第60話 帝国の領収書には、判子がない。代わりに「個人番号」があった
国境の行政都市に宿を取った翌朝。エルナは、前日の宿代の領収書を確かめて、小さく首をかしげた。
「……この領収書、判子がございません」彼女は宿の主人に尋ねた。「王国では、店の名や屋号の判を押していただくのが習わしなのですが」「判でございますか」宿の主人はきょとんとした。「そのようなもの、帝国では使いません。ほら、ここにわたくしの番号が」
主人が指したのは、領収書の隅に記された七桁の数字だった。『三一四七二〇八』。「これが、わたくしの個人番号です。帝国の民は、生まれたときに一人ひとりこの番号を与えられます。取引には必ず、この番号を記す決まりでして。……この番号一つで、わたくしがいつ、どこで、何を商った者か、財務省の台帳と照らし合わせれば、すぐにわかります」
ライルは思わず目を丸くした。「判子より確かなのか、それ」「ある意味では」ザイデルが感心したように領収書を覗き込んだ。「番号は書き換えが利かん。誰かが屋号を騙って、偽の判を押すこともできん。……効率的な仕組みだ。監査官として、正直うらやましい」「見た目より、ずっと厳格な仕組みね」セリカもしみじみとうなずいた。
クロウだけが、どこか落ち着かない様子だった。「……でもよ。生まれたときから番号がついて回るって、なんか息苦しくねえか。俺なんか盗賊やってたころ、名前もいくつも使い分けてた。番号一つで身元が丸わかりだなんて、考えただけでぞっとする」「その後ろめたさがあったからこそ、あんたは変われたんじゃない?」セリカが軽く混ぜっ返すと、クロウはばつが悪そうに頭をかいた。
その日の昼下がり。一行が街の市場を通りかかったとき、小さな揉め事に出くわした。粗末な身なりの若い男が、露店の主人と言い争っている。「頼む、この薬草だけ売ってくれ! 金はちゃんと払う!」「番号を教えてくれなきゃ、売れない決まりなんだ! お前さん、番号持ってないだろう!」
エルナが思わず足を止めた。「――どうしたのですか」露店の主人が困り顔で説明した。「この人は隣国からの流れ者で。帝国の個人番号を持ってない。番号がないと、正式な取引の記録が残せない。……いや、薬草くらいこっそり売ってやってもいいんですが、あたしも無登録の取引が見つかりゃ、罰金でしてね」
若い男はうなだれた。「母が熱を出してるんだ。この薬草が要る。……でも、俺には番号がない。生まれた村が、もう地図にもない辺境の村で。番号をもらう手続きすら、踏んだことがない」その声には切実な響きがあった。
エルナは、その若者の顔をじっと見つめた。かつての自分の姿と重なったのかもしれない。孤児であった、あの日の自分と。あのとき、王国の財務課が拾ってくれなければ、自分もまた、この若者のように決まりの外側で途方に暮れていたかもしれない。番号も後ろ盾も、何一つ持たなかったあの日の自分に。
「――失礼ですが」彼女は静かに声をかけた。「番号を持たない方は、この国ではどうやって暮らしを立てておられるのですか」
「日雇いの力仕事とかな」若者は力なく笑った。「番号がなくても雇ってくれる物好きな親方も、いるにはいる。でも、店で正式に買い物するなんてのは……こういうときだけ困る」露店の主人も申し訳なさそうに言った。「あたしも意地悪してるわけじゃないんですよ。ただ、決まりがそうなってるんで……」
エルナはしばらく考えてから、自分の財布から薬草の代金をそっと取り出した。「――わたくしが買います。わたくしには番号はございませんが、この一件の経費として、王国の記録に正しく残します。使節団の視察の一環ということで」露店の主人は少し戸惑いながらも、王国の金貨を受け取った。若者は薬草を抱きしめるようにして何度も頭を下げ、母のもとへと駆けていった。
「……いいのか、あんなこじつけで」ライルが苦笑しながら尋ねた。「はい」エルナは静かに答えた。
「番号という仕組みは、確かに優れています。不正を防ぎ、記録を正確にする。ですが――番号を持たない者が、その仕組みの外側にこぼれ落ちる。それもまた事実です。……王国にも、かつて似たようなことがございました。決まりを整えるほど、その網の目からこぼれる人が出てくる。大切なのは、こぼれた人を見て見ぬふりをしないことだと、わたしは教わりました」
若者が去っていったあと、露店の主人はまだ少し気まずそうにしていた。「……お客さん方が良い人で助かりましたよ。あたしも本当は、あの子に売ってやりたかった。でも、決まりは決まりで」「わかっています」エルナは静かに微笑んだ。「あなたを責めるつもりはございません。あなたもまた、決まりの中で精一杯誠実に生きておられる。ただ――決まりが時々こぼしてしまうものがあるというだけのこと。それに気づいた人が、少しずつ拾っていけばいいのです」露店の主人は、その言葉にほっとしたように肩の力を抜いた。
ザイデルが、そのやり取りを黙って見ていた。「……メモしておこう」彼は懐から手帳を取り出し、何かを書きつけた。「帝国の個人番号制度。優れた点と――抜け落ちる点。協議の場では使わずとも、いつか役に立つかもしれん」その几帳面な書き込みは、単なる監査の記録ではなく、この旅で見聞きしたすべてを無駄にしまいとする、彼なりの誠実さの表れだった。
夕暮れの市場を後にしながら、テオがぽつりと言った。「……王国にも帝国にも、それぞれ良いところと、まだ足りないところがあるんですね。どっちが正しいとか、間違ってるとか、そう単純には言えない」「その通りだ」ライルは若い勇者の肩を叩いた。「だから、俺たちはここにいる。どっちが上か決めるためじゃない。お互いの良いところを持ち寄るためにな」一行の足取りは市場の喧噪を離れ、明日に控えた両替の難関へと向かっていった。市場の喧噪が遠ざかるころ、メルツがふと思い出したように言った。「そういえば、明日は両替の手続きも控えております。帝国の通貨、マルクへの両替。……これもまた、一筋縄ではいかぬ予感がいたしますな」その予言めいた一言に、皆思わず顔を見合わせて苦笑した。国境を越えてから、まだ一日と少し。だが、すでに三年前の、あの地味な旅の手応えが確かに戻ってきていた。




