第63話 帝国財務官カリナ・ヴェルト、国境に立つ。「王国式のどんぶり勘定、拝見します」
協議の間は、石造りの簡素な、しかし隅々まで清潔に整えられた部屋だった。中央の長机を挟んで、王国の使節団と帝国の役人たちが向かい合う。正午の鐘が鳴り終わると同時に、奥の扉が静かに開いた。
現れたのは、一人の若い女性だった。深い青の制服を寸分の乱れもなく着こなし、髪をきっちりと結い上げている。腕には、几帳面な字が隙間なく書き込まれた分厚い帳簿を抱えていた。年齢はエルナと、そう変わらない。だが、その佇まいには隙という隙がなかった。
「グランツ帝国、財務省、国境経理局、主任財務官。カリナ・ヴェルトと申します」彼女は席に着くと、一同を順に見渡した。その目が最後に、エルナの上で止まった。「――そちらが王国財務課のエルナ様ですね。書状のお噂は、かねがね」
「お初にお目にかかります」エルナも、まっすぐにその視線を受け止めた。「あなたの書状、拝見いたしました。一分の隙もない見事な書式でした」「恐れ入ります」カリナはうっすらと微笑んだ。だが、その笑みはどこまでも礼儀正しく、そしてどこか値踏みするような冷たさを含んでいた。
「では、さっそく」カリナは帳簿を開いた。「王国側の討伐に関する記録を拝見いたしましょう。……失礼を承知で申し上げます。王国の書式は拝見したことがございます。項目が大まかで、金額の根拠も感覚的なものが多いと。――王国式のどんぶり勘定、とくと拝見いたします」
場の空気が、ぴりりと張り詰めた。クロウが思わず身を乗り出しかけるのを、ライルが目で制した。「どんぶり勘定とは手厳しいな」ライルが静かに言うと、カリナは表情を変えずに答えた。「事実を申し上げたまでです。王国の精算書、拝見いたしました。三年前の、あの勇者様の経費精算書――『約三・五シルバー』などという概算の記載が散見されました。帝国では、あり得ません」
「その概算には理由がございます」エルナが静かに応じた。「記憶を頼りに正直に申告した結果です。曖昧なものを曖昧なまま、正直に書く。それもまた、一つの誠実さです。噓の正確さより、正直な概算のほうが、わたしは信頼に値すると考えております」
「興味深いお考えです」カリナは眉ひとつ動かさなかった。「ですが、それでは検証ができません。正確さのない誠実さは、帝国の財務では誠実とは認められないのです」二人の視線が静かに交わった。剣も魔法も使わない。だが、そこには確かな火花が散っていた。
その様子をじっと見ていたザイデルが、ふと低くつぶやいた。「――同じ傷を持つ者の目だ」皆が怪訝な顔を向けると、ザイデルは続けた。「あの目を、私は知っている。規程を絶対に譲れない理由を持つ者の目だ。私と同じ」
カリナは続けて、討伐の経緯の記録を一枚ずつ検分しはじめた。その手つきは恐ろしいほど丁寧だった。日付の整合。証人の署名。被害の村々の名。一点の見落としも逃すまいとするかのように。「――この被害記録。三つの村、それぞれの損害額。この算定の根拠は」「王国の防災課と自然環境課の合同報告書です」エルナがすかさず応じた。「両課の判が揃っております」「合同というのは、珍しい体制ですね」カリナが初めて、わずかに興味を示した。「帝国では、被害の種別ごとに局が完全に分かれております。合同での報告は前例がございません」「王国でも、三年前までは同じでした」ライルが横から口を挟んだ。「所管を争って三時間、揉めたこともある。でも、揉めた末に両方の課が手を組んだ。今じゃ、王国一の名コンビだ」カリナは、その話にほんの少し興味深そうに目を細めたが、すぐにいつもの平静な表情に戻った。
休憩の合間、廊下でライルは思い切ってカリナに声をかけてみた。「――なあ、カリナ殿。一つ聞いてもいいか。あんたは、なぜそこまで正確さにこだわるんだ」カリナはしばし沈黙してから、静かに答えた。「……わたくしの生まれた村は、辺境の小さな集落でした。ある年、隣国の狡猾な商人たちがやってきて、村のあいまいな取引の記録をいいように突き、二束三文で村の収穫を買い叩いていきました。村人たちは字も書けず、記録も残しておらず――何一つ抗弁できませんでした」
その声には、初めて感情の色がにじんでいた。「もし、あのとき村に一枚でも正確な記録があれば。あの商人たちの不当な言い分を突き崩せたはずです。……わたくしは誓いました。二度と、あいまいさにつけ込まれる者を出さない、と。だから、わたくしは寸分の隙もない記録を求めます。それは意地悪でも傲慢でもなく――」
「弱い者を守るための剣なんだな」ライルが静かに言葉を継いだ。カリナは、はっと顔を上げた。「……そのように言われたのは初めてです」「エルナさんも同じだよ」ライルは微笑んだ。「あの人も、規程を人を守るための道具だと信じてる。あんたとエルナさんは、同じものを見てるんだ。ただ、その守り方が少し違うだけで」
カリナはしばし黙り込んだ。そして、静かに言った。「……それでも、わたくしは譲れません。正確さのない書類を認めれば、いつかまた誰かがあいまいさにつけ込まれる。わたくしの村のように」「わかってる」ライルはうなずいた。「だから、俺たちはこれから話し合うんだ。譲れないもの同士で。それでも答えは見つかるはずだ。三年前、俺たちが見つけたようにな」
「……あなたは不思議な方ですね」カリナは、ふとライルを見つめて言った。「団長でありながら、規程の細部には口を出さない。ですが、こうして人の心にはまっすぐ踏み込んでくる」「俺は規程の専門家じゃないからな」ライルは笑った。「俺の役目は剣を振ることと――あんたみたいな頑固な相手と腹を割って話すこと。エルナさんが規程で道を切り開く。俺は人の心で道を繋ぐ。役割分担さ」
午後の協議が再開される鐘が鳴った。カリナはすっと表情を引き締め、いつもの隙のない財務官の顔に戻った。「――続きを始めましょう」その声に、先ほどの揺らぎはもうなかった。だが、ライルには確かに見えていた。あの冷たい鎧の下に、確かな傷と確かな誇りがあることを。世界で一番地味な二度目の冒険の本当の正念場が、いよいよ幕を開けようとしていた。剣を交える相手ではない。だが、これほど手強く、そしてこれほど放っておけない相手にも、そうそう出会えるものではなかった。




