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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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72/80

第72話 帝国式簿記は、美しかった。ただし、人間味を除いて

 財務省本省の大広間には、これまで誰も見たことのないほど巨大な帳簿の書架が並んでいた。天井まで届く棚という棚に、寸分の乱れもなく整理された綴りが収められている。案内役の役人が誇らしげに言った。「――帝国建国以来、二百年分のすべての記録がここに。一冊たりとも失われておりません」


 ヴァロは、その光景に思わず息をのんだ。「……見事です。これほどの規模の記録が、寸分の乱れもなく」彼は近くの一冊をそっと手に取らせてもらい、ページをめくった。数字はどれも、寸分の狂いもなく美しい字で並んでいる。「王国の灯火屋の宿帳のような、あの温かみとは、また違う美しさですね」


 案内が進むにつれ、一行は帝国の簿記の精密さに次々と驚かされた。取引のすべてが複式で記録され、貸方と借方が寸分違わず一致する。年度末には、全省庁の帳簿が一斉に締められ、翌日にはもう次の年度の記録が始まる。無駄も遊びも一切なかった。


「素晴らしい仕組みです」メルツが感嘆しながら言った。「王国の帳簿は、まだまだこういう精緻さには及びません。……ですが」彼は、ふとある一冊の帳簿の余白に目を留めた。「この余白。何も書かれておりませんね。王国の帳簿なら、こういう余白に担当者のちょっとした覚え書きがあるものですが」


 案内役の役人は、少し怪訝な顔をした。「覚え書きですか。帝国の帳簿に、そのような私的な書き込みは許されません。帳簿は、事実のみを記す神聖なものです」「なるほど」メルツはうなずきながらも、どこか釈然としない様子だった。


 エルナも、その棚の奥を静かに見渡していた。何十年も何百年も積み上げられた数字の山。だが、そのどこにも、灯火屋の宿帳にあったような「勇者ご一行、四名様。餞別なり」といった、人の温もりを感じさせる一行は見当たらなかった。「――美しいのに」彼女は小さくつぶやいた。「なぜか、少し寂しく感じます」そのつぶやきに、テオが静かにうなずいた。「わかる気がします。数字が多すぎて、逆に誰のための記録なのか見えなくなるというか」


 案内役の役人は、そんな二人の様子に気づかず、誇らしげに説明を続けていた。「本省の記録は、すべて後世の検証に耐えるよう、感情を排して記されております。それこそが、帝国の財務の誇りです」ヴァロは、その言葉に複雑な表情を浮かべた。「……感情を排することと、人の営みを忘れることは、似ているようで違う気がします。王国も、まだまだ学ぶべきことは多いですが――この帝国もまた、王国から学べることがあるのかもしれませんね」その言葉は、誰に向けたでもなく、静かにその場に残った。


 奥の一室で、一行は、この日の本題――条約案の事前すり合わせに臨んだ。帝国側の担当官は、カリナのほかにさらに数名。その筆頭格の初老の官吏が、開口一番こう言った。「――此度の討伐の一件。帝国財務省、第一局として申し上げます。前例がございません」


「前例がないことは承知しております」エルナがすぐさま応じた。「ですが、前例がないからといって、正しい解決を諦める理由にはなりません。わたしどもの王国にも、かつて前例のない事態が多くございました。そのたびに、新しい道を切り開いてまいりました」


「王国の事情は存じません」筆頭官吏は、にべもなく言った。「帝国の財務は、二百年前例の積み重ねにより成り立っております。前例なき判断は、この積み重ねを揺るがす恐れがあります。カリナ君の報告は拝見いたしましたが……いささか現場の感傷に寄りすぎているのではございませんか」


 カリナの表情が、わずかにこわばった。「――感傷ではございません。あの国境の村々の被害は、紛れもない事実です。証言も記録も揃えてまいりました」「証言は、証言に過ぎません」筆頭官吏は静かに、しかし揺るがぬ口調で続けた。「帝国の判断は、確立された前例と条文にのみ基づきます。此度のような前例なき事案は、通常――五年から十年をかけて慎重に審議されるのが常です」


「五年から十年!?」ライルが思わず声を上げた。「そんなに待ってたら、村の人たちの傷は癒えない。今、困っている人がいるんだ」「お気持ちはわかります」筆頭官吏は、眉ひとつ動かさずに言った。「ですが、それが帝国の秩序というものです。秩序を乱してまで急ぐ理由にはなりません」


 そのやり取りを聞いていたザイデルが、静かに口を開いた。「――お言葉ですが。秩序とは、何のためにあるのですか。人を守るためではないのですか。守るべき人が目の前で苦しんでいるときに、秩序を盾に動かないのは――秩序の使い方を間違えているのでは」筆頭官吏は、初めてわずかに眉を動かした。「――監査官殿には、そう見えるかもしれませんな。ですが、我々には我々の二百年の重みがあるのです」


 この日のすり合わせは、平行線のまま終わった。庁舎を出た帰り道、カリナは深くうなだれていた。「――申し訳ございません。本省の壁は、思っていた以上に厚いようです」「謝ることはない」ライルは静かに言った。「あんたが悪いんじゃない。ただ、相手が手強いというだけだ。俺たちは、これまでも何度もこういう壁にぶつかってきた。……で、そのたびに道を見つけてきた。今回も同じさ」その言葉に、カリナは少しだけ顔を上げた。「――エルナ様、皆様。明日、もう一度あの筆頭官吏に掛け合ってみます。今度は、わたくし一人ではなく、皆様の力をお借りして」その声には、初めてこの旅を共に戦う仲間としての響きがあった。エルナは静かにうなずいた。「もちろんです。わたしたちは、もうあなたの敵ではありません」世界で一番地味な二度目の冒険は、いよいよこの帝国の二百年の重みそのものと向き合うことになる。


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