第92話 エルナとカリナ、徹夜の共同作業。二人の財務官が並んで机に向かう
共通帳簿の最終案の提出期限は、三日後に迫っていた。残されたのは、いちばん面倒な仕事――ここまでの四十日で決まった、すべての取り決めを一つの条文集にまとめ上げる作業である。
「――手分けはしません」エルナが宣言した。「条文は、一人の頭の中でつながっていなければ、必ず矛盾が出ます。二人で一条ずつ突き合わせながら書きます」「望むところです」カリナも袖をまくった。こうして、会議室の一室で、二人の財務官の徹夜の共同作業が始まった。
初日の夜。作業は、驚くほどはかどらなかった。同じ意味の条文を書こうとして、まず書き出しで詰まるのだ。王国式なら『――することができる』。帝国式なら『――するものとする』。「王国の書き方は、ゆるすぎます」「帝国の書き方は、逃げ道がありません」――二人は、一条目の語尾で二刻争った。
見かねたヴァロが、そっと差し入れの茶を置いていった。「……お二人とも。語尾で争っておられますが、それは本当は、『誰に判断を委ねるか』の争いです。『できる』は現場に委ねる。『するものとする』は本省が決める。……そう書き直せば、争点が見えるのでは」二人は、はっと顔を見合わせた。「……ヴァロ様。あなたは時々、恐ろしいことをおっしゃいます」「書式ばかり二十年、見てまいりましたので」
二日目の夜。作業は軌道に乗った。現場の判断に委ねるべき条は『できる』。国としてそろえるべき条は『するものとする』。その仕分けが決まると、条文はするすると形になりはじめた。深夜、ふとカリナが手を止めた。「……エルナ様。一つ、伺っても」「なんでしょう」「あなたは、どうしてそこまでなさるのですか。此度の旅は、本来、討伐報酬の後始末だけで済むはずでした。共通帳簿も、番号のない民の条文も、王国には何の得もありません」
エルナは羽根ペンを置き、しばらく蝋燭の炎を見ていた。「……わたしは孤児でした」静かに語りはじめる。「身寄りをなくして、行き場のなかったわたしを、王国の財務課が拾ってくれました。読み書きと計算を教えてくれた。……つまり、わたしは規程に拾われて生きてきた人間なのです。だから、規程が誰かをこぼすたびに思うのです。あの日、規程がわたしをこぼしていたら、と」
カリナは息をのんだ。「……わたくしと同じですね。わたくしは規程に村を奪われて。あなたは規程に命を拾われて。同じ規程に、まるで逆のものをもらった」「ええ。ですが、たどり着いたのは同じ場所です」エルナは微笑んだ。「規程は人をこぼす。だから、直し続けねばならない。……あなたとわたしは、たぶん同じことを違う痛みから学んだのです」
夜半、差し入れを持ってきたセリカとミラが、机の上の光景に目を丸くした。二人の財務官は、頭を突き合わせるようにして一枚の紙をのぞき込み、同時に同じ箇所を指さして、同時に同じことを言っていた。「「――ここ、第四十条と矛盾します」」「……息がぴったりね」セリカが小声でミラに囁いた。「三年前、エルナさんがライルの十七枚を埋めていたときと同じ顔をしてる」ミラは静かに微笑んだ。「規程を人のために使う人の顔ですね。……あのお顔が、一人から二人に増えました。世界は、そうやって変わっていくのでしょう」
三日目の朝。窓の外が白みはじめたころ、二人は最後の条文を書き上げた。全七十四条。共通帳簿『二国基準』。骨組みは六つの問い。証明の付録には、判子、個人番号、焼き印、宿帳、そして支払証明書。番号を持たぬ者の条文も、第六十二条として確かにそこにあった。
「――できました」カリナが震える手で、最後の一枚を置いた。二人の手はインクで真っ黒だった。三年前、ライルが十七枚の様式を書き上げた、あの朝と同じ汚れ方だった。「……不思議です」カリナがつぶやいた。「四十日前、わたくしはあなたを、『王国式のどんぶり勘定』と呼びました。今は、あなたと同じ机で同じ条文を書いている」
「わたしも、あなたを最強の好敵手だと思っておりました」エルナは笑った。「今は、この七十四条を、あなた以外の誰と書きたいとも思いません。……カリナ様。一つお願いがあります。この条文集の末尾に、二人の名を並べて記させてください。王国財務課、エルナ。帝国国境経理局、カリナ・ヴェルト。……どちらが上でも下でもなく、並べて」
カリナの目が潤んだ。「――喜んで」二人は並んで署名をした。朝日が窓から差し込み、インクのまだ乾かない紙を照らしていた。扉が開き、様子を見に来たライルが、その光景に立ち止まった。並んだ二つの署名。ぼろぼろの二人の財務官。そして、七十四条の条文集。「……終わったのか」「はい」二人は同時に答え、それから顔を見合わせて笑った。
「たいしたもんだ」ライルは心から言った。「三年前、俺の十七枚を一緒に埋めてくれたあんたが、今度は国と国の七十四条を書き上げた。……エルナさん。あんた、ずいぶん遠くまで来たな」「ライル様のおかげです」エルナは静かに答えた。「あの日、あなたが地下二階に来なければ。わたしは今も、机の上だけの財務官でした」――世界で一番地味な二度目の冒険は、二人の財務官の徹夜と、インクまみれの手で、その最大の成果を生み落としたのだった。




