第91話 帝国の現場にも、いた。決まりの隙間で、泣いている人が
翌朝、カリナは制服ではなく、地味な旅装で迎賓館に現れた。「――帝都の外れへ参ります。番号を持たぬ民が集まる区画があると聞きました」同行を申し出たのは、エルナ、ミラ、そしてクロウだった。「人の暮らしを見るなら、盗賊あがりがいちばん役に立つぜ」とクロウは笑った。
帝都の外れ。整然とした石畳が途切れた、その先に、その区画はあった。傾いた木造の家々。番号札のない扉。行き交う人々の目は、どこか伏せられている。「……こんな場所が」カリナは立ちすくんだ。「わたくしは二年、帝都に住んで――この区画の存在すら知りませんでした」
一軒の粗末な家の軒先で、老女が繕い物をしていた。ミラが、そっと声をかける。話を聞くうちに、その老女の事情が少しずつ見えてきた。夫は三年前に亡くなった。腕のいい指物師だったという。「……あの人の道具箱を売れば、しばらくは食べていけると思ったんですけどねえ」老女は力なく笑った。「役所に行ったら言われました。『この道具箱が、亡きご主人の持ち物だと証明する書類はありますか』って」
「――ご主人の個人番号は」カリナが尋ねると、老女は首を振った。「あの人は若い頃、流れの職人でしてね。番号をもらう手続きをしないまま、この区画に流れ着いて。……番号がないから、婚姻の届も出せなかった。だから、わたしは書類の上では、あの人の妻ですらないんですよ」その言葉に、カリナの顔から血の気が引いた。
「四十年、連れ添ったんです」老女は繕い物の手を止めた。「毎朝、あの人の道具を拭いて送り出しました。仕事から帰れば、削り屑まみれの背中をはたいてやった。……四十年ですよ。それが、紙が一枚もないってだけで、『無関係の他人』なんだそうです」
クロウが、そっと屋内に目をやった。「……ばあさん。あの道具箱、見せてもらってもいいか」老女に案内された奥の部屋には、使い込まれた道具箱が大切に置かれていた。クロウは鑿の柄を手に取り、じっと見つめた。「……なあ、ばあさん。この柄の、この削り方。あんたが握りやすいように、削り直してあるな。指の幅が合ってる。旦那さん、あんたに道具の手入れを任せてたんだろ」「……ええ。刃を研ぐのは、わたしの役目でした」
クロウは顔を上げ、カリナを見た。「――財務官さん。あんたなら、どう証明する。この道具箱が四十年、このばあさんの手で手入れされてきたってことを」カリナは、しばし道具箱を見つめ、それから震える声で答えた。「……近所の方々です。四十年、この区画で暮らしてきたのなら、必ず見ていた隣人がいるはずです。利害のない第三者が。……昨日、わたくしが賛成した、あの仕組みで」
「ばあさん、一つ聞かせてくれ」クロウが静かに尋ねた。「役所の窓口じゃ、何て言われた」「『規程ですので』の一点張りでしたよ」老女は寂しそうに笑った。「あの若いお役人さんも、悪い人じゃなかった。困った顔をしてましたからね。……ただ、道がなかったんでしょう。決まりのどこにも、わたしみたいな者の通り道が書いてなかった」その一言に、カリナは胸を突かれた。窓口の役人を責めることはできない。責められるべきは――道を書かなかった規程を作る側。つまり、自分たちだ。
その日の午後、四人は区画を歩き回った。隣のパン屋。向かいの桶屋。井戸端の女たち。誰もが口をそろえた。「あの二人は、四十年一緒だったよ」――だが、証言の細部はみごとにばらばらだった。パン屋は、老女が毎朝、二人分のパンを買いに来たことを。桶屋は、指物師が酔うと女房自慢を始めたことを。井戸端の女たちは、老女が夫の仕事着を洗っていた川辺の場所を。……ばらばらなのに、芯だけがぴたりと合う。クロウの言った『本物の証言』が、そこにあった。
「……帝国の規程には、この仕組みがありません」カリナは、聞き取りを書き留めながら唇を噛んだ。「番号がなければ存在しない。存在しなければ証明もできない。……この区画の方々は、九十年の『三マルク』とは比べものにならない、大きな穴に落ちていた。わたくしは、それを二年、見ようとも、しなかった」
「見よう、としなかったのではありません」エルナが静かに言った。「見える場所にいなかっただけです。机の上には、番号のある人しか載りません。番号のない人は、帳簿にも統計にも現れない。……役人が現場に出なければ、永遠に会えない人たちです」「――だから、あなたは旅に出るのですね」カリナは深くうなずいた。「わかりました。わたくしも帰りましたら、局に掛け合います。番号のない民のための証明の仕組みを作ると」
帰り際、老女は四人を門口まで送りに出た。「役人さんが話を聞いてくれたのは、初めてですよ」しわだらけの手が、カリナの手を握った。「あの人の道具箱……売れなくてもいいんです。ただ、誰かに『あの人は、確かにいた』って言ってほしかった」カリナは、その手を両手で握り返した。「――いらっしゃいました。確かに。わたくしが記録に残します。必ず」
帝都へ戻る道すがら、カリナはずっと黙っていた。やがて、ぽつりと言った。「……エルナ様。共通帳簿の支払証明書。あの条文に、もう一つ加えたいのです。『番号や住所を持たぬ者の取引も、証言により証明できる』と。両国の共通の条文として。帝国の規程だけでは、何十年もかかります。ですが、二国間の取り決めなら来月にでも通せる」その目は澄んでいた。「――外圧を使います。自国の穴を塞ぐために。……ずるいやり方でしょうか」「いいえ」エルナは微笑んだ。「規程のいちばん賢い使い方です」世界で一番地味な二度目の冒険は、完璧な帝都の片隅で、四十年の暮らしを拾い上げたのだった。




