第70話 山道で魔物の残党に襲われる。カリナ、初めて「現場」を知る
帰路、街道が再び王国側へと近づいたあたりだった。木々の影が不自然に揺れ、次の瞬間――牙をむいた魔物の群れが、道の両側から飛び出してきた。かつての魔王軍の残党。国境の両側を隔てなくうろつく彼らにとって、王国も帝国も関係がなかった。
「――カリナ殿、下がって!」ライルの声が鋭く飛んだ。次の瞬間には、もう聖剣が鞘を走り出ていた。カリナは突然のことに悲鳴を上げかけ、それでも必死にこらえて、後ろへと下がった。机の上でしか知らなかった「危難」というものが、今、目の前で牙をむいている。
クロウの目が、すっと群れの輪郭を捉えた。「右奥の大きい奴が頭だ! セリカ、援護!」セリカの杖が深く輝き、群れを二つに割る炎の壁を描き出す。ミラの祈りが淡い光となって、皆の足元を支える。テオが正面から群れに切り込み、ライルが頭目へと迫る。三年の時を経て研ぎ澄まされた連携は、一分の乱れもなかった。
カリナは、その光景をただ呆然と見つめていた。剣が風を切る音。魔法の熱。祈りの光。そして――仲間を庇う、悲鳴にも似た声。書類の上では決して伝わらなかった「戦い」というものの生々しさが、五感のすべてに突き刺さってきた。
「危ない!」不意に、はぐれた一匹の魔物が、カリナのすぐ背後に迫った。彼女は恐怖に体が動かなかった。だが、その瞬間――ザイデルが彼女の前に割って入り、持っていた硬い書類挟みで、その一撃を受け止めた。「――怪我はないか」「あ……はい」ザイデルは剣を持たない。だが、とっさに彼女を庇う、その体は迷いなく動いていた。
戦いのさなか、テオが一瞬足を滑らせ、体勢を崩した。魔物の爪が、その無防備な背に迫る。「――テオ様!」真っ先に動いたのは、ミラだった。祈りの光を瞬時に放ち、テオの周りに淡い守りの膜を張る。爪はその膜に阻まれ、テオは間一髪、事なきを得た。「ありがとうございます、ミラさん!」「油断なさらず!」ミラの声は澄んでいたが、有無を言わさぬ強さがあった。三年前、ただ優しいだけだった僧侶が、今は戦場の機微を読む頼もしい守り手になっていた。
戦いは四半刻ほどで決着した。頭目を討ち取られた群れは、算を乱して山の奥へと逃げ去っていった。カリナは地に座り込んだまま、しばらく動けずにいた。その手は、まだ小さく震えている。
「……これが」カリナは、ようやく声を絞り出した。「これが、あなた方の言う『現場』なのですね。書類には、これほどのことが一行たりとも書かれていません。『討伐に伴う装備の損耗』。『任務中の負傷』。……あの無味乾燥な言葉の裏に、こんな命のやりとりがあったとは」
エルナが静かに彼女の隣に腰を下ろした。「わたしも三年前、初めてこれを目にしたとき、同じことを思いました。自分が机の上で事務的に処理していた一つひとつの費目。その裏に、こんな命がけの瞬間があったのだと」「あなたも……」「はい。あの日から、わたしは規程を読む目が変わりました。ただの文字ではなく、その向こうにいる人の命の重さを感じるように」
カリナは震える手を見つめながら、静かに言った。「わたくしは、この旅に来るまで、正確さこそが正義だと信じて疑いませんでした。……ですが、正確さのその先に、こんな命がけの現実があることを知らずにいた。わたくしの書いてきた書状は――もしかすると、この現実から目を背けたまま書かれたものだったのかもしれません」
「今、知ったのなら遅くはない」ライルが聖剣を鞘に納めながら言った。「あんたは今日、初めて現場をその目で見た。それだけで、あんたのこれからの書状は、きっと変わる。数字の裏にある命の重さを知った財務官の書状にな」
カリナはしばし目を閉じ、それから静かに頭を下げた。「――ザイデル殿。先ほどは庇っていただき、ありがとうございました」「礼には及ばん」ザイデルは、いつもの抑揚のない声で答えた。「私も、かつて誰かに守られたことがある。あなたの村の話と同じだ。恩は次の誰かに返せば良い」その不器用な優しさに、カリナの頬に初めて確かな微笑みが浮かんだ。
ライルはカリナの隣に腰を下ろし、静かに言った。「――正直、驚いたよ。あんたが今日、逃げずにここまでついてきたこと。怖かっただろうに」「怖くございました」カリナは素直に認めた。「ですが――逃げれば、二度とこの現実を知る機会はなかったでしょう。わたくしは逃げたくありませんでした。エルナ様も、皆様も、この恐怖と向き合いながら旅を続けてこられたのですから」その言葉に、ライルは深くうなずいた。「その覚悟があれば、もう十分だ。あんたは今日、本物の財務官になった」
残党の脅威は去った。だが、カリナの中では、何か大きなものが静かに崩れ、そして新しく組み直されようとしていた。机の上の完璧さだけでは届かない場所がある。それを身をもって知った、この日を境に、彼女のまなざしは確かに変わりはじめていた。世界で一番地味な二度目の冒険は、こうして最強の好敵手の心の鎧を、一枚、また一枚と解いていく。テオの剣も、ミラの祈りも、クロウの目も、セリカの炎も――誰一人欠けても成り立たなかった、この日の勝利だった。剣を持たぬカリナとザイデルもまた、それぞれの形で、この戦いを支えていた。世界を守る力は、決して一つではない。それを、この山道の一戦は静かに証明していた。剣を持たぬ者もまた、その場に立ち続けることで誰かを支える。それもまた、この旅が繰り返し教えてくれる確かな真実だった。




