第69話 カリナの弱点、発覚する。彼女は、現場を一度も見たことがなかった
村を発って二日目。街道は、しだいに細く険しくなっていった。国境の山地を抜ける近道である。カリナは、その日めずらしく、朝から口数が少なかった。
「――カリナ殿、大丈夫か」ライルが声をかけると、彼女は少し間を置いて答えた。「……お恥ずかしい話ですが。わたくし、こうした山道を歩くのは初めてです。帝都の財務省に入って二年。ずっと机の上で書類と向き合ってまいりました。現場に出るのは、此度が初めてで」
「初めて?」クロウが思わず聞き返した。「じゃあ、あの書状も、あの精緻な論理も、全部、机の上だけで組み立てたのか」「はい」カリナは少し悔しそうに認めた。「記録と法と前例。それだけを頼りに判断してまいりました。……それで十分だと思っておりました」
その日の昼、一行は細い崖沿いの道に差し掛かった。片側は切り立った崖。足元は雨に濡れて滑りやすい。先を歩いていたエルナが、慣れた足取りで、その難所を越えていく。三年前の旅で鍛えられた足腰である。だが、カリナは途中でぴたりと足を止めてしまった。
「……申し訳ございません。少し、めまいが」カリナの顔から血の気が引いていた。崖を見下ろし、体が小さく震えている。机上の理論では誰よりも鋭い、この女性が、たった一つの崖道に足をすくませていた。
「大丈夫だ、慌てるな」ライルがすぐさま寄り添った。「壁側を見ろ。崖じゃなく、岩肌を見るんだ。一歩ずつ、俺の後ろについてくればいい」彼はカリナの手をそっと取り、ゆっくりと導いた。テオが反対側から支え、ミラが静かに癒しの祈りで震えを鎮めていく。カリナは額に汗を浮かべながら、それでも一歩、また一歩と進んだ。
セリカが、そっとカリナの震える手に、自分の杖を握らせた。「これ、持ってて。おばあちゃんの形見の杖。わたしも初めて危ない目に遭ったとき、これを握って勇気をもらったの」カリナは戸惑いながらも、その杖を受け取った。木目の温かい感触が手のひらに伝わる。「……不思議です。ただの木の杖なのに、少し落ち着きます」「でしょう」セリカは微笑んだ。「値段のつけられない物には、そういう力があるのよ」
難所を越えたところで、彼女は大きく息を吐いた。「……お恥ずかしい限りです。あの程度の道で」「恥じることじゃない」ライルは笑った。「あんた、これまでこういう道、歩いたことがなかったんだろう。慣れてなきゃ、誰だって足がすくむ。俺たちも三年前、最初はそうだった」
カリナはしばし黙り込んでいたが、やがて静かに口を開いた。「……わたくしはこれまで、書類の上の危難と実際の危難を同じものだと思っておりました。ですが、違うのですね。書類には、この足の震えも、この崖の高さも書ききれません」
「そういうことだ」ザイデルが静かに口を挟んだ。「私も、かつては同じだった。若い監査官のころ。机の上の数字だけを信じ、現場の事情に目を向けなかった。その結果――取り返しのつかない過ちを犯した」その声には、いつもの重い響きがあった。カリナは、その言葉にはっと顔を上げた。「――あなたもですか」「ああ。だから私は今、この旅に加わっている。二度と同じ過ちを犯さぬために」
その日の夕刻、一行は小さな谷川に差し掛かった。飛び石を渡らねばならない。クロウが慣れた身のこなしで、ひょいひょいと渡っていく。「ほら、こう跳ぶんだよ。足元じゃなく、次の石を見て」カリナは恐る恐る、その真似をしてみせた。一度、バランスを崩しかけたが、テオがすかさず手を伸ばして支えた。「大丈夫です、僕がいますから」渡り終えたとき、カリナは思わず小さく笑った。「……できました。わたくし一人では、決して渡れなかったでしょう」「一人で渡る必要なんてないんだよ」クロウが、にっと笑った。「旅は一人でするもんじゃねえ。俺たちも、いつもそうやって支え合ってきた」その素朴な言葉に、カリナはしばし目を細めていた。
その夜、野営の火を囲みながら、カリナはめずらしく自分から皆に問いかけた。「――わたくしのこれまでの判断は、間違っていたのでしょうか。討伐の正当性を疑い、書式の不備を厳しく問うた。あれらは、すべて机の上の正しさに過ぎなかったのでしょうか」
「間違ってはいない」エルナが静かに答えた。「机上の正しさもまた、大切な正しさです。ただ――それだけでは足りないというだけのこと。わたしも、あなたと同じでした。三年前、初めて旅に出るまで、規程の条文しか信じておりませんでした。ですが、字の書けない御者に出会い、亡くなった宿の主人の宿帳に触れ、頑固な薬師の誇りを知って――規程の向こうに人がいることを知りました」
カリナは、その言葉を静かに聞いていた。焚き火の灯りに照らされた、その横顔には、これまでの隙のなさとはまた違う柔らかさがにじんでいた。「――わたくしも見に行かねばなりません。机の上だけでは、決して見えないものを」「それでいい」ライルは優しく言った。「怖くていいんだ。震えていいんだ。それでも一歩踏み出す。それが本当の強さだ。俺たちも、そうやってここまで来た」
星空の下、カリナは長いあいだ、火を見つめていた。やがて彼女は、セリカから借りた杖をそっと返しながら、静かに言った。「――ありがとうございました。おかげで少し勇気が出ました」「いつでも貸すわ」セリカは微笑んだ。「必要なときは、遠慮なく頼って」その短いやり取りに、これまでの二人の隔たりが少しずつ溶けていくのを、皆が感じていた。翌朝、山道を進む彼女の足取りはまだぎこちなかったが、その目には昨日までにはなかった確かな光が宿っていた。世界で一番地味な冒険は、完璧に見えた好敵手の人間らしい弱さと、その弱さを乗り越えようとする勇気を静かに照らし出していた。机の上の正しさだけを鎧のようにまとっていた彼女が、少しずつその鎧を脱ぎはじめている。それは弱くなることではなく――むしろ、本当の強さへと近づく一歩なのだと、ライルにははっきりとわかった。明日には、また王国側の街道へと戻る。だが、その足取りは来たときとは、もう違うものになっているはずだった。




