第81話 カリナ、自国の規程の穴に、気づいてしまう
帝都に戻ったカリナは、その足で会計検査院を訪ねた。胸の奥で芽を出した、あの疑問――『上限、三マルクは、いつ、誰が定めた数字なのか』が、どうしても消えなかったのだ。応対したロッツェ卿は、その問いを聞くと、車椅子の上で長い、長いため息をついた。
「――ついに、そこに気づく者が出たか」老検査官は、書庫の奥から一冊の古い綴りを出させた。「宿泊上限、三マルク。定められたのは九十年前だ。当時の三マルクは、上等な宿に泊まって、夕餉と朝餉がついた。……だが、九十年で物の値段は三倍以上になった。規程の数字だけが、そのまま残った」
「なぜ、誰も直さなかったのですか」「直せなかったのだ」ロッツェは静かに言った。「帝国の規程は、完璧であらねばならん。完璧なものは直す必要がない。直すと言い出すことは、『規程は完璧ではなかった』と認めることになる。……誰も、その口火を切れなかった。九十年、な」
「では――地方へ出る役人たちは、この九十年、どうやって」カリナの問いに、ロッツェは答える代わりに、一束の書類を卓に置いた。全国の旅費精算の記録の写しだった。「お前さんの目で確かめるがいい。検査官の目で、な」
カリナは一枚ずつめくりはじめた。そして、すぐに気づいた。――おかしい。どの精算書も、宿代がぴったり三マルクなのだ。北の港町でも、南の温泉地でも、物価の高い帝都の近郊でも。まるで帝国じゅうの宿が申し合わせたように、三マルク。「……そんなはずがありません。わたくしは先日、実際に旅をしました。三マルクで泊まれる宿など、どこにも」
「その通り。存在せん」ロッツェはうなずいた。「種明かしは、こうだ。役人が四マルクの宿に泊まる。宿の主人に頼み込んで、『三マルク』の領収書を書いてもらう。差額の一マルクは、役人の自腹。……これが、九十年、帝国じゅうで行われてきた、『奇跡の三マルク』の正体だ。宿は嘘の領収書を書き、役人は嘘の精算を出し、検査院は――それを知りながら通してきた。数字の上では完璧だからな」
カリナは言葉を失った。膝の上の手が白くなるほど、握りしめられていた。「……嘘の領収書。嘘の精算。それを、この帝国が九十年も」彼女の声が震えた。「わたくしは……あいまいな記録が憎くて、この道に入りました。正確な記録だけが人を守ると信じて。なのに――帝国の規程そのものが、帝国じゅうの正直な役人と宿の主人に、九十年、嘘を書かせ続けていたというのですか」
「そうだ」ロッツェは目をそらさなかった。「そして、わしもその共犯だ。五十年、検査官を務めて、このからくりを知らぬはずがない。だが、わしが正せば、九十年分の『三マルクの領収書』がすべて不正の記録に変わる。正直に生きてきた役人たちが罪人になる。……だから、見て見ぬふりをした。それが、わしの言った『五十年で二番目』の意味よ。わしの検査は一番にはなれん。自分の足元の嘘を見逃しておるのだからな」
重い沈黙が落ちた。カリナは、ふと、あの火のそばでの会話を思い出していた。厳格すぎる規程は、人に無理を強いる。無理は隠れる。隠れた無理は、いつか嘘になる。……あの宿帳の女将。十年、休まなかったあの人も、もしかすると、休んだ日の記録を埋めるために、小さな嘘を書いた夜があったのではないか。完璧を求める仕組みこそが、嘘の母になる。それは、彼女の信じてきた世界が音を立てて裏返る気づきだった。
「一つ、聞かせてください、ロッツェ卿」カリナは震えを抑えて尋ねた。「なぜ今、これをわたくしに見せたのですか。五十年、見て見ぬふりをなさったものを」老検査官は、しばし黙り、それから窓の外の整然とした帝都を見やった。「――お前さんが変わったからだ。国境から戻ったお前さんの書く報告書には、数字の裏の人の顔が書かれるようになった。……九十年の嘘を終わらせるには、規程の正しさと人の痛みの両方がわかる者が要る。わしには、もう時間がない。だから託す。それだけのことよ」その言葉は、遺言のように静かで重かった。
その晩、カリナは迎賓館に一行を訪ね、すべてを打ち明けた。聞き終えたエルナは静かに言った。「――打ち明けてくださったこと、まず、それが何よりの一歩です」「ですが、エルナ様。これは、王国との協議とは関わりのない帝国の恥です。なぜ、わたくしはこれを、あなた方に……」「関わりはあります」エルナはまっすぐに答えた。「わたしたちの覚書には、両国の役人の往来の旅費の定めも含まれます。帝国の上限が実情と合わぬままなら、王国の役人も、いずれ同じ嘘を書かされる。……それに」
エルナは少し間を置いて続けた。「三年前、王国も同じでした。決まりが実情に合わず、正直者が泣く。わたしたちは、それを一つずつ直してきました。特例の承認。上限の例外規定。三枚に減った精算書。……決まりは、完璧だから尊いのではありません。直せるから尊いのです。カリナ様。あなたは九十年、誰も切れなかった口火を切れる立場にいる。しかも今は――御前会議という、またとない場が目の前にあります」
「御前会議で……わたくしが帝国の規程の不備を申し上げるのですか」カリナの顔が青ざめた。「前例がありません。地方あがりの一財務官が、皇帝陛下の御前で九十年の規程を否定するなど」「前例なら、ここに一人おりますよ」ライルが、にっと笑って、親指で自分を指した。「三年前、王様の御前で経費精算の正当性を訴えた馬鹿がな。……大丈夫だ。あのとき、俺の後ろにも仲間がいた。今度は、あんたの後ろに俺たちがいる」
カリナは一同の顔を順に見渡した。ライル。エルナ。テオ。クロウ、セリカ、ミラ。ザイデル、メルツ、ヴァロ。かつて書状一枚で切り伏せようとした相手が、今、自分の背中を押してくれている。「……わかりました」彼女は深く息を吸い、顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。「九十年分の『奇跡の三マルク』に終止符を打ちます。正直な役人が正直な数字を書ける帝国にするために。――御前会議で申し上げます」世界で一番地味な二度目の冒険は、いよいよ、その最大の舞台、皇帝の御前へと歩みを進める。




