第68話 帝国の村の宿帳は、完璧だった。完璧すぎて、逆に怖い
遺族への見舞いを終えた一行は、その村でもう一泊することになった。案内された宿は、小さいながら驚くほどきちんと整えられていた。帳場に置かれた宿帳を見て、エルナとヴァロが思わず顔を見合わせた。
「――これは」ヴァロが宿帳をそっと手に取った。日付、宿泊者の個人番号、宿代、支払い方法。一日も欠かさず、寸分の乱れもない字で記されている。しかも、月ごとに収支の合計が几帳面に計算され、余白には翌月への繰越額まで明記されていた。
「見事な帳簿です」ヴァロは感嘆の声を漏らした。「王国の灯火屋のご主人の宿帳も立派でしたが……これはまた、違う種類の見事さです。まるで財務省の正式な台帳のような」宿の女将が少し誇らしげに言った。「帝国では、宿を営むにも帳簿のつけ方をきちんと習うのです。年に一度、検査もございますから」
「検査ですか」ライルが尋ねると、女将はうなずいた。「帝国の財務省から係の方が回ってきて、帳簿を検めるのです。不備があれば指導が入ります。……この辺境の村にまで必ず回ってくるので、皆、緊張して帳簿をつけております」
エルナは、その宿帳を丹念にめくりながら、ふとあることに気づいた。「――一年分、すべて同じ筆跡ですね。同じ字の大きさ、同じ書き方の癖まで」「はい。わたくしがつけておりますので」「では、あなたが体調を崩された日は」「……ございません。この十年」女将は事も無げに答えた。「体調が優れずとも、帳簿だけは必ずつけます。休めば翌日、思い出せなくなりますから」
「一つ、伺ってもよろしいですか」テオが思い切って尋ねた。「もし、帳簿をつけ忘れた日があったら……どうなるんですか。罰則があるとか」「罰則というほどでは」女将は少し困ったように答えた。「ただ、翌年の検査で『不備あり』と記録に残ります。……近所の宿の女将たちの中には、その一文字の『不備あり』を恥じて、宿をたたんだ人もおります」「たったそれだけで?」テオが驚くと、女将は静かにうなずいた。「たったそれだけで十分なのです。この村では、『不備なく帳簿をつけること』が女将としての誇りそのものですから」
その答えに、一行はしばし言葉を失った。「――十年、一日も休まず……」テオが思わずつぶやいた。ミラが静かに女将に尋ねた。「失礼ですが、それは……お辛くはございませんか。体調の優れない日にまで帳簿を」女将は少し驚いたようにミラを見て、それから静かに微笑んだ。「辛いというより……そうするものだと教わって育ちましたので。辛いと感じたことも、ないような気がいたします」
その夜、宿の一室で、一行はこの日の出来事を振り返っていた。「……あの完璧さ。正直、感心する一方で」セリカが少し複雑な顔で言った。「どこか怖さも感じたわ。休んだらいけないって。誰かが決めたわけじゃないのに、そう思い込んでる」クロウもうなずいた。「王国の灯火屋の、あの若い主人は、父親の宿帳を見て涙してた。だが、あそこには隙間があった。字が乱れてる日もあったし、書き忘れもあった。……それでも、いや、それだからこそ、あったかい記録に見えた」
エルナは静かに考え込んでいた。「完璧さは、確かに信頼できます。ですが――完璧であることを当たり前に求めすぎると、そこに人の無理が隠れてしまうことがあります。あの女将さんの十年休まぬ帳簿。それは立派な仕事ぶりです。ですが、もしある日、彼女が倒れたら。その日の記録は誰がつけるのでしょう。……完璧な仕組みほど、たった一人の無理の上に成り立っていることがあるのです」
メルツが腕を組んでうなった。「税務の目から見ても、これは悩ましい問題です。『不備なし』を絶対の基準にしてしまうと、人は無理をしてでも不備を隠そうとする。……本当に必要なのは、『不備があっても正直に申告できる空気』かもしれません。王国の規程にも、そういう精神があったはずです」「ございます」エルナがすぐさまうなずいた。「『やむを得ない事情による遅延・不備は、正直に申告すれば、悪意ある不正とは区別して扱う』。三年前、フェルゼン課長がわたしたちに示してくださった道です」その規程の名を口にするとき、エルナの声にはいつも確かな温かさがこもっていた。
ザイデルが静かに口を開いた。「――帝国のこの精緻さを見習うべき点は多い。だが、王国には王国の良さもある。灯火屋の宿帳のような『隙間のある記録』が、時に人を救うことも、私はこの旅で学んだ」その言葉に、皆、深くうなずいた。三年前、王国の中で学んだことが、今、帝国という鏡に映し出されて、また新しい姿で見えてくる。
翌朝、宿を発つとき、エルナは女将にそっと声をかけた。「――もし、いつか体調が優れない日があれば。無理をなさらず休んでください。帳簿の一日くらいの空白は、決して恥ではありません。むしろ正直な記録です」女将はしばしきょとんとしていたが、やがて、その言葉を噛みしめるように頭を下げた。「……そのように言っていただいたのは初めてです。心に留めておきます」
出発の間際、女将はわざわざ宿の外まで見送りに出てきた。「――ゆうべのお言葉、一晩考えました」女将は少し照れくさそうに言った。「明日から、少しだけ肩の力を抜いてみようと思います。……十年休まなかった、この帳簿。初めて誰かに認めていただけた気がして」その顔には、これまでにない晴れやかさがあった。ミラが静かに微笑んだ。「あなたの十年は立派なものです。ですが、これからの十年は少しだけ、ご自分にも優しくなさってください」女将は深く頭を下げた。
村を後にする道すがら、カリナがぽつりと言った。「――わたくしも、あの女将のように生きてまいりました。休まず、完璧を求めて。……それが正しいと信じて疑いませんでした」「今はどうだ」ライルが尋ねると、カリナはしばし沈黙し、それから静かに答えた。「――少し揺らいでおります。良い揺らぎだと思いたい」その横顔には、これまでにない柔らかさがにじんでいた。世界で一番地味な冒険は、完璧さの裏にある静かな疲れにも目を向けはじめていた。




