第52話 「貴国の勇者が、わが国の魔獣を、無断で討伐した」
翌朝、財務課の長机に帝国の書状が広げられた。精読会である。集まったのは、ライル、エルナ、テオ、フェルゼン課長、書式の名手ヴァロ、そして監査室から呼ばれたザイデルだった。
「まず、事実から整理いたします」エルナが口火を切った。「テオ様が討伐した大魔獣。巣は東の果ての山地。討伐の場所もその周辺。テオ様、間違いございませんか」
「はい。魔獣は東の三つの村を焼きました。僕たちは村人の避難を助けながら、巣まで追い詰めて討ちました」テオがはっきりと答えた。「あの山が帝国の領地だなんて、考えたことも……いえ、正直、あのあたりに国境があること自体、知りませんでした。石碑ひとつ、柵ひとつなかったんです」
「それが普通です」ザイデルがうなずいた。「あの山地は長く人の入らぬ土地。国境線は二百年前の古い条約で山の尾根に沿って引かれている――ことになっている。だが、実際に線を見た者はいない。地図の上にだけある線だ」
「では、帝国の主張を分解します」エルナは書状の一枚目を指した。「主張は三つ。一つ。『魔獣の巣は帝国領内にある』。二つ。『よって、討伐には帝国への事前の届け出が必要だった』。三つ。『被害の補償と討伐の費用、報酬の帰属について協議せよ』。……お気づきでしょうか。この三つ、それぞれ別の種類の問題です」
「別の種類?」ライルが眉を寄せた。
「一つ目は『地理』の問題。巣が本当に帝国領か。これは地図と測量で白黒がつきます。二つ目は『決まり』の問題。仮に帝国領だったとして、緊急の討伐に届け出が要るのか。人が襲われている、その目の前で。これは規程の解釈で争えます。そして三つ目が――『お金』の問題。被害は両国に出ています。費用も報酬も絡み合っている。これがいちばん厄介です」
「ふむ……」フェルゼンが腕を組んだ。「地理と決まりと金。三つの結び目が一本の縄になっておるわけか。ほどくには一つずつだな」
そのあいだ、ザイデルは一人、書状そのものを検分していた。紙の質。インクの色。判の押し方。条文の引き方。その目つきは獲物を検分する鷹のそれだった。やがて彼は低くうなった。
「……見事な書状だ」
「ほめてる場合か、ザイデルさん」クロウがいれば、そう突っ込んだだろう。代わりにライルが突っ込んだ。だが、ザイデルは首を振った。「いや、聞け。これは重要なことだ。この書状、条文の引用に一つの誤りもない。要求は過大に見えて、実はどれも法の枠の内側にぴたりと収まっている。脅し文句は一言もないのに、読む者に圧を感じさせる。――これを書いた者はただの役人ではない。規程を武器として使いこなす達人だ」
それまで黙って書状を写し取っていたヴァロが、ふいに顔を上げた。「……差し出がましいようですが、一つ気づいたことが」書式の名手は写しの一点を羽根ペンで指した。「この書状、恐ろしく整っていますが――『相手を怖がらせる』ようにできています。難しい言い回し。細かすぎる条文の引用。わざと圧が出る書き方です。ですが、裏を返せば」彼は静かに続けた。「回答書はその逆で作れます。やさしい言葉で、けれど一分の隙もなく。相手の圧には圧で返さず、正しさと読みやすさで返す。――回答書の書式はぜひ、わたしにお任せください」かつて妨害者として旅を潰そうとした男が、今はその筆で国を守ろうとしている。ライルは頼もしさに深くうなずいた。
「相手の名前は」エルナが静かに尋ねた。ザイデルは書状の末尾を指した。そこには几帳面な、しかしどこか鋭さのある署名があった。――『グランツ帝国財務省・国境経理局・主任財務官 カリナ・ヴェルト』。
「カリナ・ヴェルト……」エルナはその名を静かに口の中で繰り返した。まだ見ぬその書き手の姿を字の向こうに探るように。完璧な書式。隙のない条文。それでいてどこか冷たすぎる文面。この字を書いた人間は、きっと自分と同じ種類の人間だ。そして、だからこそ――手強い。
「あの」テオがおずおずと手を挙げた。「僕、やっぱり責任を感じます。僕が届け出を知らなかったから、こんな大ごとに……。僕一人が帝国に謝りに行けば、済む話じゃないんでしょうか」
「それは駄目だ」ライルがきっぱりと言った。いつになく強い声だった。「いいか、テオ。お前が一人で謝れば、それは『討伐が悪いことだった』と認めることになる。そうなれば、これから先、国境の近くで魔物が暴れても、勇者は剣を抜く前に届け出の心配をしなきゃならなくなる。書類が届くのを待つあいだに、村が焼かれてもか?」
テオがはっと息をのんだ。ライルは続けた。「俺は三年前、教わったんだ。決まりは人を守るためにある。人を守るために剣を抜いた者が、決まりのせいで罰せられる。そんなことがまかり通るなら――それは決まりのほうを直すときだ。だから謝りに行くんじゃない。話し合いに行くんだ。堂々とな」
「……はい!」テオの目に光が戻った。その様子を見て、エルナはそっと口元をゆるめた。かつて紙きれ一枚の前で青ざめていた男が、今は次の世代に決まりとの向き合い方を教えている。三年という月日の確かな重みがそこにあった。
「方針を定めましょう」エルナが一同を見回した。「第一に、討伐の正当性を固める。魔獣の被害記録、村々の証言、討伐の経緯。これは王国側だけで揃えられます。第二に、地理の検証。国境線が本当はどこを通っているのか。古い条約と測量の記録を洗います。そして第三に――」
「協議の場に出向く」フェルゼンが引き取った。「書状でやり合うのには限度がある。相手の顔を見て、相手の机で話す。それしかあるまい。……となれば、誰かが帝国まで行かねばならん」
部屋の視線が自然と二人に集まった。世界でただ一組の「経費で世界を渡った」実績を持つあの二人に。ライルはエルナと顔を見合わせた。そしてふっと笑った。「……なあ、エルナさん。なんだか、こういう流れ、前にもあったよな」「ええ」エルナもめずらしく笑った。「三年ぶりの旅支度になりそうです」
散会のあと、ライルはふと窓の外を見た。「なあ、エルナさん。帝国までの旅……行くとなったら、あいつらにも声をかけていいか。クロウ、セリカ、ミラ。それにテオも」「もちろんです」エルナは即答した。「今回の旅は、前よりも長く険しい。国境の山地は魔物の残党もまだ多い。剣も、魔法も、祈りも要ります。それに――」彼女はふっと目を細めた。「あの賑やかな旅をもう一度、と。わたしも少しだけ思っておりましたので」ライルは破顔した。「決まりだ。久しぶりに全員集合といこう」
その夜、家路につく二人の頭上に東の空の星が瞬いていた。あの星の下に、まだ見ぬ帝国とカリナ・ヴェルトという未知の好敵手が待っている。だが、その前に越えねばならない関門があった。王と諸侯の集う、御前会議である。




