第50話 「領収書は、ございますか?」
それからまた月日が流れた。
王国の東の果てに、新たな魔物の群れが現れたとき、立ち上がったのは、まだ年若い一人の勇者だった。名をテオという。ライルたちがかつて魔王を討ったように、テオもまた仲間とともに、数か月の死闘の末、その魔物の群れを率いる大魔獣を討ち果たした。世界は再び平和を取り戻した。
テオの凱旋は華々しかった。城下の大通りは人で埋め尽くされ、花びらが舞い、楽団が勝利の旋律を奏でた。子どもたちが、「勇者さまだ!」と駆け寄る。テオは照れくさそうに手を振りながら、白亜の王城へと続く長い階段を上っていった。いよいよ玉座の間で、王から労いと報酬を賜るのだ――そう信じて。
「勇者テオ様でいらっしゃいますね」王城の門で、文官が慇懃に頭を下げた。「はい。陛下がお待ちと聞きました」「その前に、お通しいただきたい場所がございまして」「謁見の前に? なんだ、身を清める間でも?」「いえ」文官は廊下の奥、下へと続く階段を手で示した。「地下二階。財務課でございます」「……は?」
テオは戸惑いながら、その階段を下りていった。上るほどに豪奢になる王城とは逆に、地下へ向かうほど壁は無骨になっていく。だが――かつてとは違うことが一つあった。階段のところどころに、やさしい絵入りの案内板が掲げられていたのだ。『財務課はこちら。手続きは怖くありません。一緒に進めましょう』。テオはその温かい案内に、少しだけ不安をやわらげた。
財務課の扉を開けると、そこは明るかった。かつての息の詰まるような紙の海とは違う。職員たちの顔は穏やかで、壁にはわかりやすい案内が貼られている。奥の机から、一人の女性職員が立ち上がった。きっちりと制服を着込んだ、けれどその目に温かみをたたえた人だった。財務課を束ねる立場になったエルナである。
「ようこそ、勇者テオ様。財務課へ」エルナはやわらかく微笑んだ。「世界を救ってくださり、ありがとうございます。これから、あなたの経費の精算と報酬のお手続きをいたします。――どうぞご安心ください。難しいことはございません。わたしどもが一つずつお手伝いいたします」
テオはきょとんとした。経費の精算。彼もまた、旅の領収書のことなど考えたこともなかった。「あの……領収書というのは」彼が不安げに言いかけたとき、隣の机で書類を見ていた一人の男が顔を上げた。かつての勇者、ライルだ。今は王国財務の業務改善担当として、すっかり板についたその姿で。
「安心しろ、新人」ライルはにっと笑った。「領収書がなくても大丈夫だ。今はちゃんと救済の仕組みがある。やさしいしおりもある。手続きも昔よりずっと簡単になった。――まあ、それでも面倒なこともあるだろうが。そのときは、俺たちが一緒に考える。一人で抱え込むな」彼は立ち上がり、テオの肩をぽんと叩いた。「世界を救うのも大変だったろう。だが、その後始末をまっとうにつけるのも立派な仕事だ。胸を張れ。お前は世界を救ったんだ。報酬はちゃんともらえる。俺たちが保証する」
そこへ奥から、もう一人、白髪の初老の男がゆっくりと歩み寄ってきた。フェルゼンである。今はすっかり好々爺の風情だが、その目の鋭さは健在だった。「勇者テオよ」彼はおごそかに言った。「わしは四十年、この財務課で王国の数字を守ってきた。かつては――頑固一徹で、特例のひとつも認めぬ嫌われ者であった」彼はライルとエルナをちらりと見て、目を細めた。「だが、この二人が教えてくれた。決まりは人を裁くためではなく、人を守るためにある、と。――テオよ。安心して頼るがよい。この財務課は、お前の味方だ」その言葉に、テオは深く胸を打たれた。王国の重鎮が、新参の勇者に「味方だ」と言い切る。それがどれほど心強いことか。
テオのこわばっていた顔が、ほっとゆるんだ。世界を救ったその重荷を、ここで誰かが受け止めてくれる。書類の迷宮で一人立ち往生しなくていいのだ。「……ありがとうございます」テオは深々と頭を下げた。「正直、報酬より書類のほうがこわいと思っていました。でも――ここなら大丈夫な気がします」
エルナとライルは顔を見合わせて笑った。かつて自分たちが立っていた場所に、今、新しい勇者が立っている。だが、その勇者はもう、かつてのライルのように絶望することはない。なぜなら、この地下二階は変わったのだから。人を突き放す場所から、人を支える場所へ。一枚の領収書をめぐる、あの長い地味な冒険が、確かにこの場所を変えたのだった。
「では、始めましょうか」エルナは新しい、たった三枚の精算書を机に滑らせた。かつてライルを絶望させた、十七枚の第七号様式。それはもう、どこにもない。「まずは旅程を覚えている範囲で。曖昧なものは曖昧なまま。嘘だけは書かずに。――大丈夫。一つずつ参りましょう」その言葉は、かつて彼女がライルにかけた言葉と同じだった。だが、その響きはあのときよりもずっと温かかった。
窓の高いところから、午後の光が差し込んでいた。外では勇者テオの凱旋を祝う人々の声が響いている。その声は今度はちゃんと、地下二階のこの場所にもやわらかく届いていた。世界を救うのは剣を持つ勇者だ。だが、その勇者を支え、世界がまっとうに回り続けるように守るのは――こうして机に向かう名もなき人々なのだ。一枚の紙をおろそかにしない。一人のつまずきを見過ごさない。その地味な、けれど尊い営みこそが、世界を本当に救い続けているのだった。剣は魔王を斬る。だが、剣は人々の暮らしまでは守れない。橋を架け、薬を届け、傷ついた者に報い、税をまっとうに回す。その目立たない無数の手続きの積み重ねが、世界を世界として成り立たせている。ライルは剣を置いて、初めてそのことを知った。そして今、その知恵を新しい勇者へと手渡そうとしている。
羽根ペンを手に取るテオの隣で。ライルとエルナは並んで、それを見守っていた。二人の机の上には、いつのまにか同じ帳簿が一冊。公私ともに歩みを共にする二人のこれからの日々もまた、その一ページずつに刻まれていくのだろう。世界で一番地味な冒険は、こうして次の世代へと受け継がれ、静かに幕を閉じる。――いや、閉じるのではない。続いていくのだ。誰かが世界を救うたびに。そして、その誰かが地下二階に呼ばれ、こう問われるたびに。
「領収書はございますか?」




