第76話 ガラン対帝国主計局、帳簿形式をめぐる静かな戦争
両国の取り決めを覚書にまとめる作業は、思わぬところでつまずいていた。同じ内容を、王国の書式と帝国の書式、両方で正しく書き表す。その形式のすり合わせが、一筋縄ではいかなかったのだ。「――こういうときこそ、あの申し出に甘えましょう」エルナの一言で、一行は再びマオウ・ソフト帝国支社の扉をくぐった。
だが、店に入った一行は、異様な光景に出くわした。応接の机の上に、書状の束がうずたかく積まれている。その山の向こうで、経理担当のガランが鬼気迫る顔つきで羽根ペンを走らせていた。「……ガランさん、どうしたんだ、これは」ライルが恐る恐る尋ねると、ガランは眼鏡を押し上げ、静かに答えた。「――戦争でございます」
「せ、戦争!?」テオが思わず腰の剣に手をやった。「あ、いや、剣を抜くほうの戦争ではございません」ガランは慌てて手を振った。「書類の戦争です。相手は――帝国財務省第五局。通称、主計局。帝国じゅうの帳簿の形式を司るお役所でございます」
事情は、こうだった。マオウ・ソフトが帝国で商いをするには、そのソフトが作る帳簿を、帝国の正式な帳簿として認めてもらわねばならない。ガランは、その認可を主計局に申請した。だが、返ってきたのは却下の書状。理由は、たった一行。『帝国の規程により、帳簿は責任者が手ずから記すものと定められている。道具が書き出した帳簿は、帳簿にあらず』。
「そこからです」ガランは書状の山を指した。「わたくしは再申請をしました。却下されました。理由を質しました。回答が来ました。その回答の矛盾を指摘しました。また回答が来ました。……この往復書簡、本日で四十七通目になります」
ヴァロが、その束を一通ずつめくり、感嘆とも戦慄ともつかない声を漏らした。「……すさまじい。どの書状も一分の隙もない。主計局の却下には、必ず規程の根拠が示され、ガランさんの反論には、必ずその規程の矛盾が突かれている。しかも双方、一言も感情的な言葉を使っていない。……これは確かに戦争です。世界で、いちばん静かな」
「四十七通もやり合って、決着がつかないのか」クロウが呆れると、ガランは首を振った。「相手も相当な手練れなのです。主計局長、御年七十。五十年、帝国の帳簿の形式を守り続けてきた生き字引。……正直、敵ながらあっぱれと申しますか、書状を読むたび惚れ惚れいたします」「あんたも大概だよ」ライルは苦笑した。魔王軍一の几帳面と帝国一の几帳面が、正面からぶつかっている。なるほど、これは長引くはずだった。
「――お待ちください」カリナが、ふと書状の一通を手に取った。「この却下の根拠。『帳簿は、責任者が手ずから記すもの』。……この規程が、なぜあるか、ご存じですか。二百年前、帝国で大きな帳簿の偽造事件があったのです。雇い人に帳簿を書かせ、あとで『わたしは知らぬ。書いたのは雇い人だ』と責任を逃れる者が続出した。以来、『自分の手で書く』ことが、『自分が責任を持つ』ことの証とされてきました」
「つまり、規程の目的は、『手で書くこと』そのものではなく――」エルナの目が光った。「『誰が責任を持つかをはっきりさせること』ですね」「はい」カリナがうなずいた。二人の財務官の頭の中で、同じ道筋が見えはじめていた。あの一里の騒動と同じだ。手段にこだわって、目的を見失うから話がこじれる。ならば――目的に立ち返ればいい。
「ガランさん」エルナが尋ねた。「マオウ・ソフトの帳簿は、記入した者が誰か、あとからわかる仕組みはありますか」「ございますとも」ガランは胸を張った。「一行記すごとに、記した者の個人番号と日付と刻限が自動で添えられます。手書きと違い、書き手を偽ることも、あとからこっそり書き換えることもできません。……むしろ、手書きよりよほど責任の所在がはっきりいたします」
「それだ」ライルが身を乗り出した。「四十七通、形式の話でやり合ってきたんだろう。だったら、四十八通目は目的の話をしよう。『手で書く』決まりが守ろうとしたものを、ソフトはもっと確かに守れる。それを示せばいい」
翌日、一行はガランと連れ立って主計局を訪ねた。現れた主計局長は、噂に違わぬ人物だった。小柄で痩せて、背筋だけが鉄のようにまっすぐな老人。その目がガランを認めると、かすかに光った。「――おお。四十七通の御仁か。書状でやり合うのも一興だが、顔を見て話すのもまた一興。……して、本日は四十八通目を口頭で届けに参られたか」
「はい」ガランは深く一礼し、エルナとカリナが組み立てた理屈を丁寧に述べた。二百年前の偽造事件。手書き規程の本当の目的。そして、ソフトの帳簿が一行ごとに記入者の番号と刻限を刻み、書き換えを許さないこと。「――『手ずから記す』の心は、『責任から逃げない』こと。その心を、わたくしどもの帳簿は、手書きよりなお固く守ります。形は変われど、心は変わりません。いえ……心を守るために、形を変えるのです」
主計局長は長いあいだ、目を閉じて聞いていた。やがて、ゆっくりと目を開けると、机の引き出しから一通の書状を取り出した。「……実はな。四十八通目の却下状は、もう書いてあったのだ」老人は、その書状をふたつに破いた。「だが、今の話で無用になった。五十年、わしは『手で書く』形を守ってきた。形を守ることが、心を守ることだと信じてな。……だが、御仁らは逆から来た。心を守るために、形を変えたいと。――その道筋なら、わしにも否やはない」
「では……!」「ただし、条件がある」局長は指を一本立てた。「試験のあいだ、ソフトの帳簿と手書きの帳簿、両方をつけよ。一年、両者が寸分違わぬことを示せたなら――正式に認可しよう。二百年の決まりを変えるのだ。それくらいの慎重さは許してもらおう」「望むところでございます」ガランは即答した。二人の几帳面が、初めて同じ側に立った瞬間だった。
帰り道、ヴァロがしみじみと言った。「――此度の一件、わたしたちの覚書にもそのまま使えます。王国式と帝国式、どちらの形式が正しいかを争うのではなく、両方で書き、対照表で結ぶ。ガランさんの一年の試験と同じ道です」エルナもうなずいた。「形式の違いは、争いの種ではなく、互いの心を確かめ合う機会になる。……あの四十七通の静かな戦争が、それを教えてくれました」世界で一番地味な二度目の冒険は、几帳面と几帳面の握手という、世にも珍しい和平を見届けたのだった。




