ガラス窓の隔てる世界
今日も明日も窓ガラスを磨く。夏に汗で汚れても、冬に手がかじかんでも。週に二度、同じ女性を見かける。透明感のある色白で黒髪黒目がちな人だ。店外で雑巾を手にする僕の隣でふと足を止めては、店内のピアノを眺め、溜息交じりの吐煙で窓を濁していく。それを僕はまた磨く。
窓ガラスに写る彼女と僕は黒いピアノに二重に汎画し、幾重にも広がる人となりの遠近法を静かな店内に浸透していった。今日も来た。その次の週も、そしてその次の週末。
戦前からあるスイス製のグランドピアノの一台を磨くのは午前九時開店前、「open」の掛け札、鼻唄が聞こえ、窓には通勤者が平行に残像を残す、一枚ガラスの中央に彼女、恐らくこのピアノを品定めしているのだろう、眺め、声を掛けようとすると、その寸前、察して逃げてしまう。
後に知る、彼女は天才ピアニシャンにして不世出の気間違い。ゴシップに洗われ、裏路地のマンションで静かに過ごす傍ら、渋谷の小さなレストランで即興会を開いている。ここの近くの店だ。
或る時、彼女が突如、何かの霹靂か店内に入って来た。例のピアノを右手でなぞり、軽く微笑んで、
「この子の名前は?」
「皆好きに呼んでます」
「へえー、八方美人なんだね、きみ」
左手で黒鍵をまたぎ、その間の白鍵を一つずつ確かめるように撫でるように押した。初めて聴いたその音列は乾いた足音を残し、優越に浸る輩を店から誘い出そうなんてもんだ。腹の奥に締め付けられるようなオルガニズムを感じた。指だけでもいいから独り占めしたくなった。
そして瞬端の沈黙が彼女の肘を啄ばんだ。
「ピアニスト、の意味を履き違えてしまいそうだ。君は、そうなんでしょ?」
「ふふっ。高校生の告白みたい。知りたければこのピアノさん、たまには弾かせてくれないかしら」
「無論やぶさかではありませんが、貴女の気分に合わせて調律するのにどの腕前の知り合いに頼めば帳尻が合うのか、勝手に模索に頭抱えて今日に至る次第です。お気に入りはこの子ですか?」
この時彼女が小声でごにょごにょと呟いていたが聞き取れなかった。彼女はピアノの蓋に楽譜を置くと、椅子に腰掛け、ロングヘアを後ろで右から左へ顎に被せ、ピアノに向かい合い、左手でリズムを取り、右手で律を乗せた。笑いながら弾いていた。音がコロコロ転がるように「すごいねえ。お上手に歌えるねえ」テンポが上がれば明日の天気は晴れ、下がれば大雨、その中間を行ったり来たりするのに、僕が悶えている内に一曲弾き終えた。そして彼女はそのピアノの値段を尋ねてきた。
「買えないわ。今晩の食事の方が大切だもの。」
彼女は店外へ行き、また窓越しにピアノを眺めた。
そして去って行った。
実際には雑踏に紛れ聴こえる筈の無い足音がいつまでも聴こえる様な気がした。香水の残り香がドアの隙間から徐々に店外に逃げていく、私だけの恋慕は静かに、土くれが風に崩れ落ちるように幕を閉じる。せん方のなく立ちすくんでいると次のお客、髭のスーツの男が娘にピアノを与えたい、いつかの不世出のピアニストのように自分から遠くの国でいつか演奏会の主賓をさせる、と言うが、スイス製のピアノはすでに予約が入っていることにした。気に入っているようで惜しんでいたがその客には分相応のポンコツピアノを薦めた。後に店長に知れ、しこたま怒られた。
それから半年とちょい経った。春にはまだ早く、冬と言われればすでに前衛的過ぎる天気予報と照り。
陽が傾く、客が来ないな、新聞を畳み、珈琲を口に運ぶ。少し肌寒くなってきた。店長様は湯治と言う不倫旅行、土産は期待してない。
表に出て煙草一本火を着ける。苦いな、夕焼け掛かって燈光に染まる町並みは初めて訪れた異国のように感じる。上着のボタンを一つ外す。人通りも穏やかで、彼彼女らが何を話しているのかも聞き取れないし、気にする必要も無い。晩冬初春、雲が蠢きだして唐突に雪が降り出しても可怪しくない、そういう嘘吹いた季節が忍び寄って来ている。そしてそれに気付いていないフリを続け、またいつもと同じように窓を磨く。
夕焼けが路街に浸透し、ああ、今日が引き伸ばされて明日のこの時間も下手糞なセールスを口にもがくんだ。気が付くと窓ガラスには人間二人の影が重なって写っていた。
「久し振りね」
「今日はもう閉めますよ」煙草を靴の底で揉み消す。
「そう、そんなものね」
「何処かへ行かれてたんですか?」
「思い出探し」
「よくこの場所に戻ってこられましたね」
店内の例のピアノを一瞥、
「あの子が淋しがっているかと」ドアの掛札をひっくり返す。
彼女は私と話している、そういう呈ではないな、ひとり、鼻唄で孤独を紛らわすよう、ドアノブを捻った。立て付けが悪いのでギイギイ音がする。その後、ベルのからん、と。そしてピアノに近付いた。
悪い客が来るものだ。へべれけの物乞いが窓をしきりに叩く。
「これは、つまりの音楽ではないか?。ミュージックってやつだ」
そうであろう、そうである。よく合点のいったものだ。
茫然自失するこいつのワンカップが落ちて割れた。掃除はしない。危険だ。そして儚く優しい、メロディアスな歩道にいきなり花が咲いて、くたびれて、喜びも知らず、たわわに実を揺らし、土に還っていく。ほんの僅かな時間、春は過ぎ去った。物乞いがガツリガツリ窓を引っ掻き、それを掃除するのも私だと思うと、給料の重たさを知った。彼女の、つまりの音楽は相手を選ばず、弾きたい時に弾いて、止む時は心中だ。
それだけの価値のある音楽のあと、彼女は店中の売り物のピアノ弦をひっちゃかめっちゃかにばら撒いた。自分の現才が気に入らないのであれば外気の寒さに身を投じればいいし、ドアにはドアノブが付いている。少なくとも私には給料以上の仕事が増えた。タバコに火をつけ気に入らないフリをする。他愛もないこと、ふふん、てな感じに。その拙い「フリ」はいつか財産になる。
物乞いは次の日も現れた。次の日も、その次の日も、窓の此方と向こうの意味を人類に明確にしていった。




