第51話 新人勇者テオの精算中、帝国から一通の請求書が届く
王城の地下二階は、その朝も穏やかだった。
やわらかな灯りの下、職員たちが静かにペンを走らせている。壁には絵入りのやさしい案内。棚には整えられた帳簿。かつて「紙の海」と恐れられた財務課は、今や王国でいちばん人にやさしい役所と呼ばれていた。その一角で、新人勇者テオの経費精算が進められていた。
「――はい、旅の三十日目。宿代、銀貨二枚。領収書あり」テオが緊張した手つきで一枚の紙を差し出す。受け取ったライルが日付と金額を確かめてうなずく。「よし、問題なし。ちゃんと宛名も但し書きもある。えらいぞ、新人。俺が新人のころは一枚も持ってなかった」
「先輩の話は、財務課の語りぐさですから」テオは笑った。「旅の前にみんなに言われました。『領収書だけはなくすな。あの伝説の勇者でさえ、領収書には勝てなかった』って」
「誰が伝説だ、誰が」ライルは苦笑いした。だが、悪い気はしなかった。自分の失敗が次の世代の教訓になっている。三枚に減った精算書。やさしくなった手続き。あの長い旅の実りが、いま目の前で若い勇者を助けているのだ。
「順調ですね」エルナが帳簿から顔を上げた。財務課を束ねる立場になっても、彼女は大きな精算のときは必ず自分の目で確かめる。「テオ様の精算、あと三日分で完了です。旅の後半から領収書を集めはじめたご判断、賢明でした。前半の分も支払証明でほぼ埋まっております」
「ありがとうございます。……正直、魔獣と戦うより緊張しました」テオが肩の力を抜いた、そのときだった。
階段を駆け下りてくる慌ただしい足音が響いた。転がり込んできたのは、王の側仕えの文官だった。顔が真っ青だった。「し、失礼します! 財務課に至急確認いただきたいものが……帝国から書状が届きました。それが、その、宛名が――『貴国、財務担当部局、御中』と」
文官が震える手で差し出したのは、一通の豪華な書状だった。分厚い上等な紙。深紅の封蝋には、見慣れない鷲の紋章。東の大国――グランツ帝国の国章だった。財務課が、しんと静まり返る。帝国とは長く行き来の少ない隣国だ。その帝国から、王でも外務でもなく「財務」宛てに書状が来た。
「……開封いたします」エルナが静かに封を切った。中から出てきたのは、恐ろしく整った字で書かれた数枚の書類だった。彼女の目が一行ずつそれを追っていく。いつも平らなその表情が――途中からわずかにこわばった。
「エルナさん? 何て書いてある」ライルがたまらず尋ねた。エルナは一度深く息を吸ってから、読み上げた。
「『グランツ帝国、財務省より貴国へ。先日、貴国の勇者テオ殿が討伐した大魔獣について、以下の通り通知する。一、当該魔獣の巣は帝国領内に位置する。二、よって、当該討伐は帝国への事前の届け出なき無断の討伐である。三、当該魔獣に関わる被害の補償、討伐に伴う費用および報酬の帰属について、両国協議の場を求める。……四、本書状への回答期限は受領より三十日以内とする』」
読み終えて、財務課に深い沈黙が落ちた。最初に声を出したのは、ライルだった。
「……ちょっと待て。つまり何か? テオは人々を襲ってた魔獣を命がけで倒した。そうしたら隣の国から、感謝状じゃなくて、請求書が届いたのか?」
テオの脳裏に、あの戦いがよみがえっていた。夜空を裂いて飛ぶ山のような影。吐き出される毒の霧。燃え落ちる三つ目の村。テオたちは逃げ遅れた村人を背にかばいながら、三日三晩あの魔獣と渡り合った。仲間の盾は砕け、テオ自身も左腕を深く裂かれた。それでも巣まで追い詰めて、最後の一撃を心臓へ叩き込んだ。あの咆哮が消えた瞬間の静けさ。村人たちの泣きながらの歓声。――あれのどこが「無断」で、何が「請求」なのか。テオにはまるでわからなかった。
「そういうことになります」エルナは書状を机に置いた。「帝国の主張はこうです。あの魔獣の巣は帝国の領内にあった。ならば、あの魔獣は帝国の管轄。それを断りなく討伐した。……言うなれば、『よその家の庭の木を勝手に切った』と言っているのです」
「木って、あれは村を三つ焼いた魔獣だぞ!?」
「はい。ですから、これは言いがかりに近い。……ですが」エルナは書状を指でなぞった。「この書状、書式が完璧です。日付、根拠の条文、要求事項、回答期限。一分の隙もありません。ふざけて寄こしたものではない。帝国は本気です」
テオの顔から血の気が引いていた。「ぼ、僕のせいですか。僕が届け出とかいうものを出さずに倒したから……」その声が震えている。世界を救った英雄が、また一人、紙きれの前で青ざめている。ライルはその姿に、いやというほど覚えがあった。三年前の自分だ。
「テオ」ライルは若い勇者の肩に手を置いた。「お前は何も間違っちゃいない。目の前で人が襲われてた。だから剣を抜いた。それだけだ。届け出がどうとか、国境がどうとか、そんなものは剣を抜く前に考えることじゃない。……考えなきゃならないとしたら、それは決まりのほうが間違ってるんだ」
「ライル様のおっしゃる通りです」エルナもうなずいた。「テオ様の討伐は正当です。それは、わたしどもが証明します。……ただ、この請求書を放っておくわけにはまいりません。回答期限は三十日。それを過ぎれば、帝国は『王国は協議を拒んだ』として次の手を打ってくる。国境の閉鎖。関税の引き上げ。――最悪の場合は」
「ちなみに」ライルはふと気になって尋ねた。「回答期限、三十日って言ったよな。……今回はまだ間に合うんだよな?」「はい。受領は本日。期限までまるまる三十日ございます」エルナが答えた。ライルは深々と息を吐いた。「……三十日もある。なんて余裕なんだ」三年前、「申請期限は昨日でございました」の一言に打ちのめされた男のしみじみとした実感だった。財務課の古株たちがこらえきれず小さく吹き出した。
「戦争か」低い声が割って入った。振り向くと、紙の山の奥から白髪の老人がゆっくりと歩み寄ってくるところだった。フェルゼン課長である。彼は帝国の書状を手に取ると、針のような目で隅々まで検めた。そして長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「……四十年、財務に生きてきたが。他国から討伐の請求書が届くなど――前例がない」
前例がない。その言葉の重さを、この財務課の面々は誰よりも知っていた。前例がないものは規程では裁けない。規程で裁けないものは、人が道を切り開くしかない。フェルゼンは書状をエルナに返すと、静かに告げた。「陛下にお伝えせよ。これは財務課だけの手には余る。――御前会議を開いていただかねばならん」
窓の高いところから朝の光が差し込んでいた。穏やかだったはずの地下二階に、三年ぶりの嵐の気配が立ち込めはじめていた。一通の請求書が国境を越えてやってきた。テオはまだ知らない。この一枚がやがて二つの国の帳簿をつなぎ、世界の決まりを変えていくことになるとは。世界で一番地味な冒険の二度目の幕が、いま静かに上がろうとしていた。




