第65話 王国の一里と帝国の一里は、長さが違った。旅費計算、崩壊する
協議、二日目の朝。宿の一室で、ヴァロが頭を抱えていた。机の上には、旅程の記録と旅費の計算書が山と積まれている。
「……困りました」ヴァロは、うめくように言った。「使節団の旅費。王国の規程では、『一日、何里進んだか』によって日当が変わります。国境までは、王国の一里で計算できました。ですが――国境を越えてから、帝国領内を進んだ距離。これを王国の一里で数えるべきか。帝国の一里で数えるべきか」
「王国の里で計算すりゃいいだろう。俺たちは、王国の使節団なんだから」クロウがあっさりと言った。「それが、そう単純ではないのです」ヴァロは首を振った。「里程標は、帝国の一里で打たれています。里程標に書かれた数字を、そのまま『里』として記録すれば、それは帝国の一里。ですが、王国の規程で日当を計算するには、王国の一里に換算し直さねばなりません。……そして、その換算をめぐって、すでに二つの数字が出てしまいました」
「二つ?」ライルが尋ねると、ヴァロは二枚の計算書を並べて見せた。「一枚目は、わたしが里程標の数字をそのまま帝国の一里として換算したもの。二枚目は、メルツ殿が実際に歩いた歩数から逆算したもの。……この二つが微妙に食い違うのです」
メルツが深刻な顔でうなずいた。「里程標は二百年前に打たれたもの。当時の一里の定義と、今の定義がわずかにずれている可能性があります。……つまり、里程標そのものが、今の帝国の正式な一里とは一致していないかもしれないのです」
「待ってくれ」ライルが思わず頭を抱えた。「一里の長さが国で違う。それだけでもややこしいのに――里程標自体が、今の定義とずれてるかもしれないって? じゃあ、俺たちが実際に何里歩いたのか、誰にもわからないってことか」
「その通りです」ヴァロは力なくうなずいた。「そして、旅費の日当は、この距離を基に計算されます。距離が確定しなければ、日当も確定しない。……このままでは、この旅の旅費精算そのものが根底から崩れてしまいます」
財務課の面々に重い沈黙が落ちた。三年前、宿泊費の上限や税の区分で悩んだことはあった。だが、「歩いた距離そのものがわからない」という根本的な問題は初めてだった。
「なあ」テオがおずおずと手を挙げた。「素朴な疑問なんですが……そもそも、なんで国によって『一里』の長さが違うんでしょう。同じ言葉なのに」「良い問いです」ザイデルが答えた。「大昔、一里とは、『人が一日に歩ける距離』を大まかに示す言葉だったと聞く。だが、人の歩幅も体力も、土地の起伏も国ごとに違う。長い年月を経て、それぞれの国がそれぞれの基準で『一里』を定めてしまった。今となっては、どちらが正しいというものではない。ただ、違うというだけだ」
「じゃあ、いつか世界中の国が同じ一里を使うようになったりは……」テオがつぶやくと、メルツが苦笑した。「夢のような話です。ですが――此度のような地道なすり合わせの積み重ねが、いつか、そこに繋がるのかもしれませんね」その言葉に、皆それぞれ思うところがあるように静かにうなずいた。
セリカが、ふと口を挟んだ。「ねえ、そもそもなんだけど。旅費の日当って、何のためにあるの? 移動の大変さを労うため、よね。だったら――楽な日と大変な日で差があって当然だと思うの。里で測るか、日数で測るかより、『その日、どれだけ大変だったか』を素直に記録すればいいんじゃない?」その率直な問いに、エルナははっとした。「……その通りです。手段にこだわって、目的を見失うところでした。ありがとう、セリカ様」セリカは少し得意げに微笑んだ。
エルナも、しばし考え込んでいた。
「――一つ、手がございます」エルナが静かに口を開いた。「距離を里で測ろうとするから、混乱するのです。ならば、里という単位そのものを、いったん脇に置きましょう」「里を使わずに、どうやって旅費を計算するんだ」「『日数』で計算するのです」エルナは続けた。「一日歩いた分は、一日分の日当。距離が何里であろうと、朝から晩まで歩いた、その日を一日と数える。これならば、里の定義のずれに左右されません」
メルツが、はっと顔を上げた。「……なるほど! 距離基準ではなく、日数基準に切り替える。これならば、里の換算問題そのものが消えます! ただし――」「ただし?」「一日の移動距離に極端な差があった場合、不公平になります。ほとんど歩かなかった日と、無理をして長く歩いた日が同じ日当では、正直な者が損をする」
「そこは」エルナが静かに続けた。「『通常の行軍で、一日に進む標準的な距離』をあらかじめ定めておき、それを著しく下回った日や上回った日だけ、個別に申告する。ほとんどの日は日数計算で簡潔に。例外だけ丁寧に記録する。……これならば、公平さと簡潔さの両方が保てます」
ヴァロは、その提案を素早く書き取りながら、感嘆の声を漏らした。「――見事です。里の換算という迷路のような問題を、そもそも迷路に入らない道で迂回する。これが規程の本当の使い方なのですね」
その日の午後、この新しい旅費計算の方式はカリナにも伝えられた。彼女は、その提案書をじっくりと読み、珍しく感心したように言った。「……単位の対立を避けて、別のものさしに切り替える。柔軟な発想です。帝国の財務官には、なかなか出てこない考え方かもしれません」「王国は、決まりを疑うことに慣れています」エルナは静かに答えた。「決まりがうまく機能しないときは、決まりそのものを疑う。それも大切な姿勢だと教わりましたので」カリナは、その言葉を静かに胸に刻むようにうなずいた。窓の外、二日目の協議に向けて、両国の財務官たちがまた静かに動きはじめていた。ヴァロは、この日のやり取りを一言一句、丁寧に書き留めていた。「里の対立から、日数計算への切り替え。そして、その発想の種をまいたのは、セリカ様の素朴な一言でした。……規程を作るのは、専門家だけではないのですね。今日、また一つ学びました」その言葉に、セリカは照れくさそうに笑った。旅はまだ道半ば。だが、一歩ずつ確かに進んでいた。明日は、いよいよ魔獣の巣そのものへ、両国立ち会いのもと、実地の検分に赴く。机上の数字が現地の土を踏むことで、どう確かめられるのか。一行は、それぞれの思いを胸に静かに眠りについた。




