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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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94/110

第94話 だが、帝国本省は言った。「前例がありません」

『前例がございません』――たった一行の書状は、四十日の成果を宙に浮かせた。


 その日のうちに、一行は第一局へ押しかけた。応対したのは、あの筆頭官吏である。感謝金のときには、味方になってくれた老官吏だ。だが、その顔は渋かった。「――誤解のなきよう。わしは、この七十四条を否定してはおらん。むしろ、見事な出来だと思っておる。……だが、通せぬのだ」


「なぜです」カリナが詰め寄った。「試験も通りました。検査院も監査も、不備なしと」「そこではない」筆頭官吏は、一枚の規程集を開いた。「帝国の財務規程、第一条。『帝国の帳簿は、帝国の様式による』。……此度の二国基準は、帝国の様式ではない。新しい様式だ。つまり、これを通すには、財務規程、第一条そのものを書き換えねばならん。二百年、一度も触れられたことのない第一条をな」


 会議室が凍りついた。ヴァロが青ざめる。「……第一条。帝国財務の大黒柱ではないですか」「そうだ」筆頭官吏はうなずいた。「そして、第一条の改正には、財務大臣の承認と御前会議の再議決が要る。……先の御前会議は、もう終わった。次の御前会議は半年後だ」


「半年……」ライルがうめいた。使節団の滞在期限は、とうに迫っている。半年、帝都に留まることなどできるはずもない。「――つまり、こういうことですか」テオが震える声で尋ねた。「僕たちが四十日かけて作ったものは、半年間、棚に上げられて……そのあいだに忘れられていく?」


「忘れられはせん。だが」筆頭官吏は正直に言った。「棚上げになった案が、半年後、そのまま通ることはまずない。担当が替わり、熱が冷め、細部への疑義が湧く。……わしは四十年、そうやって消えていった良案を何十と見てきた」


「――なら、こう聞かせてくれ」ライルが静かに言った。「あんた自身は、この七十四条を通したいのか。それとも、通したくないのか」筆頭官吏は、しばし目を伏せ、それから正直に答えた。「……通したい。心から。あの国境の村の書状の束を読んで以来、わしはずっと考えておった。二百年、この財務省は村々の声を取りこぼしてきた。その償いが、この七十四条だと。……だが、通したいという気持ちだけでは、規程は動かん。それが、この椅子の重さだ」その言葉に、エルナは静かにうなずいた。敵ではない。同じ山を前に立ちすくんでいる味方だ。ならば――道を探すのは、こちらの仕事である。


 重い沈黙が落ちた。剣なら斬れる。だが、これは二百年の条文である。誰の悪意でもない。ただ、そこに動かぬ山として在るだけだ。「……勝ち目は」ライルが低く尋ねた。エルナは、しばらく規程集を見つめ、それから静かに答えた。「ございません。ですが――勝ち筋なら、あるかもしれません」


 その言い回しに、ライルの目が光った。三年前、地下二階で聞いた、あの言葉と同じだった。「――聞かせてくれ」「第一条は、『帝国の帳簿は、帝国の様式による』と定めています」エルナは、規程集の一行を指した。「では、お尋ねします。此度の二国基準は――『帝国の帳簿』でしょうか」


 筆頭官吏が、はっと顔を上げた。「……なんだと」「二国基準で記録するのは、国境を越えた取引だけです。帝国の国内取引は、これまで通り帝国式。王国の国内取引は王国式。二国基準は、そのあいだ――どちらの国の帳簿にも、まだ入っていない取引を受け止める器です」エルナは続けた。「つまり、これは『帝国の帳簿』の様式を変えるものではありません。『どちらの国の帳簿にも載らずに、こぼれていた取引』のための新しい器を作る話です。……第一条は、一文字も触れずに済みます」


「――屁理屈だ」筆頭官吏がうなった。だが、その声には怒りではなく、感嘆が混ざっていた。「見事な屁理屈だ。しかし……いや、待て」老官吏は規程集をめくりはじめた。「そうだ。第一条には、確かに『帝国の帳簿』としか書いておらん。二百年、国境を越えた取引の帳簿など想定されていなかったからだ。……穴がある」


「穴ではありません」カリナが静かに言った。「余白です。二百年前の方々が書かなかった余白。……そこに、わたくしたちが書き足すのです。第一条を壊すのではなく、その隣に第一条の二を置く。『国境を越えた取引の帳簿は、両国の合意による様式による』。――たった一条、加えるだけ。改正ではなく、追加です。追加なら、大臣の専決で通せます。御前会議を待つ必要はございません」


 筆頭官吏は、長い、長い沈黙のあと、深く息を吐いた。「……四十年、この第一条を触れてはならぬ聖域だと思うてきた。だが、お前さん方は、触れずに隣に増やすと言う」老官吏は初めて笑った。「――いいだろう。大臣には、わしから上げる。ただし、一つ条件がある」「なんでしょう」「第一条の二の条文案。あの二人の署名の入った七十四条の末尾に、そのまま書き足せ。……二百年後の役人に見せてやりたいのだ。この条文が、どこの誰の手で生まれたかをな」


 その夜、エルナとカリナは、もう一度並んで机に向かった。七十四条の末尾に加える、たった一条。二百年の聖域の隣に、そっと置かれる新しい一行。「――これが通れば」カリナが羽根ペンを握りながらつぶやいた。「帝国は二百年で初めて、『他国と決めた様式』を認めることになります。……大臣がうなずくかどうか」「うなずかせましょう」エルナは静かに微笑んだ。「わたしたちには、まだ切り札が残っております。――九十年の『三マルク』を暴いた、あの記録が」世界で一番地味な二度目の冒険は、二百年の聖域を壊さずに越えるための、最後の一手を打とうとしていた。


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