誰にも言えない自慢
温かい日和が続いた。散歩にも出る気になる。普段吸わないタバコふかし、あの子が出て行った代わりに飼ったマルチーズに外の空気を吸わせてやろう、リード紐に首輪を探す。犬用のセーターは邪魔なのは分かってる。でも可愛いんだもの。便りの無いのは良い証拠。連絡なんか取らなくてもあの子は一人前以上の天才ピアニストになった、それで必要十分、授かった私たちもあの子の新しい恋人や住む家の心配をするようになり、これから世界へ羽ばたいていくあの子を通信機能発達の現代で何処でもいつでも、向こうの気が向けば、話し相手くらいには為ってあげられる。夫はMAスタジオに入り浸りで、あの子をスタッフに自慢しながらシンセサイザーの有能性と最大の欠陥をぶつけ一人で議論していることだろう。困り顔のスタッフが頭に浮かぶ。電話が繋がらない。
音楽雑誌で読んだわ。手紙でも書こうかしら、「オスロ音楽祭 主賓 」。
新聞の切り抜きの一つ、「邦人初の快挙!オスロにモンスーン到来 天才女性ピアニスト現る」今更だとも思うけど、散々色々なコンクールの受賞暦でも十分なのに、ついに「オスロ」。来週にはウィーン入りね、親バカやってるうちに子どもが勝手に成長しちゃったわね。
たまには一緒に食事でも、電話したけど繋がらない。最近はよくあることだったけど、楽器屋やプロデューサー、スタッフ達に迷惑をかけてはいまいかしら。今までのドキュメンタリー番組は全部録画。私はあの子の母親なのよ。私たちが育てたのよ、大声で叫びたい。でも良くないこと。孤児院のあなたを紹介してくれた誰か、その誰かからも差出人不明の音信と援助金が途絶えた。それは生活の所々で不自由が目に見えて起こる。CDの宣伝の縮小、CD会社からの契約金の減少、契約更新の悶着、夫が頭を抱える出来事が次々と起こる。今晩はステイクを焼こう、グラタンもいいわね。
夫が帰ってくる。浮かない顔で帰ってきた。胸に汗するものがあったので、エプロンを外しながら、
「どうしたの?」
「・・・最近、誰かに付けられてる。」
「盗作のはなし?」
「いや、違う」
上着を脱ぎながら、買い物袋をテーブルの上に並べた。ファッション雑誌、カップラーメン、煙草、東京タワーの観覧チケット、浅草の饅頭、五線譜の束にレコードの針。
「きっとあいつが死んだことと関係してる。」
「事故でしょ?」
「分からん」
夫は食卓に着かず、風呂にも入らず寝室に向かった。
「もう寝よう」
テレビ画面には娘の姿、似てないのも生まれつき。そう教えた不甲斐ない教育が今になっては恥ずかしい。少しばかりの執着が、音楽やその才能への固執が、一人の女性を悩ませた事も今には遠く後悔のアルバムを捲らせる。フフッ、この子が石で指を切った時、大騒ぎしたっけ、入院した時も駆けつけたし大学を辞めた時も自分本意でてんてこ舞い。悪い親ね?もう貴女は手の届かないところへ、夫の小さな悩みも靴に小石がぶつかったこと位にしか思えない、愉しみ、オスロ音楽祭、電話はもうしないわ。私たちに出来なかった、思いもつかなかった大舞台で、あなたの名前を思い切り叫びなさい。そして知らしめるのです。貴女が唯一無二の天才だってことを。ステージの下は糠、もう戻れないわよ、大切な物を全て捨ててきたからこそ出来る貴女為りのアプマーシュを彼方、聴かせてね。
ワインを飲みすぎたわ。頭痛がする。音楽祭は?もう終わってる。録画はした。朝になっても夜になってもベッドで咽び泣く夫、合点しないわ、もう何日か同じ日が続いているような気がする、杞憂、新聞には嘘ばかり、あの子が、大人に成ったあの子がオイタをするわけ無いわ。大成功の音楽祭、拍手喝采、驚天動地、耳から浸透する際限ない幸福感の中、私が彼女に何をしてあげられるか、指折りの焦燥、そうねピアニスト、永遠のコンツァルト、聴かせて、その役目を果たしてあげる、おやすみ、休養の時間ね、覚えてるわ、ド、ミ、ソ、和音って言うのよ、母らしい母には為れなかった、ピアノはそのままにしておくわ、楽譜は新しく作りなさい。
三年後、絵葉書が届いた。あの子からだ。ハワイ?椰子の木の浜辺、波打ち際にアベックのシルエット、挨拶文は無い。絵葉書に殴り書きで一言「夢の跡地」、続らくは彼女の人生がデクレシェンドのように淡逝く、人として当たり前の幸福をその両手に抱えて、朝や、月夜に紛れ溶けていけたらいいのに、願いを込めて大切に引き出しに仕舞った。他人には陳腐な親切のうち、本当の親にでも為れたら、こんなにも自分で自分を裏切った気持ちにはならなかったのに、、、




