第77話 帝国の監査官は、ザイデルより厳しかった。ザイデル、若干うれしそう
その知らせは、朝いちばんに届いた。『帝国会計検査院より。両局判なる前例なき処理について、検査を行う。関係書類一切を揃えて待たれたし』。差出人の名は、首席検査官ロッツェ。カリナの顔が、それを読んだ瞬間、はっきりとこわばった。
「――まずい方に目をつけられました」カリナは声を落とした。「検査院のロッツェ卿。帝国の役人がもっとも恐れる御方です。五十年、検査ひとすじ。あの方が検査に入った部署は、必ず何かしらの不備を見つけられる。『ロッツェの通ったあとには、無傷の帳簿は残らない』と言われるほどで」
「ほう」――そのとき、一同の後ろで低い声がした。振り返ると、ザイデルが立っていた。その目が、心なしか輝いている。「五十年、検査ひとすじ。必ず不備を見つける。……ほう。ほほう」「ザイデルさん、あんた、なんかうれしそうだな」クロウがじっとりと見やると、ザイデルは咳払いをした。「……気のせいだ。私は、ただ職務上の関心を」「顔がゆるんでるぞ」「気のせいだ」
検査の当日。検査院から現れたのは、車椅子に乗った白髪の老人だった。膝の上に、使い込まれた検査用の道具箱。眼光だけが、年齢を感じさせぬほど鋭い。首席検査官、ロッツェ。老人は挨拶もそこそこに、積まれた書類の山を一瞥して言った。「――時間が惜しい。始めよう。全部、出しなさい」
それは、ザイデルの検分すら生ぬるく思えるほどの検査だった。ロッツェは書類を一枚手に取るたび、光に透かし、指先で紙の厚みを確かめ、インクの色味を見比べた。「――この両替記録。二枚目と三枚目で、インクの乾き方が違う。書いた日が違うな。なぜだ」メルツが慌てて答える。「に、二枚目は両替の当日に。三枚目は、宿に戻ってから清書を」「当日の原本は」「こ、ここに」「よろしい。原本があるなら、清書は認める。原本を捨てる者は信用せんがな」
「そこの若いの」ロッツェがふいにテオを指した。「この討伐の当事者は、お前さんか」「は、はいっ」「討伐の日、朝、何を食った」あまりに突飛な問いに、テオは面食らいながらも記憶をたどった。「え、ええと……堅パンと干し肉を。決戦の前だったので、喉を通らなくて半分残しました」「その堅パンは、どこで買った」「え、えっと、はやて亭の隣のパン屋で、出発の朝に……」ロッツェは手元の食料調達の記録と突き合わせ、ふん、と鼻を鳴らした。「――記録と一致する。よろしい。書類は嘘をつけるが、腹の記憶は嘘をつかん。わしは、いつもそこから確かめる」その剛腕ぶりに、一同はあらためて震え上がった。
検査は容赦なく続いた。日数計算方式の根拠。里の換算の対照表。牙、四本の保管記録。関所の『後日確定』の但し書き。ロッツェは、その一つひとつを、まるで獲物の骨までしゃぶるように検めていった。そして、その傍らで――ザイデルが身を乗り出すように、その手つきを見つめていた。「……素晴らしい」彼は、うっとりとつぶやいた。「紙の厚みで差し替えを見抜き、インクの乾きで日付の齟齬を突く。私の知らぬ技だ。ああ、なんという……」「敵に惚れるな、監査官」ライルが小声で突っ込んだ。
半日に及ぶ検査の果てに、ロッツェの指がぴたりと一枚の書類で止まった。「――見つけた」老人の目が光った。一同に緊張が走る。「この覚書の下書き。日付の書き方が混ざっておる。王国式の『三の月、四日』と、帝国式の『第三月四日』。同じ一枚の中でだ。……両国の書式を対照させるのは結構。だが、混ぜるのは話が別だ。百年後に、これを読む者が混乱する」
ヴァロが青ざめて、その一枚を確かめた。確かに混ざっていた。二つの書式を行き来しながら書き続けた疲れが出たのだろう。「……申し訳ございません。わたしの書き損じです」正直に頭を下げるヴァロを、ロッツェはじっと見つめた。「――言い訳をせんのだな」「事実ですので」「ふむ」老人は、かすかに目を細めた。「五十年、検査をしてきてわかったことがある。不備を指摘されたとき、人は二種類に分かれる。言い訳を探す者と、直し方を探す者だ。……お前さんは後者だな。ならば、この不備は恐れるに足らん。直せば済む」
そして、ロッツェは書類の山を両手でそろえ直すと、静かに宣した。「――検査、終了。指摘事項、一件。日付書式の混在。是正のうえ、再提出。……それ以外は」老人は、そこで初めて、ふっと口元をゆるめた。「五十年で、二番目に見事な帳簿だった」
「に、二番目ですか」テオが思わず聞き返すと、ロッツェはこともなげに答えた。「一番は、五十年前、わしが検査官になった年に見た、ある田舎のパン屋の帳簿だ。字は下手くそ。紙は粗末。だが、一銭の狂いもなく、余白には客への感謝が書き添えてあった。……あれを超える帳簿には、まだ出会えておらん。数字の正しさに、心の正しさが揃った帳簿にはな」
その言葉に、エルナが静かに目を見開いた。灯火屋の宿帳。ドルフの証文。この帝国一、厳しい検査官も、行き着いた先は同じだった。数字だけでは足りない。心だけでも足りない。その両方が揃って、初めて帳簿は本物になる。
検査が終わると、ザイデルが意を決したように、ロッツェの前に進み出た。「――首席検査官殿。折り入ってお願いが。先ほどの紙の厚みの検分。あの技をご教示願えないか」「ほう。王国の監査官どのか」ロッツェは車椅子の上から、ザイデルを見上げた。「良かろう。ただし、交換だ。お前さんの、あの旅程との突き合わせで嘘の日付を暴く技。あれも、なかなか見事だった。互いの手の内、見せ合おうではないか」
――その夜。迎賓館の一室からは、夜半すぎまで灯りが消えなかった。中から聞こえてくるのは、「なるほど、折り目の数で……!」「ほほう、水でにじませて、インクの層を……!」という、世にも渋い歓声である。監査官と検査官、五十年と十数年の技が、国境を越えて交換されていた。「……楽しそうね、あの二人」セリカが呆れ半分につぶやくと、カリナがめずらしく、くすりと笑った。「帝国でいちばん恐れられる御方に、あんなになつく方を初めて見ました」世界で一番地味な二度目の冒険は、最も恐ろしい検査官さえ、いつのまにか輪の中に加えてしまうのだった。そして、この夜交換された二国の監査の技は、やがて両国の帳簿を共に守る、確かな財産になっていく。指摘された日付書式の混在も、翌朝にはヴァロの手できれいに直されていた。




