第80話 帝国の宿泊上限は、王国より安かった。野宿の危機、再び
御前会議を前に、一行には一つ片づけておくべき用があった。両国合同の測量隊の下見である。あの双子岩と石碑のあたりをあらためて検め、測量の段取りを決めておく。カリナも帝国側の責任者として、同行することになった。帝都から馬車で二日の小さな遠出だった。
問題は、初日の夕暮れに起きた。宿場町に着き、いつものように宿を取ろうとしたところで、カリナがぴたりと立ち止まったのだ。「――皆様は、どうぞこちらの宿へ。わたくしは別の場所を探します」「別の場所? この町、宿はここ一軒だぜ」クロウが怪訝な顔をすると、カリナは生真面目に答えた。「この宿、一泊四マルク。帝国の旅費規程の宿泊上限は――三マルクです。一マルク超えております。よって、わたくしは泊まれません」
一行は顔を見合わせた。「……なんだか、聞き覚えのある話だな」ライルが遠い目をした。三年前、黒霧の宿。上限、金貨一枚の規程と金貨三枚の宿。あのときとそっくり同じ壁が――今度は帝国側に立ちはだかっていた。しかも、聞けば帝国の上限は、王国のそれよりさらに安いという。「帝国は、質素倹約が国是ですので」とカリナは、こともなげに言った。
「なら、例外規定はどうです」エルナがすぐさま応じた。「王国にはございます。『当該地域に上限額以下の宿泊施設が存在しない場合、実費を認める』。三年前、わたしたちを救ってくれた条文です。帝国の規程にも、同じものが」カリナは首を振った。「――ございません。帝国の旅費規程に例外条項は一切ありません。例外は悪用の温床、というのが帝国の考え方ですので。上限を超える宿しかなければ、答えは一つ。……野宿です」
「や、野宿って、あんた」テオが慌てた。「もう日が暮れます。それに、このあたり、夜は冷えますよ」「規程ですので」カリナは平然と荷物から薄い外套を取り出した。「ご心配なく。野宿ならば、宿泊費はゼロ。上限の問題はきれいに消えます。むしろ、帳簿は美しくなります」「帳簿の美しさと引き換えに、あんたが風邪をひくだろうが!」ライルの突っ込みも、どこ吹く風である。この生真面目さは、もはやあっぱれだった。
「――わかった。なら、こうしよう」ライルは腹を決めた。「全員で野宿だ」「「「え」」」「三年前もさんざんやった。道具もある。カリナ殿一人を外に寝かせて、俺たちだけ屋根の下ってのは寝覚めが悪い。それに――」彼は、にっと笑った。「野宿ってのは、存外悪くないんだ。なあ、みんな」セリカが笑ってうなずき、ミラが静かに微笑み、クロウが、「しゃあねえな」と荷を担ぎ直した。カリナだけが目を丸くしていた。「そ、そんな。皆様まで規程にお付き合いいただく道理は」「道理じゃない。仲間の流儀だ」
町はずれの野原に、火がおこされた。手際よく石を組むのはテオ。薪を集めるのはクロウ。セリカが鍋をかけ、ミラが水を汲む。そして――エルナが椀を並べ、川で鍋の下ごしらえを済ませて戻ってきた。「……エルナ様、慣れておられるのですね」カリナが驚くと、エルナは少し誇らしげに答えた。「初めての野宿では、鍋を川に流しました。二度目からは流しておりません」「進歩が地味!」セリカの突っ込みに、輪がどっと沸いた。
「野宿といえば」ザイデルが火のそばで、几帳面に書類を点検しながら言った。「言っておきますが、皆さん。野宿でも記録はつけます。『第〇日、宿泊費、支出なし。事由、上限超過につき、野営』。……こういう一行が、あとで上限の見直しの根拠になるのです。役人が規程のせいで野宿したという、動かぬ証拠ですからな」「あんた、転んでもただじゃ起きねえな」クロウが呆れ、メルツが大きくうなずいた。「さすがです、ザイデル殿。苦労は記録して、初めて財産になります」火を囲む役人たちのたくましさに、テオは思わず笑ってしまった。
クロウの煮込みが椀によそわれる。カリナは、おそるおそる一口すすり――目を見開いた。「……おいしい」「だろ?」クロウが得意げに笑う。「一日歩いたあとの飯ってのはな、城の晩餐よりうまいのさ」火を囲む輪の中で、話は自然とそれぞれの来し方に及んだ。セリカの形見の杖のこと。クロウの盗賊時代のこと。ミラの教会のこと。テオの初陣のこと。カリナは、その一つひとつに静かに耳を傾けていた。
「……わたくしの村の話もしましたね、いつか」カリナがぽつりと言った。「あいまいな記録につけ込まれて、村が食い物にされた話。……あのとき、わたくしは誓ったのです。完璧な規程と完璧な記録だけが、人を守るのだと。以来、規程の外のものを――こういう火の温かさや、椀の煮込みのようなものを信じずに生きてまいりました。数字にならないものは、いつか裏切ると思って」
彼女は椀を両手で包み、火を見つめた。「ですが……この旅でわかりました。数字にならないものが、数字を支えているのですね。あの灯火屋の宿帳の話。ドルフという薬師の証文の話。皆様が道々話してくださった、王国の旅の一つひとつ。……規程は、たしかに人を守ります。ですが、規程を作り、守り、直していくのは――こういう火を囲む人の心のほうなのだと」
「――ようこそ、こちら側へ」エルナが静かに椀を掲げた。「三年前、わたしも同じ火の前で同じことを思いました。あなたと同じように、規程しか信じられなかったわたしが、です」二人の財務官の椀が、こつん、と触れ合った。国境も規程も越えた、小さな乾杯だった。
夜が更けて、皆が寝静まったころ。カリナは一人、火の番をしながら手帳を開いていた。書きつけていたのは、経費の記録ではなかった。『野宿。煮込み、温かし。上限、三マルクの規程により、この夜を得たり。……されど、問う。この三マルクは、いつ、誰が、何のために定めた数字なのか』。書き終えて、彼女はふと手を止めた。五十年、いや、もっと前から変わっていないという、この上限。物の値段は上がり続けているのに。……この規程には、どこか大きな穴があるのではないか。その小さな疑問の種が、彼女の胸の奥で静かに芽を出そうとしていた。世界で一番地味な二度目の冒険は、一杯の煮込みと一つの疑問を火のそばに残して、夜を越えていく。




