指を休める四分休符
大学生には学生の本分を忘れ、自由気ままなアバンチュールを愉しむことも認められている―――「バカな話もたまにはしないと指が疲れる」、学科でのジョークだった。
あの子はあの子で好きな男がいる。私にも好きな男がいる。それがたまたま同じ人だっただけで、喧嘩には至らない、対抗意識としては本分も鑑みなければならなかったから。
大学一年目、彼のタクトを振る姿を見る度に二人して恭悦した。ある夜、寮の彼女の部屋で二人でじゃれあい一枚の毛布を奪い合いながら賭けをした。――今度の秋のコンテストで上位に入賞した方が彼の彼女になる。優柔不断な男だからこっちで決めないと――
「いいわ」
「いいのね」
自信はあった。彼女の家は恵まれている事も、一流の教育を受けてきた事も知っている。しかし両親の、少ない遺産で買った中古のボロのピアノで毎日十時間欠かさず修練を積んできた自分には技術では負けない、雑草の意地があった。
そして秋、私は優勝、彼女は二番手だった。授賞式の後、勿論、その時も聴衆であった彼にすぐに告白しに向かおうとすると、先生に呼び止められ、電話口では私の自宅が火事になったと聞いた。真っ青になって、楽屋のドアノブも開けられない、全て燃え尽きる頃には私は山手線を三周していた。大事にしていた楽譜、お気に入りのドレス、あのピアノ、思い出し笑いをする頃には何もかも燃え尽きていた。警察と消防は「不審火」とその顛末に終止符を穿って帰った。
寮に入ることを勧められたが、学友達の親切が怖ろしかった。だから断わった。あの子だけは残されたプライドを繊細に気遣ってくれたが、それも何かわだかまりが消えなかった。
一人、学内のベンチでサンドイッチを頬張っているとラジカセを抱えた彼が近寄って来た。
「君には指揮者が必要なんだね。そこにはピアノが在って、ステージ、何百人もの聴衆が夕方には集まって来る。見てごらん。」
彼が投げたパン屑にハトが群がってきた。思わず微笑んでしまった。彼は優しかった。友達が話し掛けてきてもポケベルが鳴ろうとも、私にだけ指揮を振るってくれた。時間だけが弛みなく通り過ぎて行った。そして何も無い私には最高の屈辱やら後ろめたさが次第に加速してくるように漂ってきた。狂詩曲が脳髄から追いかけて来るよう、そして走って逃げた。
おんぼろアパートにはろくに荷物もないが、まとめられる物はまとめて、寮のあの子の部屋に逃げ込んだ。そこでそんな私にあの子は何の臆面もなくおこがましさもなく、
「指は休めた?」
「何の話?」
疑問形には果てしない自問自答と、屹立とした明白な敗北感が、うろたえる口から出てきたのはただの強がりで、痩せ犬の遠吠え、あの子がピアノを一台くれると言うが、断わった。
「さっき聞いた話で、ドイツに腕の良いピアノメーカーがあるらしいのよ。こないだの私の演奏を聴いて、そこで一台繕ってくれるらしいの。でも見に行く航空代がないわ。」
嘘だった。誰にでも分かる嘘だった。でも彼女は工面してくれた。
ドイツは寒かった。その寒い国の人々は私には暖かかった。寂れたレストランの聴衆は皆が皆ではないが演奏を讃えてくれた。良い耳を持ち、実際に私の曲を聴いたピアノ工が気に入ってくれて、すぐさま絢爛なピアノブランドを立ち上げてくれた。商標は「リーベンデール(愛をする人)」。その人と寒い国の暖かい季節に小ぢんまりとしたチャペルで挙式した。お腹には子どももいる。今になってあの子と親友であったことを耳に誇らしく思えるようになった。
テレビでもラジオでもその名が聞こえた。手紙に、貴女にも良い事が在ると良いね、と書いて送った。その返答はカセットテープで返ってきた。私の愛する人は一緒に聴いて、「君には悪いが一度死んでみたくなった」、何かに取り憑かれた様に、ピアノを、私が好きで使っていた豪華な家具をピアノの部品に使った。




