第95話 財務大臣の前で、九十年の「三マルク」を開く
帝国財務大臣、ローデン侯。財務省の頂点に立つ、この老貴族は、政治家であって実務家ではなかった。「――で、要するに何が望みかね」執務室に通された一行を、彼は気だるげに迎えた。「第一条の隣に一条加えたい。それだけのことに、大臣の専決を使えと? 半年待って、御前会議にかければ済む話ではないか」
「半年待てば、この七十四条は消えます」カリナがまっすぐに言った。「大臣も、ご存じのはずです。棚上げになった良案が、どうなるかを」「知っておるとも」侯爵は鼻で笑った。「だが、それが役所というものだ。急いで通した条文には、必ず粗が出る。時間をかけるのは、慎重さの証よ」
――潮目が変わったのは、その次の瞬間だった。エルナが静かに、一冊の綴りを卓に置いたのだ。表紙には、こう記されていた。『帝国旅費規程・宿泊上限に関する九十年間の実態記録』。ローデン侯の片眉が上がった。「……なんだ、それは」
「先の御前会議で、陛下より旅費規程の見直しを命じられました」カリナが答えた。「その下調べの記録です。……大臣。上限、三マルクは九十年変わっておりません。ですが、宿代は三倍になりました。この九十年、帝国じゅうの役人は、どうやって精算を通してきたとお思いですか」
綴りが開かれた。北の港町。南の温泉地。物価の高い帝都近郊。――どの精算書も、判で押したように『宿代、三マルク』。「……見事にそろっておるな」侯爵は、まだ笑っていた。「規程が守られておる証ではないか」「いいえ、大臣」ロッツェ卿が車椅子から静かに言った。「これは、九十年分の嘘の山です」
執務室の空気が変わった。「役人が四マルクの宿に泊まり、宿の主人に頼んで三マルクの領収書を書かせ、差額を自腹で払う。……それが、『奇跡の三マルク』の正体でございます。わしは五十年、それを知りながら見逃してきた。検査院の長として、恥ずべきことです」老検査官は深く頭を垂れた。「本日、ここでそれを申し上げます。……この九十年の嘘は、規程が実情から離れたときに何が起こるかの、生きた見本です」
ローデン侯の顔から、笑いが消えていた。「……つまり、貴公らは、こう言いたいわけか。時間をかければ慎重になるのではない。時間をかけすぎれば、規程は実情から離れ、正直者に嘘を書かせる、と」「その通りです」エルナがうなずいた。「三年前、王国も同じ病にかかっておりました。世界を救った勇者が、期限切れの一言で報酬を失いかけました。……病の名は、『規程を直さないこと』です」
「そして、大臣」カリナが続けた。「共通帳簿の七十四条も、まったく同じ道をたどります。半年寝かせれば、実情から離れます。国境の取引は待ってくれません。今日も明日も、どこかの村で番号を持たぬ誰かが、証明できずに泣いている。……九十年後、誰かが、この七十四条について、こう言うかもしれません。『なぜ、あのとき通さなかったのか』と」
「――一つ、申し上げてもよろしいですか」テオが進み出た。「僕は勇者です。書類のことは、まだよくわかりません。ですが、先日、この帝都の外れで、四十年連れ添ったご夫婦の話を聞きました。番号がなかったせいで、その方は書類の上では、ご主人の妻ですらなかった。……大臣。半年待つというのは、あの方のような人が、もう半年待たされるということです。数字の上の半年ではなく、誰かの暮らしの半年です」その若い、まっすぐな声に、ローデン侯は初めてまともにテオを見た。「……勇者どのは、剣より言葉が鋭いと聞いていたが。噂に違わぬ」
長い沈黙があった。ローデン侯は、九十年分の精算書を一枚ずつめくっていた。ぴったり三マルク。ぴったり三マルク。ぴったり三マルク。……その無数のそろった数字の裏に、九十年分の役人と宿の主人の小さなため息が、透けて見えるようだった。
「――わしは政治家だ」侯爵がようやく口を開いた。「実務はわからん。だが、一つだけわかることがある。……この九十年の嘘が明るみに出たとき、責めを負うのは、当代の財務大臣、つまり、わしだ」彼は綴りを閉じた。「そうであろう? 貴公ら、それを承知で、これをわしの机に置いた」
「脅しではございません」エルナは静かに答えた。「取り引きです。旅費規程の見直しは、陛下の勅命により、すでに動いております。九十年の実態は、いずれ必ず明るみに出ます。……そのとき、大臣。あなたは、どちらの名で記録に残りたいですか。『九十年の嘘を暴かれた大臣』か、それとも――『九十年の嘘を正し、二百年ぶりに新しい条文を通した大臣』か」
ローデン侯は、しばし天井を仰いだ。それから、突然、腹を抱えて笑い出した。「はっはっは! ……なるほど、なるほど。財務官という生き物は、剣も持たずに大臣を追い詰めるか」笑いを収め、彼は羽根ペンを取った。「よかろう。第一条の二、専決で通す。ついでに、旅費規程の上限も実勢に合わせて改める。……どうせ恥をかくなら、直した側でかきたいものだ」
大臣の署名が入った。二百年、触れられなかった第一条の隣に、新しい一条が静かに置かれた瞬間だった。執務室を出た廊下で、カリナがへたりこむように壁にもたれた。「……足が震えております」「わたしもです」エルナも白状した。「二人とも、いい顔だ」ライルが笑った。「――剣を抜かずに、山を越えたな」世界で一番地味な二度目の冒険は、九十年の嘘を鍵にして、二百年の扉を開けたのだった。




