第64話 エルナ対カリナ、初対決。規程の読み合いは、国境を越える
午後の協議は、開始からたちまち白熱した。
「まず、確認いたします」カリナが帳簿を指でなぞりながら切り出した。「テオ様が討伐された大魔獣。その巣の位置。王国の測量では、国境の東寄り――帝国領内となっております。この点、間違いございませんね」
「その測量には疑義があります」エルナがすかさず応じた。「二百年前の条約付属図。王国の写しと帝国の写しとで、線の位置に半里のずれがございます。原因は、王国と帝国とで『一里』の長さの定義が異なること。歩幅、千歩と千二百歩の違いです」
カリナの目がわずかに細くなった。「――そのずれは、当方も把握しております。ですが、条約の正本は帝国の宮廷に保管されている。当然、帝国の単位で記されたものが正本です。王国の写しは、あくまで写し。原本の権威には及びません」
「では、お尋ねします」エルナは一歩も退かなかった。「条約が結ばれた当時。両国は対等な立場で、この条約を結んだはずです。であれば、正本をどちらが保管しているかは、その内容の正しさとは無関係のはず。……正本を持つ側が常に正しいというのなら、それはもはや対等な条約ではありません」
ヴァロがそっと机の下で、新しい書式を書き足していた。両国の里の定義の違いを、一枚にまとめた対照表である。「――僭越ながら」彼は静かにそれを二人の前に差し出した。「この対照表を、境界標の記載事項に加えてはいかがでしょう。今後、同じ混乱が起きぬよう」カリナはその書式を手に取り、じっくりと眺めた。「……無駄がない。美しい表です。どなたが」「王国財務課のヴァロと申します」ヴァロが恐縮しながら名乗った。カリナはわずかに目を見開き、それから小さくうなずいた。「見事です。この表、採用させていただきます」ヴァロの顔が、誇らしさにぱっと輝いた。
場が、しんと静まった。カリナはしばし沈黙し、それから静かに認めた。「……一理ございます。では、こういたしましょう。両国合同の実測を、あらためて行う。双方の里の定義を明記した、新たな境界標を打ち直す。それでいかがですか」「異存ございません」エルナはうなずいた。第一の応酬は、痛み分けで決着した。
「次に」カリナは続けた。「討伐の正当性について。仮に巣が帝国領であったとして――事前の届け出なき討伐は、帝国の国内法において他国の武力行使にあたる恐れがあります」「緊急避難です」エルナは即座に切り返した。「魔獣は王国の三つの村を焼きました。人命が目前で失われようとしている、その瞬間に国境の確認を優先せよというのは――法の精神に反します。帝国にも、『急迫の危難に対する正当防衛』の規定があるはずです。第十二条でしたか」
カリナが初めて、はっきりと目を見開いた。「……よくお調べになっている」「メルツ殿のおかげです」エルナは静かに答えた。「彼は帝国の法体系を、この三年、独学で学んでおりました。此度の旅のために」メルツが末席で、誇らしげに胸を張った。カリナはその様子を一瞥し、小さくため息をついた。「……第十二条は確かに存在します。ですが、それはあくまで『自国民の生命身体を守るため』の規定。テオ様は王国の勇者。帝国の民ではありません」
「では、お尋ねします」今度はテオが、勇気を振り絞って口を開いた。全員の視線が集まる。「あの村々には……焼かれる前、逃げ遅れた旅の商人たちがいました。中には、帝国から来ていた行商人もいたはずです。……もし、その方々を助けるために僕が剣を抜いたのだとしたら。それは、帝国の民を守るための行いにはならないでしょうか」
協議の間に初めて静寂が落ちた。カリナはしばしテオを見つめた。「……その行商人たちの名は。記録はございますか」「はい」エルナがすかさず帳簿を開いた。「王国側の避難記録に名が。……帝国の商人組合に照会すれば、国籍も確認できるはずです」
カリナは長い沈黙のあと、静かに言った。「――本日は、ここまでといたしましょう。当方も持ち帰り、検討すべき事項が増えました」彼女は帳簿を閉じ、席を立った。だが、去り際、ふと足を止め、テオを振り返った。「……勇者様。良い問いでした。わたくしの想定していなかった角度です」その一言だけを残し、彼女は静かに退室した。
協議の間に、どっと緊張が緩んだ。「……疲れた」クロウが椅子に崩れるように腰を下ろした。「剣で殴り合うほうが、まだ楽かもしれねえ」「同感です」ザイデルが珍しく本音を漏らした。「あのカリナという方――一つも無駄な発言がない。反論のすべてに根拠がある。三年前のわたし以上の相手かもしれん」
エルナは深く息を吐いた。「……互角というところでしょうか」「互角どころか」ライルが笑った。「今日、点を取ったのはテオだったな」テオは照れくさそうに頭をかいた。「僕、ただ思ったことを言っただけで」「それでいい」ライルはその肩を叩いた。「規程の読み合いだけじゃ届かない場所がある。お前のまっすぐな問いが、あのカリナ殿の心を動かした。それも立派な武器だ」
「わたしも今日、気づいたことがあります」ミラが静かに口を開いた。「カリナ様は、誰よりも正確さを求めておられる。ですが、その正確さの裏にあるのは恐れなのだと思います。あいまいさに、また誰かが傷つくことへの恐れ。……それは責めるべきことではありません。むしろ寄り添うべきことです」セリカもうなずいた。「エルナさんも最初はそうだったものね。規程しか信じられなかった。……でも、今は違う。カリナさんも、きっと同じように変われる」その言葉に、エルナは静かに目を伏せた。「そう願っております」
窓の外、灰色の都市に夕日が沈もうとしていた。初日の対決は、決着がつかぬまま幕を閉じた。だが、誰もが感じていた。この静かな、しかしこれ以上なく本気の戦いは――まだ始まったばかりだと。明日も明後日も、この卓を挟んだ応酬が続くだろう。だが、それはもはや恐れるべきものではなく――挑みがいのある大きな山だった。




