少し離れた席に座る領主は、腕を組んだまま娘の方をじっと見つめていた。
俺が一つ小さくうなずくと、老執事が銀の蓋に手を添え、静かに告げた。
「本日の昼食は、ラディッシュのスープと、ベビーリーフの温サラダでございます」
蓋がゆっくりと持ち上がり、ふわりと湯気が広がった。
同時にイルゼの喉が小さく上下し、息をのむ音が聞こえた気がした。
やはり……いざ食事となると、怖いのだろうか。
無理もない。まだ改善を初めて1ヶ月だ。いくら本人の希望と言えど――
「これでは……いささか質素すぎるのではないか?」
領主は料理に目を細め、ぽつりと漏らした。
俺は一歩前に出て、静かに言った。
「こちらは、お嬢様が自ら育てた野菜で作った料理です。そして、その調理の過程――どんなふうに切って、どう火を通したか……全部を見てもらいました」
ちらりとイルゼの方を振り返ると、小さくだが、ゆっくりとうなずく彼女と目が合った。
「しかしだな、これでは――」「お父様、聞いてください」
領主が何か言い返そうと口を開いた瞬間、イルゼが凛とした声を上げた。
「コーサク様を紹介していただいてから今日まで、私が食べてきたものはご存じでしょう?」
「そ、それは……」
領主が報告をしていたのであろう老執事を見るも、彼は微動だにしない。
イルゼは視線をそらさず、まっすぐ父を見つめている。
ここはもう、俺の出る幕じゃないな。
「今日の昼食は……私が“安心して食べられるように”、考えていただいたものなのです」
イルゼは目の前の料理へそっと視線を落とし、ゆっくりと目を閉じる。
「私は……これまで、食事が嫌いでした」
自身を振り返るその言葉は淡々としているのに、不思議と重みがある。
「でも、部屋で育てたお野菜たちは、日々力強く、瑞々しく育つことを知りました」
ひとつひとつ、大切な記憶を思い出すように、丁寧に言葉を紡いでいく。
「料理人の方が、食材をよりおいしくするために、創意工夫を凝らしていることも……初めて見ました」
開かれたイルゼの瞳は、もう逃げずに料理をしっかりと捉えていた。
「コーサク様に作っていただいたのは……私が育てた、私のための料理。だから……食べられるのです」
最後の言葉だけは、ほんの少しだけ強かった。
イルゼはそっとスプーンに手を伸ばした。
その動きは慎重で、丁寧で、まるで何かを確かめるようだった。
静かにスープをすくい、一度じっと見つめる。
薄く透き通った赤カブ、卵白の細い筋、カブの葉の小さな緑。
ひとさじの中に、小さな景色が温かく収まっている。
領主の……いや、皆の視線が集まる中、イルゼはゆっくりと口元へ運び――ひと口。
スープが舌に触れた瞬間、イルゼのまつげがふるりと揺れた。
「……あったかい……おいしい……おいしいです」
彼女の頬を伝って涙がこぼれる。
歓声も喝采もない、静かで温かい時間が過ぎていく。
誰もがその時間を壊さないように、ただ沈黙を保っていた。
領主は目を見開き、すぐに顔を覆った。
老執事は胸に手を当て、静かに目を閉じる。
俺はただ、その光景を見守るしかなかった。
――よかった。
その一言だけが胸の奥に広がった。
◇◇◇◇
――用意された料理を食べ終え、ハーブティーが配られた頃、ようやく領主が口を開いた。
「コーサク殿、娘を……娘を救ってくれてありがとう」
深々と頭を下げる領主を、慌てて止める。
「いや、頭をあげてください。俺がしたことはほんの手助けくらいで、頑張ったのはお嬢様なんだから」
「イルゼが……?」
顔を上げた領主が、そっと娘を見る。
イルゼはティーカップを静かに置くと、領主の顔をじっと見返した。
その目は、どこか覚悟を決めた人間のものだった。
「お父様……私、ずっと怖かったのです」
「怖い? 何が怖かったというのだ?」
領主の眉がわずかに動く。
「豪華なお料理を食べた後、苦しそうにしているお父様を見て……いつしか、食べることそのものが怖くなっていたのです」
領主の表情が固まった。
老執事が静かに目を伏せる。
「私はずっと、“たくさん食べることが幸せ”だと教えられてきました」
イルゼは胸の前でそっと手を重ね、言葉を続けた。
「でも……お父様は、食べたあと苦しそうで……。それなのに、どうして無理をしてまで食べるのか、分からなかったのです」
領主は息を呑み、椅子の背にもたれた。
その目は、娘の言葉を受け止めきれず揺れている。
「……イルゼ……私は、私はお前のことを思って……」
「はい。でも、それを言えば、お父様を悲しませてしまうと思って……ずっと言えませんでした」
イルゼはまっすぐ父を見つめた。
その瞳には、もう迷いはない。
「でも……今日、食べられたのです。食事は“怖いもの”ではなく……“私のために作ってくれたもの”だと分かったから」
イルゼは父に向かい、ふわりと笑って見せた。
「イルゼの……ために……」
領主は呟くように言葉をこぼした。
その声は、これまでの威厳を保った領主のものではなく、
ただ一人の父親のものだった。
「私は……豊かさを履き違えていたのかもしれん」
領主は震える手で額を押さえた。
「娘の思いに気がつきすらしなかった……。それが“幸せ”だと……私は、疑いもしなかった」
ぽつりと落ちたその言葉に、部屋の隅に控えていたカールさんが、静かに目を伏せた。
「いいえ。お父様が私のためにしてくださったことを、否定したかったわけではありません」
イルゼは小さく首を振る。
「ただ……毎食豪華な料理と言うのは、少し重かっただけなのです。私にも……お父様にも」
その言葉に、領主の目が大きく揺れた。
「はい。お父様がお酒ばかりで食事に手を付けていないことは、既に皆が知っております。そこでですね……」
イルゼが小さく指を鳴らすと、老執事がすっと前に出て、一枚の紙を領主へ差し出した。
「これは?……“お父様が元気になるための覚書”?」
紙に目を落とした領主から、素っ頓狂な声が上がる。
「私とお父様が元気に食事を楽しめるように、コーサク様に色々と教えていただきましたの!」
イルゼは興奮したように身を乗り出す。
「お父様も毎日の食事で、お体の調子を崩している可能性があります! そこで――」
「ま、待て! 言わなくても書いてある!」
領主が慌てて手を前に出し、イルゼを制した。
「確かに……体の不調に心当たりはある。食事の変更も試してみる価値はありそうだ。だが、日々の運動の時間など……」
「問題ありません、旦那様」
「エ、エレミアス……?」
老執事は微動だにせず、淡々と告げる。
「家臣団との調整はすでに済んでおります。午後に三十分ほどであれば、いかようにも時間を確保できると」
「し、しかしだな……」
「お父様は、私とお散歩をするのが嫌ですか?」
イルゼの悲しそうな声音に、慌てて領主が答える。
「嫌じゃない! 嫌なわけあるか!」
「では、決まりですね」
イルゼがぱっと笑うと、領主は観念したように肩を落とした。
「食べ過ぎをやめて、適度に運動すればよくなるはずです。ですから頑張りましょう? また、二人で食事が楽しめるように」
「……まずはひと月だ。ひと月様子を見てから決める」
領主は覚書を握りしめ、ぐっと拳を握った。
「すまんがコーサク殿、今日から娘ともども世話になるぞ!」
その宣言に、イルゼは嬉しそうに笑い、老執事は静かにうなずく。
そして俺が快諾して休肝日の提案をすると、領主の絶叫があがった。
重かった空気はすっかり晴れ、食堂には、久しぶりに家族の笑い声が響いていた。
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