第8話 宿泊費に上限があり、魔王城のそばの宿には泊まれない決まりだった
数日が過ぎ、精算作業は十三枚目――宿泊費の欄に入っていた。三か月の旅のあいだ、一行が泊まった宿の数は、ライルが覚えているだけでも三十を超える。安宿もあれば、ぼったくりのような宿もあった。雨風をしのげればそれでよく、値段など気にする余裕は、旅のあいだはほとんどなかった。
エルナは、その一軒一軒の宿泊費を、淡々と帳簿に書き写していった。順調に進んでいるかに見えたその手が、ふと、ある一行で止まった。旅の終盤、魔王城のすぐ手前――『黒霧の宿』という名の、最後の宿のところだった。
「ライル様。この『黒霧の宿』。一泊、金貨三枚と書かれていますが――間違いございませんか」
「ああ、間違いない。高かったよ、あそこは」ライルは苦い顔をした。「でも、仕方なかったんだ。魔王城の周りには、もうあの宿しかなくて。ほかは全部、魔物に襲われて潰れてた。泊まらなきゃ、野ざらしで魔王と戦うはめになってた」
「事情は、わかります」エルナはうなずいた。だが、その声には、いつになく重いものがあった。「ですが――王国の出張旅費の決まりでは、宿泊費の上限が、一泊あたり金貨一枚と定められております」
「……一枚?」
「はい。上限を超えた分は、原則として、自己負担。つまり、この宿の差額――金貨二枚は、勇者様ご自身の財布から、ということになります」
ライルは、言葉を失った。命がけで魔王城へ乗り込む、その前夜である。安全に休める場所が、もうそこにしかなかった。選ぶ余地などなかった。なのに、その「選べなかった一泊」の差額を、自分で払えと言う。決まりを作った人間は、きっと、魔王城の前夜がどんなものか、一度も想像したことがないのだろう。
「待ってくれよ」クロウが割って入った。「金貨一枚で泊まれる宿が、近くにあったのか? あったなら、俺たちだってそっちに泊まったさ。なかったんだよ。あの宿しか!」
「おっしゃる通りです」エルナは静かに言った。「ですが、決まりは『近くに安い宿があったか』を問いません。ただ『上限を超えたか』だけを問います。決まりとは、そういうものです。事情を、見ません」
「血の通ってない決まりだな……!」ライルは思わず机を叩いた。「じゃあ何か。決まりに従うなら、俺たちは魔王城の前で、雪の中、野宿しろってことか。万全じゃない体で魔王に挑んで、負けて、世界が滅んでも、それでも『宿泊費は守られた』ってか!?」
「……理屈の上では、そうなります」エルナは目を伏せた。彼女自身、その理屈のおかしさを、誰よりわかっているようだった。「決まりは、ときに、守るべきものを守れません。これは、その一例でございます」
ライルの脳裏に、あの夜の光景がよみがえった。『黒霧の宿』。魔王城を間近に望む、丘の上の古びた一軒宿。窓の外には、城から漏れる禍々しい光が、夜空を赤く染めていた。宿の主人は、震える声で言ったものだ。「お客さん方が、最後の客になるかもしれねえ。明日、城が片づかなきゃ、この宿も、明後日にゃ魔物の餌だ」と。値段が金貨三枚だったのは、たぶん、ぼったくりではなかった。あの場所で宿を開け続けること自体が、命がけだったのだ。主人は、最後の夜に、せめてまともな寝床と、温かいスープを出してくれた。それが――いま、紙の上では「上限超過」という、たった四文字に変わっていた。
「あの宿のおやじさん、今ごろどうしてるかな」ライルはぽつりと言った。「魔王が消えて、あの辺もやっと安全になったはずだ。商売、続けてるといいんだが」
「ライルらしいわね」セリカが小さく笑った。「自分の宿代でもめてるときに、宿のおやじの心配してるの」「だってよ」とライル。「あの一泊がなかったら、俺たち、まともに眠れないまま魔王と戦ってた。あのスープ一杯に、世界の運命がかかってたかもしれないんだ。なのに、それが『決まりの上限を超えてる』だけで、なかったことにされるなんて――納得いかないだろう」
財務課に、重い沈黙が流れた。これまでの、どこか滑稽な言い争いとは、少し違う空気だった。決まりが、正しさを取りこぼす瞬間。それは、笑い話では済まされない、苦い手触りがあった。ライルは拳を握りしめ、その理不尽を、どう斬ればいいのかわからずにいた。
その様子を、エルナは黙って見ていた。いつもの平らな表情の奥で、何かを考えているようだった。やがて彼女は、ひとりごとのように、小さくつぶやいた。「……決まりを守ることと、人を守ること。本当なら、その二つは、同じであるべきなのです。それがずれてしまうのは、決まりが悪いのではなく――決まりを作った人が、現場を知らなかった、というだけのこと」その言葉に、ライルははっと顔を上げた。この人は、ただ決まりに従っているのではない。決まりの不完全さを、誰よりも痛感しながら、それでもその中で戦っているのだ。
だが、エルナは、あきらめてはいなかった。彼女は分厚い決まりの綴りを、一枚、また一枚と、丹念にめくりはじめた。何かを探している。その横顔は真剣で、まるで戦場で活路を探す斥候のようだった。長い沈黙のあと、彼女の指が、ある一行で、ぴたりと止まった。
「――ございました」
「あったのか!?」
「宿泊費の上限には、例外規定がございます。『当該地域において、上限額以下の宿泊施設が存在しないことが客観的に証明される場合、実費を認める』。――つまり、魔王城の周辺に、金貨一枚以下の宿が、ほかに一軒もなかったと証明できれば、差額の二枚も、経費になります」
「証明できるさ! だって本当に、あの宿しかなかったんだ!」
「ですが、ここで問題が」エルナは冷静に続けた。「『なかった』ことを証明するのは、『あった』ことを証明するより、ずっと難しいのです。ほかの宿が一軒も存在しなかった――それを、どうやって紙の上で示すか」
ライルは、うなった。確かに、そうだ。「あった」なら、その宿の領収書を出せばいい。だが「なかった」を証明するには、いったい何を出せばいいのか。何もない、ということを、どうやって形にすればいいのか。
「ひとつ、手がございます」エルナが言った。「魔王城周辺の宿が、すべて魔物に襲われて潰れていた――その事実を、客観的な記録で裏づけるのです。たとえば、被害を受けた宿の数。崩れた建物の記録。あるいは、その地域が『危険地帯』に指定されていた、という王国の公式な記録」
「そんな記録、あるのか?」
「あるはずです。魔王が暴れていた地域ですから、どこかの課が、必ず被害を記録しております」エルナは静かに言った。「ただし――その記録を持っているのは、おそらく」
ライルの脳裏に、いやな予感がよぎった。「……まさか、また、あの二人の課か」
「はい。魔物の被害記録は、自然環境課と、防災課。先日、ドラゴンでもめた、あのお二人でございます」エルナの口元が、ほんのわずか、苦笑のように動いた。「どちらの課に記録があるかで、また一悶着あるかもしれません。なにしろ、あのお二人ですから」
ライルは、がっくりと天を仰いだ。一つの問題を解こうとすると、必ず、別の問題につながっている。役所という迷宮は、どの扉を開けても、また次の扉が待っているのだった。それでも――エルナが「道はある」と言う限り、進むしかない。彼は深く息を吐き、もう一度、羽根ペンを握り直した。世界を救った夜の、たった一泊の宿代を、取り戻すために。




