第61話 金貨とマルク、どちらで払うか。為替の壁、立ちはだかる
両替商の店先は、朝から行列ができていた。壁に掛かった大きな木の板に、その日の相場が書き出されている。『金貨一枚=二十二マルク』。一行は、その数字を見て顔を見合わせた。
「これで、いくらか両替をするとして」ライルが財布から金貨を取り出しながら言った。「馬車代も宿代も、これから全部マルクで払うことになるんだよな」「はい」エルナがうなずいた。「ですが、問題はそこからです。旅の経費を王国に報告するとき――マルクで払った金額を金貨に換算し直さねばなりません。そのとき、どの日のどの相場を使うか」
「相場、変わるのか?」「毎日変わります」メルツが横から口を挟んだ。分厚い両替の記録を抱えている。「今日は二十二マルク。ですが、明日には二十一マルクかもしれず、二十三マルクになるかもしれません。……ここで大事なのは、『いつの相場で換算したか』をはっきりと記録することです。さもなくば――」
「さもなくば?」
「報告する額と実際に支払った額に、食い違いが生じます。相場が日々動く以上、それは避けられません。ですが、その食い違いを、『いつの相場を使ったか』という、たった一行の記録さえあれば、誰にでも説明がつくのです」メルツはそう言いながら、さっそくその日の両替商の相場表を丁寧に書き写しはじめた。「これぞ税務官の腕の見せ所。三年前のわたしなら、こんな面倒事、見て見ぬふりをしていたでしょうな。……今は違います」
両替の窓口で、ライルが金貨を差し出すと、窓口の男はそろばんに似た道具をはじきながら答えた。「金貨十枚。本日の相場で二百二十マルク。手数料を差し引き、二百十マルクでございます」
「手数料?」ライルが聞き返すと、男は事務的に続けた。「両替には必ず手数料がかかります。当店では、両替額の五分。……なお、この手数料の扱いについては、隣の窓口で別途ご相談を」「隣の窓口?」「税務上の扱いが違いますので」
一行は顔を見合わせた。両替一つに、また次の窓口が待っている。三年前の王国でのたらい回しの記憶が、ふとよみがえった。「……また始まったな」クロウがげんなりとつぶやいた。だが、その声にはどこか諦めではなく、慣れた余裕すらあった。「まあ、いいさ。俺たちゃ、これに慣れてる」
セリカが両替商の壁の相場表をじっと見つめていた。「ねえ、気づいた? この相場表。昨日と今日で随分動いてる。金貨一枚、二十マルクから二十二マルクに」「本当だ」ミラも覗き込んだ。「これほど日々変わるものを正しく記録するというのは……考えてみれば大変なことですね」「そうなの」セリカはうなずいた。「わたしたちの旅は、十日、二十日と続く。そのあいだ、毎日相場が動く。……もし記録をいいかげんにしたら、最後には帳尻がまるで合わなくなるんじゃない?」その指摘に、メルツが大きくうなずいた。「まさに、その通り! セリカ殿、なかなか鋭い目をお持ちだ。だからこそ――」
隣の窓口では、両替の手数料が王国の経費として認められるかどうかが話題になった。「両替の手数料は、旅費の付随費用として認められます」と、窓口の職員はあっさり答えた。「ただし――両替を必要以上に繰り返した場合は、その過剰分は認められません」
「必要以上というと」「たとえば、少額を何度も両替すれば、そのたびに手数料がかさみます。まとめて一度で両替すれば、手数料は一回分で済む。……無駄な両替回数は、正当な経費とは見なされません、という意味です」
エルナは深くうなずいた。「これは王国の規程にも通じる考え方です。『必要最小限の支出であること』。国が違っても、税の根っこにある考え方は驚くほど似ています」その言葉に、メルツが我が意を得たりと目を輝かせた。「その通りです! 税とは、国境を越えて通じ合う普遍の理屈があるのです。……いやはや、帝国のこの精緻さ。惚れ惚れいたしますな」
「メルツさん、さっきから帝国、帝国ってうれしそうだな」ライルがからかうように言うと、メルツははっと我に返り、咳払いをした。「し、失礼。……ですが、認めましょう。この精緻さに、わたしは心を躍らせております。三年前、わたしは王国の決まりを盾のように振り回すことしか知りませんでした。ですが、帝国のこれを見ていると――決まりとは、本来これほどまでに緻密に作り込めるものなのだと、目から鱗が落ちる思いです。負けてはいられません。王国に帰ったら、わたしももっと精緻な税制を組み立てて見せます」その意気込みに、ライルは思わず笑った。「あんた、本当に税が好きなんだな」「好きです」メルツは臆面もなく断言した。周りがどっと笑いに包まれた。
窓口を離れた一行の財布には、それぞれ几帳面に両替の記録が収められていた。相場、日付、手数料、その扱い。一枚、また一枚と増えていく書類の束を、ヴァロが丁寧に束ねていく。「――これで、また一つ片づきました」ヴァロは満足げに言った。「三年前は、これが途方もない苦行に思えました。ですが今は――むしろ、パズルを解くような面白さすら感じます」
「お前、本当に変わったよな」ライルがしみじみと言うと、ヴァロは照れくさそうに笑った。「この道が天職だと思い知らされました。三年前、旅を妨げようとしたあの日のわたしには、想像もつきませんでした」その静かな述懐に、一同は温かい沈黙で応えた。
両替商を後にして街を歩きながら、テオがふと尋ねた。「……こんなに細かく決まりを追いかけて。疲れませんか、皆さん」「疲れるさ」ライルは笑って答えた。「でもな、テオ。この細かい一つひとつの積み重ねが、最後には大きな話し合いを支えるんだ。金貨一枚の換算をいいかげんにする奴が、国と国の大きな約束をまともに結べるはずがない。……小さいことをちゃんとやる。それが大きいことを成し遂げる唯一の道なんだ」テオは、その言葉を静かに胸に刻んだ。
三年前、大魔獣にたった一人で挑んでいたころの自分なら、こんな地味な話に耳を傾ける余裕などなかっただろう。だが今は違う。小さな数字の一つひとつにも、世界を支える重みがあるのだと素直に思えた。街の向こうには、明日訪れる両替商の本店――そこでの最後の確認が待っていた。振り返れば、セリカの何気ない一言が、この日の両替の記録をより確かなものにしていた。魔法使いの目もまた、細部を見逃さない。三年前と同じように、旅の力は一人だけのものではなかった。




