第98話 王都へ帰還。地下二階に、七十四条を持ち帰る
王都の城門が見えたとき、テオが思わず声を上げた。「――出迎えがすごいです!」大通りには、人が詰めかけていた。花びらこそ舞っていない。楽団もいない。だが、沿道の人々の顔には、確かな期待があった。「勇者様たちが帝国から戻ったぞ!」「戦争にならずに済んだんだってな!」――剣を抜かずに国を守った、使節団の帰還である。
城門で一行を待っていたのは、ヴァロが留守を託した財務課の面々だった。その先頭に、白髪の老人が立っている。フェルゼン課長である。「――お帰りなさいませ」老人は深々と頭を下げた。「よくぞ、ご無事で」
ライルは、条文集を両手で掲げた。「――課長。持ち帰りました。共通帳簿『二国基準』、全七十四条。帝国の大臣の署名も、皇帝陛下の御裁可も揃っています」フェルゼンは、その束を受け取り、しばし表紙を見つめた。それから、震える手で頁をめくりはじめた。一条。二条。三条。……老人の目が、みるみる真剣になっていく。四十年、王国の帳簿を守り続けた、その目で一行、一行を検めていく。
城門の前で、老人は丸一刻、立ったまま読み続けた。誰も急かさなかった。やがて、最後の頁を読み終えると、フェルゼンは深く息を吐いた。「……見事だ」その一言に、四十年の重みがこもっていた。「不備はない。矛盾もない。……そして、何より」老人は顔を上げた。その目が、わずかに潤んでいた。「――この七十四条には、人の顔が見える。第六十二条。番号を持たぬ者の証明。……この一条を書いた者は、必ず誰かの涙を見てきておる」
「はい」エルナが静かに答えた。「四十年連れ添って、書類の上では他人だったご夫婦に会いました」フェルゼンは深くうなずいた。「よかろう。王国財務課、課長として、この七十四条を受理する。……いや」老人は言い直した。「受理などという言葉では足りん。――誇りをもって迎え入れる」
地下二階の財務課は、あの日と同じ場所にあった。三年前、ライルが絶望した、あの部屋。だが、今は明るく、案内板はやさしく、職員たちの顔は穏やかだった。その机の上に、条文集が置かれる。留守を守った職員たちが集まってきた。
「――皆に報告する」ライルが口を開いた。「四十日、帝国で戦ってきた。剣は一度も抜いてない。……いや、山道で魔物には抜いたか」笑いが起きる。「戦ったのは、書式と条文と二百年の前例だ。相手は手強かった。だが、こっちにも味方がいた。帝国の財務官。監査官。検査官。獣害局と災害対策局。軍務局の将軍まで。……国は違っても、まっとうな記録を守りたい、って気持ちは同じだったんだ」
留守を守っていた若い職員が、おずおずと手を挙げた。「あの……ヴァロ様。ご不在のあいだに来た書類のことで、ご相談が」「なんでしょう」「国境の村から届いた申請なのですが。番号も判もない方からで。……これまでなら突き返すところですが、七十四条があれば通せますか」ヴァロは条文集を繰り、第六十二条を開いて微笑んだ。「――通せます。証人を三名立てて、聞き取りを。……ちょうど、その第一号になりますね」職員の顔が、ぱっと輝いた。三年前、この部屋で突き返されて泣いた人がいた。もう、そんなことは起きない。持ち帰ったのは紙の束ではなく、そういう未来だった。
その夜、王城で報告の御前が開かれた。王は条文集を受け取り、しばらく無言で頁を繰った。「……ライル。エルナ。そして、皆の者」王の声は静かだった。「余は三年前、こう言った。『戦争ではなく、経費で戦え』と。……正直に言えば、半信半疑であった。剣を持たぬ戦で、本当に国が守れるのかと」王は顔を上げた。「――だが、そなたらは帰ってきた。一人も欠けずに。血を一滴も流さずに。そして、二百年動かなかった隣国の条文を動かして。……余の負けだ。剣より強いものが、確かにあった」
王はテオに向き直った。「勇者テオ。そなたの討伐は、正当と認められた。報酬も感謝金も、そなたのものだ。……よく耐えた」「陛下」テオは深く頭を垂れた。「僕は、この四十日でたくさんのことを学びました。剣で守れるものと、守れないもの。……次に剣を抜くときは、その後始末まで考えられる勇者でありたいと思います」王は満足げにうなずいた。
御前が果てたあと、ライルとエルナは二人で地下二階へ戻った。誰もいない夜の財務課。机の上には、七十四条の条文集が置かれたままだった。「……三年前は、ここで十七枚に泣いてたんだよな、俺」ライルが笑った。「あのときの俺に教えてやりたい。三年後、お前は国と国の七十四条を持って、ここに帰ってくるぞ、って」
「信じないでしょうね」エルナも微笑んだ。「あのときのあなたは、『領収書』の意味すらご存じなかったのですから」二人は、しばらく静かな部屋に立っていた。窓の高いところから、夜の月明かりが差し込んでいる。「――なあ、エルナさん」ライルがふと言った。「今度こそ、しばらく休もう。旅の精算だけは、きっちり済ませてからな」「もちろんです」エルナは、いたずらっぽく答えた。「領収書は一枚残らず揃っております。……三年前とは違いますので」二人の笑い声が、静かな地下二階に響いた。世界で一番地味な二度目の冒険は、こうして、その旅を終えたのだった。




