第66話 魔獣の巣、実地検分。牙の一本まで、二国立ち会いで数える
早朝、両国合同の検分隊が組まれた。王国からは、ライル、テオ、クロウ、エルナ、ザイデル。帝国からは、カリナと数名の係官。両者、対等な人数で、東の山地――あの大魔獣の巣へと向かった。
巣は、三か月経った今も、生々しい爪痕を残していた。焼け焦げた岩肌。抉れた地面。テオは、その光景を見て一瞬、足を止めた。「……ここです。ここで、僕はあの魔獣と」彼の声は、記憶をたどるように少し震えていた。
カリナは、その巣の隅々を実に几帳面に検分しはじめた。「――被害の算定には、正確な記録が要ります。まず、この地面の抉れ。これが何によってできたものか」「魔獣の尻尾です」テオが答えた。「巣を守ろうと暴れ回って」「では、その証言を裏づけるものは」カリナは淡々と続けた。「テオ様お一人の記憶ではなく、客観的な証拠が」
「それなら」エルナが進み出た。「討伐後、王国の自然環境課が、この巣を調査し、詳細な記録を残しております。地面の損傷の範囲、深さ、すべて図面に」彼女は持参した綴りを開いた。カリナは、その図面を受け取り、食い入るように見つめた。「……精緻な図面ですね。この精度は」「野生動物の調査にはうるさい課なので」ライルが笑って答えた。「三年前、俺たちの旅で鍛えられた課です」
クロウが地面にしゃがみこみ、じっと土を見つめていた。「――なあ、この抉れ方。尻尾の一撃にしちゃ妙だな」皆の視線が集まる。「盗賊時代、地面の跡から何が通ったか読むのは得意だったんだ」クロウは指で土をなぞった。「これ、尻尾が一回叩きつけただけの跡じゃねえ。何度も同じ場所を擦った跡だ。……魔獣がここにうずくまって、何かを守ろうとしてたんじゃねえのか」
カリナが、その指摘にはっと目を見開いた。「……鋭いご指摘です。守ろうとしていたもの、心当たりが」彼女はしばし考え、それから静かに言った。「――卵かもしれません。あの魔獣の種は、巣を命がけで守る習性があると、帝国の記録にございます。もし卵があったのなら、話は少し変わってきます」「変わるというと」ライルが尋ねると、カリナは続けた。「単なる人を襲う害獣としての討伐ではなく――子を守ろうとする母の抵抗であった可能性が。だとすれば、被害の性質にも、報酬の算定にも、また違う視点が要るかもしれません」
一同に、しばし重い沈黙が流れた。テオがその地面を見つめ、静かに言った。「……もし、そうだったとしても、僕はあのとき剣を抜くしかなかったと思います。村が燃えていました。人が死にかけていました。……ですが、その事実は忘れずにいたいです。あの魔獣にも、守りたいものがあったのかもしれないということを」その言葉に、カリナは静かにうなずいた。「――良い心がけです。討伐の正しさと命への敬意は両立できます。それを忘れない方が、交渉の場にいてくださって良かった」クロウは、その様子を見て少し誇らしげに頭をかいた。地面の跡一つから、これほどの気づきが生まれるとは、彼自身も思っていなかったのだろう。
検分はさらに続いた。魔獣の牙や爪の残骸。これも討伐の証拠として、また素材としての価値の算定対象として重要だった。「牙は全部で何本、残っておりましたか」カリナが尋ねると、エルナが即座に答えた。「討伐時、四十二本。うち三十八本は、王国の薬師や鍛冶師に素材として譲渡。残る四本は、記録用に保管してございます」
「保管分を見せていただけますか」カリナの求めに応じ、ザイデルが木箱を開けた。中には、大きな牙が四本、丁寧に並べられている。カリナは、その一本一本を手に取り、長さを測り、重さを量り、傷の有無まで確かめた。その手つきは恐ろしいほど丁寧で、一同はただ黙って見守るしかなかった。
「……よろしい」カリナは、ようやく顔を上げた。「四本とも記録通り。齟齬はございません」その一言に、ヴァロがほっと息を吐いた。「三十八本の譲渡先も確認なさいますか」「必要ありません」カリナは首を振った。「四本の現物が正確であれば、記録の信頼性は証明されます。三十八本すべてを追いかける必要はない。それは過剰な検証です」
その判断に、ザイデルが意外そうな顔をした。「――過剰な検証はしないのか。てっきり、一本残らず追及されるかと」「わたくしは正確さを求めますが、非効率を求めてはおりません」カリナは静かに答えた。「サンプルが正確であれば、全体の信頼性は推し量れます。すべてを疑うのは、正確さではなく、ただの臆病です」ザイデルは、その言葉に深く感じ入ったようにうなずいた。「……見習うべき割り切りだ」
昼過ぎ、検分は大きな問題もなく進んだ。だが、最後に一つ意外な発見があった。巣の奥、これまで誰も踏み込んでいなかった岩陰に、古い石碑が埋もれていたのだ。苔むしたその表面には、かすかに文字が刻まれている。
「これは……」カリナが目を見張った。苔を払うと、現れたのは二百年前の条約の境界標――まさに、あの幻の正本の印だった。「まさか、ここに」エルナも息をのんだ。二人は顔を見合わせ、急いで石碑の文字を読み解きはじめた。刻まれていたのは、当時の単位で記された正確な境界線の位置だった。
「……これで、里の単位の論争にも決着がつきますね」ヴァロが興奮気味に言った。「机上の写しの食い違いより、こうして当時のまま残された石の記録のほうが、よほど確かです」カリナは、その石碑をそっとなで、めずらしく柔らかい声で言った。「――二百年、誰にも気づかれず、ここにあったのですね。この巣がなければ、誰もこの山奥まで踏み込まなかった。皮肉なものです。あの魔獣が結果として、二百年来の謎を解く手がかりを守っていたとは」
その夜、宿へ戻る道すがら、カリナは珍しく自分からライルに話しかけた。「――今日は、実り多い一日でした。あなた方の記録の精度、そして王国の自然環境課の仕事ぶり。……見直しました」「あんたの、その割り切りにも驚いたよ」ライルは笑った。「四本確かめて、あとは疑わない。それも立派な判断だ」カリナは少し間を置いて答えた。「正確さとは、すべてを疑うことではない。正しく疑う場所を選ぶことです。……それを忘れかけていました」その言葉に、ライルは彼女が少しずつ心を開きはじめているのを感じた。世界で一番地味な二度目の冒険は、思わぬ二百年越しの発見と共に、次の局面へと進んでいく。




