第82話 皇帝への謁見。玉座の間の前に、やっぱり財務局があった
謁見の日は晴れた。帝国宮殿は、財務省の庁舎など比べものにならぬ威容だった。白い大理石の大階段が、玉座の間へとまっすぐに伸びている。正装に身を包んだ一行は、その階段を上りはじめた。いよいよ皇帝陛下への謁見。そして、御前会議である。
「――王国使節団の皆様でいらっしゃいますね」階段の途中で、式部の係官が恭しく頭を下げた。「陛下がお待ちです。ですが、その前に、お通しいただきたい場所がございまして」
ライルの足がぴたりと止まった。「……ちょっと待ってくれ。その台詞、聞いたことがある」彼は恐る恐る尋ねた。「その場所ってのは……上か? 下か?」「地下一階にございます。宮内財務局です」
一行はそろって天を仰いだ。クロウが、こらえきれずに吹き出した。「――国が違っても同じかよ! 玉座の前に、まず帳簿!」「三年前の王城と寸分違わぬ流れです」ヴァロが感慨深げにうなずき、セリカは、もう肩を震わせて笑っていた。テオだけがきょとんとしている。「あの、これって、そんなにおかしいことなんですか」「おかしくはない。むしろ正しい」ライルは笑いを噛み殺して答えた。「――どこの国でも、玉座ってのは帳簿の上に載ってるのさ。三年前の俺は、それを知らなかった。今は知ってる。それだけの違いだ」
地下一階の宮内財務局は、王国の地下二階よりいくぶん明るかったが、積まれた書類の山は万国共通だった。局の係官が事務的に告げた。「謁見の前に、三つの手続きがございます。一つ、ご滞在費の精算確認。二つ、陛下への贈り物の目録の申告。三つ、玉座の間への持ち込み品の届け出。……恐れながら、他国の使節の皆様には、これがなかなかの難物でして。通常、半日はかかります」
「半日ですか」エルナが静かに袖をまくった。「――やってみましょう。皆さん、いつもの通りに」その一言で、一行が一斉に動いた。ヴァロが、滞在費の記録の束を日付順に卓へ並べる。メルツが、両替の記録と税の区分を添える。ザイデルが一枚ずつ突き合わせ、不備がないかを検める。エルナが帝国式の両面書式によどみなく清書し、カリナが帝国側の規程との整合を確かめていく。テオとクロウとセリカとミラは、書類を運び、そろえ、判を押す係だ。十人、二十本の手が、まるで一つの生き物のように回った。
係官は、その光景をぽかんと見ていた。積まれていた書類の山がみるみる片づいていく。「こ、こんなに速い精算確認は見たことが……しかも、一枚の不備もない。皆様、いったい何者で」「経費で鍛えられた使節団です」ライルが真顔で答えた。半日と言われた手続きは、一刻半で終わった。
最後に残ったのは、持ち込み品の届け出だった。「玉座の間への武器の持ち込みは禁じられております。お腰の剣は、こちらでお預かりを」係官の言葉に、ライルは迷いなく聖剣を鞘ごと外した。三年前なら、ひと悶着あったかもしれない。だが、今の彼は知っている。決まりは、皇帝を守るためだけでなく、預けた剣を確かに返してもらうためにもあるのだと。
係官は聖剣を受け取り、柄の小さなシールに目を留めた。『王国備品 No.0001』。透明な膜で大切に守られた、あのシールである。「――これは見事な資産管理ですな。備品番号に保護の膜まで。お預かりの札も、この番号で起こせば、取り違えの恐れがない」係官は感心しきりで、預かり札に丁寧に書き写した。『王国備品 No.0001、聖剣一振り、確かにお預かり』。トビアスが、この場にいたら、涙を流して喜んだだろう。
贈り物の目録の申告では、小さな騒ぎがあった。王からの親書と贈り物にまじって、荷の底から見覚えのない小箱が出てきたのだ。「――なんだ、これは。目録にない」ザイデルが目を光らせる。開けてみると、中には素朴な木彫りのしるしと一枚の紙。『帝国の皇帝様へ。火竜の里より。物々交換の里にも、平和が届きました。感謝のしるしです』。あの里の店主が、王都経由の荷にこっそり忍ばせたものらしかった。「……目録にない贈り物は、規程ではお預かりになりますが」係官は、その紙を読み、しばし黙り、それから静かに目録の末尾に一行を書き足した。「『民よりの感謝の品、一点』。……これで、規程上も陛下にお渡しできます」堅い決まりの中に、小さな温かさを通す。その手つきに、エルナとカリナは思わず顔を見合わせて微笑んだ。
手続きのあいまに、係官がふと尋ねてきた。「……失礼ながら、皆様は不思議な方々ですね。他国の使節の方々は、たいてい、この手続きに腹を立てられます。『皇帝に会うのに、なぜ帳簿の確認が要るのか』と。ですが、皆様は誰一人、嫌な顔をなさらない」
「昔は、俺も腹を立てた側だった」ライルは笑った。「世界を救ったのに、なぜ紙きれが要るのかってな。……でも、今はわかる。この一枚一枚が、誰かの仕事を守り、誰かの正直さを証明してる。あんたが、いま俺の剣に番号の札をつけてくれたのも、そうだ。おかげで俺は、安心して丸腰で陛下の前に立てる。――手続きってのは、面倒の別名じゃない。信用の別名なんだ」
係官は、その言葉をしばし噛みしめ、深々と頭を下げた。「……この局で二十年働いて、初めてそのように言っていただきました」その目が、わずかに潤んでいた。玉座の前の帳簿を預かる者の誇りが、国境を越えて認められた瞬間だった。
すべての判がそろい、係官は最後の書類に局の印を押した。「――お手続き、完了でございます。カリナ様、恐れながら、御前会議の議題の追加も承っております。『旅費規程の九十年ぶりの見直しについて』……勇気ある議題と存じます」カリナは背筋を伸ばし、静かにうなずいた。その手には、ロッツェ卿から託された九十年分の記録の写しが、しっかりと抱えられていた。
大階段を上り直し、一行は玉座の間の大扉の前に立った。扉の向こうには、皇帝と居並ぶ重臣たち。討伐の決着、国境の取り決め、感謝金、そして九十年の規程の見直し。すべての旅の実りを携えて。「――行こう」ライルの声に、皆がうなずいた。重い扉がゆっくりと開きはじめる。世界で一番地味な二度目の冒険は、ついにその最後の大舞台へと足を踏み入れた。




