第83話 共通帳簿を作ろう。ただし、どちらの書式で?
御前会議は――結論から言えば、大勝利だった。
皇帝は玉座から、一つひとつの取り決めを静かに聞いた。討伐の正当性。国境の合同測量。感謝金。二重課税の原則。記録の書き分け。途中、強硬派の重臣が異を唱えかけたが、そのたびにヴァレン将軍が雷のような声で援護した。「軍務局は、この取り決めを支持する! 文句のある者は、あの駐屯記録を読んでから物を言え!」――そして、カリナの番が来た。九十年の『奇跡の三マルク』。彼女は震える声で、しかし一度も目をそらさずに、すべてを申し上げた。長い沈黙のあと、皇帝はこう言ったという。「――九十年、誰も朕に言わなかったことを、そなたは言った。旅費規程、見直しを命じる。恥じるべきは、そなたではなく、九十年の沈黙のほうである」
そして、会議の締めくくりに、皇帝は思いもよらぬ勅命を下した。「――此度の取り決め、紙一枚の約束で終わらせてはならぬ。両国の役人が末永く、同じ記録を読み合えるように――王国と帝国、共通の帳簿の仕組みを作れ」
かくして、翌日から財務省の大会議室に、両国の実務者が集められた。世に言う――そして、のちに両国の役人たちが震えながら語り継ぐことになる――『規格戦争』の幕開けである。
「共通帳簿。結構なお話です」口火を切ったのは、帝国の主計局長だった。ガランと四十八通をやり合った、あの老人である。「では、当然、書式は帝国式を基本といたしますな。両面記入、個人番号、複式簿記。二百年磨き上げた、世界一精緻な書式です」
「お待ちください」ヴァロがすかさず手を挙げた。「王国式にも二百年の歴史がございます。片面一枚、判と屋号、そして但し書きの自由な余白。誰にでも書けるやさしさこそ、帳簿の命です。字の苦手な宿の主人も、山の薬師も書けるのが王国式。共通帳簿の基本は、王国式であるべきです」
「やさしさとは、聞こえは良いが」主計局長が眼鏡を押し上げた。「要するに、あいまいさの別名ではないかな。『約三・五シルバー』などという記載を許す書式を、帝国の役人に使わせるわけにはいかん」「あいまいさではなく、正直さです」ヴァロも引かない。「書けないものを書けないと書ける。それが王国式の強さです。ぴったり三マルクの領収書が九十年積み上がる書式より、よほど実情を映します」――その一言は効いた。主計局長の眉が、ぴくりと動いた。「……痛いところを突く」
「そもそも、論の進め方から決めるべきです」ザイデルが口を挟んだ。「一項ずつ双方の書式を並べ、目的を確かめ、どちらがその目的に適うかを検める。感情論はなし。前例自慢もなし。……よろしいか」「異存ない」主計局長がうなずき、ロッツェ卿が車椅子の上から付け加えた。「わしが審判役を務めよう。五十年、両方の書式の粗を見てきた。ひいきはせん。――どちらの書式にも、言いたいことは山ほどあるのでな」その一言で、両陣営の背筋が同時に伸びた。敵に回すと、これほど恐ろしい審判もいない。
論戦は白熱した。日付の書き方一つで半刻。『三の月、四日』か、『第三月四日』か。数字の字体で、また半刻。判子か個人番号かで一刻。金額の位取りの点の打ち方で、さらに半刻。テオは途中から目を回し、クロウは腕を組んだまま、器用に居眠りを始めた。「――なあ、ライル」目を覚ましたクロウが小声で聞いた。「これ、いつ終わるんだ」「わからん。だが、見ろ」ライルは卓の中央を目で指した。「あの二人がいる限り、悪いようにはならん」
卓の中央では、エルナとカリナが並んで座っていた。二人は、もはや王国側と帝国側ではなかった。双方の主張を書き取り、論点を仕分け、感情的になりかけた議論を事実の土俵に引き戻す。「――今の論点は、『点の打ち方』ではなく、『読み間違いをどう防ぐか』です。目的に戻りましょう」カリナが言えば、「帝国式の両面記入のうち、裏面の『根拠』の欄は、王国式の『但し書き』と役割が同じです。名前が違うだけで、中身は重なります」とエルナが続ける。二人の財務官は、まるで長年組んできた相棒のように息が合っていた。
それでも、夕刻までにまとまったのは、『日付の書き方』、ただ一項だけだった。両国の暦の呼び名を併記し、数字は双方が読み間違えない字体にそろえる。たったそれだけのことに丸一日。会議室を出たテオが、ぐったりとつぶやいた。「……魔獣討伐が三日。日付の取り決めが一日。この調子だと、帳簿一冊分の取り決めに何年かかるんでしょう」
「三年前にも、同じことを言った奴がいたよ」ライルが笑った。「『一軒で半日なら、魔王城まで何年かかるんだ』ってな。……でも、終わったんだ、あの旅は。一枚ずつ集めていったら、いつのまにかな。今度も同じさ。一項ずつ決めていけば、いつか終わる」
その夜、エルナとカリナは会議室に残って、この日の論点を整理していた。「……エルナ様。正直に申し上げます」カリナが、ふと手を止めた。「わたくし、今日の議論、途中から少し楽しくなってしまいました。九十年の規程の恥を暴いたばかりの身で、不謹慎かもしれませんが――二つの国のいちばん良いところを、一枚の紙の上で出し合う。こんな仕事が世の中にあるのですね」
「不謹慎ではありません」エルナは静かに微笑んだ。「それは、たぶん、この仕事のいちばん幸せな瞬間です。決まりを盾に争うのではなく、決まりを机に広げて一緒に作る。……三年前のわたしには、想像もつかなかった景色です」二人の財務官の机の上には、王国式と帝国式、二枚の帳簿が仲良く並んでいた。まだ一枚にはなっていない。だが、そのあいだの距離は確かに縮まりはじめていた。世界で一番地味な二度目の冒険の第三の戦い――規格戦争は、こうして静かに火ぶたを切ったのだった。武器は羽根ペン。戦場は会議室。そして、勝利のかたちは、どちらかが倒れることではなく、二つの書式が一枚の紙の上で手を結ぶこと。世にも珍しい、誰も負けないための戦争である。




